第8話
尚保君、知ってる?
私、今はもう死んでしまっているみたい。
でもね、出られないの。ここはそんなに居心地が悪くないんだけど、だから出よう、何ていう気持ちすら起きない程なんだけど、でもね。でもね、私は出たい。それでも出たい。ただぼうっと彷徨っているだけなんて耐えられないの。
私は、尚保君に会いたいのよ。
目を開けた時には、何も無かった。
見えるのは白い天井、私は妙に不安に駆られて急いでまわりを見回そうとするんだけど、でも体が動かなかった。石で固まった様にずっと、動くことができなかった。
私はずっと分かっていた。
尚保君がこちらを見ていることも、鶴草さんが来てくれたことも、明美ちゃんが幸せそうだってことも、全部。だけど、もどかしいの。私はどうやっても彼らと意思疎通を図ることができない。ただ、体が全く動かないの。それに、私はまたあの何もない穴ぐらのような場所へと気づけば戻っている。一生懸命底からはい出さなくては、こうやって彼らの姿を見ることすらできない。
ただ、苦しい、という感情はあまりない。そもそも感情がそんなに動くことが無くて、ただ彼らの、尚保君の困った顔を見るといてもたってもいられなくなる。
何とかして、戻らなきゃ。
でも、出来ない。
こんなの、おかしいのに。私はずっとおかしいのに。
誰か、いや誰も、多分助けてなどくれない。人は結局一人ぼっちで生きていくしかないのだ。
そんな時だった。あの人を見たのは、彼女は尚保君の妻だった。
見た瞬間、私は安堵した。ああ、良かった。尚保君の顔がほころんでいる。その顔を見るだけでいつにも増して幸せが増幅していた。
そして、何か、もう全てがどうでも良くなってしまって、その瞬間だった。私はキレイなベッドの上で、手を合わせながら眠っていた。私にはこのまま眠るか起き上がるか、二つの選択肢があったが、最早選ぶ必要すらないと感じていた。
気が付けば、私はずっと眠りにつくことになって、そのままもう起き上がることは無かったのだ。
これでいい、そう思えたから。
「貴子が死んだってホント?」
「ああ。」
私はそれしか言えなかった。明美さんがすごい剣幕でそう聞くから、私も今の落ち込み具合を隠すことができずそう言ってしまった。普段なら、こんなラフな会話は交わさない。
2
「本当。」
「本当?」
明美さんは何度もそう尋ねる。私はその度に本当に死んでしまったことを伝えないといけない。だって、貴子はまず間違いなく死んでしまったんだ。
一番認めたくないのは私なのに、そんなに何度も聞くなよ、そんな身勝手な思いが私を纏わせる。滲み出てきた暗さが、そして目の前で狼狽している彼女を困らせる。そのせいで私は死にたいような絶望的な気持ちを抱えざるを得なくなる。
「分かった、ごめんなさい。こう何度も聞かれたら困るわよね。」
還暦に近づいた明美さんはいい年のとり方をしていた。
傍から見ればすごくキレイな女優のような雰囲気をまとっている。だから、余計私が彼女を苦しめるという構図が、痛々しく感じられる。
私は、女性が困った顔を作るのが、死ぬほど嫌いなんだ。見たくない、見せるな。
見せていいのは、貴子だけなのに。
なあ、貴子。私ずっと貴子のこと考えていたんだ。考えても考えても目を覚まさない貴子のことを、ずっと思ってた。
「尚保さん、もういいんじゃない?」
ある日妻が眉をひそめ笑っていた。私はそれを見て、ああ、またやってしまったのか。また彼女を困らせてしまったのか。私はもう、妻を苦しめないと決めていたのに、また。
「ごめん…。」
自然に出てきた言葉は、だから妻に対する謝罪だった。
3
「傷ついたよな、ごめん。ごめん、知美。」
「何?そんなこと言わないでよ。私達って、そういうジメジメした関係じゃないじゃない。お互いが幸せになるためにこうして夫婦でいるのよ?だから気にすることなんて何一つない。そうでしょ?」
知美の言うことは立派だった。けれど現実はそう甘く、上手く解釈されていくものでは無い。そんなの、知美だって分かっている。だけど、
「泣くなよ。泣かないでくれよ。」
私達はもう人生の半分以上をほとんど生きてしまったのだ。なのに、こんなにも脆くて、切ないのはなぜだろう。切なくなってしまっていいのだろうか、そんなことすらよぎってしまう程、もう本当に恥ずかしい程に私達は酔っていた。
その日は、だから一緒に寝た。
知美は少し恥ずかしそうに震えていた。けれど私はそんなことは分からないといったような顔をし続けて、その場を切り抜けた。
いつにも増して、いやいつもよりずっと、私達は繋がっていた。貴子とは絶対的に違うけれど、私達はお互いが大切でどうしようもなかったのだ。築いてきたものは、脆く儚くなんかなく、そこにただしっかりと座っていた。
しばらくして、私達は離婚を決めた。
