溶けたい

西野ゆう

物語のある角砂糖

「キミに引っ越してくる気がないのなら、そろそろ限界だね」

「あなたこそ帰ってくる気がないのなら、そろそろ終わりね」

 最後の最後まで本心は言えなかった。

 また自分をキライになりそうだ。誰にも求められず、認められない自分を。

 こういう時は、消えてしまいたくなる。誰の目にも映りたくない。

 死にたいのとは違う。死んでは醜態を晒すだけだ。最悪の醜態を。

 覚悟していたはずの別れで失った水分を、電車に乗る前に補充したくて、エキナカの喫茶店の扉を開いた。場所に似合わず、随分と落ち着いた佇まいだ。

 だが、その店の中にあって、カウンターの上はやけに騒々しい。

 その原因は、四角ではない角砂糖たち。「ギヤマン」と呼んだ方がしっくりとくるような古く小さなガラスの瓶に収められている。

 姿を見られるのを恥ずかしがっているというよりも、遊郭の障壁にちらりと姿を見せているかのように、ガラスを通して角砂糖はその魅力を増していた。

 丸や三角、梅の花、コーヒー豆、星にハート。動物の顔をしたものもある。

 あらゆる形の角砂糖たちが、それぞれの瓶の中で会話をしているようだ。

「ブレンドで」

 カウンター席から正面に見える位置に掲げられた黒板の文字を、私の注文として読み上げた。

「コーヒーだけでよろしいですか?」

 大きなバンダナを緩く頭に被った女性が、私の右手側におしぼりを置きながら訊ねた。

「ええ。コーヒーだけで」

 本当は水だけでいい。透明な水だけで。そうは言いたくても、言えやしなかった。

 ネルの中で蒸されて泡を弾けさせるコーヒーたちの囁きが聞こえる中、私はカウンターに並べられたギヤマンに囚われた小さな物語たちに目をやった。

 この店では、全てが言葉で聞こえるのか、色や香り、味たちが囁き続ける。

「お待たせしました。お砂糖、お好きなものをどうぞ」

 女主人は、マジシャンがテーブルの上で行われる奇術へ客の視線を注目させるように、手のひらをカウンターの隅から隅まで動かした。自分が淹れたコーヒーよりも、誇らしげに角砂糖たちに光を当てているようにも見える。

「物語のある角砂糖」という文字の下に、それぞれの角砂糖の名前と、ワンフレーズが店主の手書きで添えられていた。

 私は「ガーデンローズ」と名付けられている、昔ながらの薔薇の形の角砂糖を手にした。ピンク色をした、可愛らしい薔薇だ。今の私には全く似合わない。

「やっぱり薔薇を選んだ」と言わんばかりの店主の笑みを、私は無視した。

 ソーサーごとカップを寄せると、ティースプーンがカラリコロリと泣く。私はそれをあやすように手に取り、ピンクの薔薇を褐色の湖に沈めた。

「甘い、甘い」

 そう声を泡にしながら、薔薇は沈んだ。

 豪雨の後のように濁り切った湖に飲まれ、あっという間に可憐な花の姿は見えなくなる。

 私は、一度みようとスプーンを薔薇に向かって伸ばしたが、グズリとした感触に薔薇が散ったのを悟り、そのままひと思いにかき混ぜた。

 上り立ち、喧しく騒ぎ立てる香りに、私は向かう場所を失った怒りもろともコーヒーを喉に流し込んだ。

「甘い、甘い」

 溶けた薔薇が、私を笑いながら私になっていく。少し静かになったカップを手に、ギヤマンの文字を読む。

 ――ローズの花弁をよりリアルに再現するため、時間をかけて丁寧に仕上げました――

 だが一瞬で散る薔薇。透明よりも透明な存在になる角砂糖が羨ましくて、私はつい「美味しい」と溢していた。

 透明なくせに、何よりも存在感のある涙と共に。

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溶けたい 西野ゆう @ukizm

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