もうお互いが切っても切れない縁だということを認めたうえで、一旦自由になってみよう、という決断だった。けれど、私達は一緒に生活しているし、だけど夫婦という決定的な関係が無くなったのだから、私達はお互いを拘束することが無くなり、より一層お互いの存在をありがたく感じるようになっていた。
「私さ、ちょっと鶴草さんに会いに行ってくるよ。」
「分かった、何時ごろ帰れそう?」
「夕方かな?まあ遅くなったら先に色々済ましておいてよ。」
「うん。」
私は知美のすっきりとした柔和な微笑みを見ていると、救われる。私達は、もう救われていないわけじゃない、私達は、もう大丈夫なんだ。
「久しぶり。貴子ちゃんの葬儀の時以来だね。」
「そうですね。」
鶴草さんは、いや田中さんは結婚をして苗字が変わった。田中何て普通な名前、でもそれに見合うだけのありったけの幸せを体から出していた。彼女は、もう平気なのだ。
「会いたいって言ったのはね、貴子ちゃんのこと。尚保君、本当に大丈夫?大丈夫なわけないのは分かってるよ、だってそうじゃない。私だったら絶対にダメ、私は弱いから。でもね、尚保君も弱い人じゃない。私は知ってるわ、だってそういう所を苦しいくらいに好きになったんだもん。でも今思えばまやかしだったわ、今はもうふって鼻で笑っちゃえるから。でも、貴子ちゃんのことは違うはず。あなたは一生笑えない、そういう部分を抱えて生きて行かなくてはならない、知ってるのよ。」
鶴草さんは、ちょっと瞼を下にして、目をそらすことに努めていた。
私達はどうすることもできない、いつまでもずっとどうすることもできないのだ。
抱えていくことしか、できないのだから。
4
結局、鶴草さんはどうなったのか、全く事の顛末を伝えていなかったことに気付いた。
「貴子、あのさ。」
死んでしまった貴子の遺骨に私は語りかける。
「死ぬ前に伝えなきゃ駄目だったんだ。じゃなきゃお前が、納得できないだろ?でもいつか目覚めるって信じてた。だから、その時が来るまではって思ってた。でも、そんな風にしていたらああ、死んでしまったんだ。だから、今言うよ。今。」
貴子が雇った探偵が、私に話しかけてきたのだ。
「あなた、彼女の知り合いなんですか?」って、私は鶴草さんが住んでいる場所なんて知らなかったし、ただ倒れたという貴子が入院している病院まで駆けつけただけだった。
でも、そこには横たわり動かない貴子と、そして探偵がいた。
「…あ、貴子のお知り合いでしょうか。」
口をついて出たのはそんな言葉だった。家族がいない貴子にはこんな老齢の知人はいるはずがないし、でも倒れた貴子を見舞いに来るほど親しい仲、じゃあ職場の関係者だろうか、でも確かこんな人はいなかったはず、そう思っていたら探偵が私の方を見た。
そしてさっきのセリフを口にし、私はただ「そうです。」と答えることしかできなかった。
「じゃあ、知っておいた方がいいと思うんだ。彼女は、誰かのために鶴草さんというね、女性を探していたんだ。…もしかして、あなた?」
急に聞かれ口籠ってしまったが、探偵は「まあどっちでもいいんだ。でも、鶴草さんは知ってる?」
「知ってます、だけど?」
「ああ、そうか。ならいいんだ。」
5
知ってる、もちろん知ってる。
私と貴子は今、鶴草さんのことを忘れようとしているはずだ。完全に消してしまいたい、そういう存在だったはずなのに、何だ?探してる?貴子が、鶴草さんを。
「探してるって、何かの間違いではないんですか?」
私はだいぶ焦っていたと思う。でもその焦りを見透かしたような余裕の顔をしている探偵を見て、私は理解してしまった。ああ、この人は知っているんだ。私が鶴草さんを刺してしまったことを、そして貴子がそれを気にし心を砕いてしまっているということも、全部。
「鶴草さんをね、見つければ全部解決するって彼女は思い込んでいた。正直、私も少し危ない所がある子だなあとは思っていたんだ。だから、謝る。あの子に鶴草さんの様子を見てきてもらいたいって言ったのは私なんだ。鶴草さんは今閉じこもっていて、事情を抱えていて、だから知っている人に助けに向かって欲しいと思っていたから。」
探偵は目線を下げ、でももう一度私を見つめ、そして言った。
「あの子、貴子って子。心を少し、病んでしまっていたんだってね。」
少しじゃない、貴子はずっと一人で、孤独を抱えながら生きてきたんだ。普通の人間が当たり前のように世話をしてもらって笑っている時に、あいつはいつも一人ぼっちで飢えていた。
そんな人間がずっとまともでいられるなんて、幻想だ。誰も救ってくれなかったあいつを、どうしてそんなに強い存在だと思えるのか、分からない。むしろあなただったら、とっくに死んでいたんじゃないか。
私の怒りは矛先を失っている。誰に対する怒りなのか、それすらもあやふやだった。けれど、まず確かなことは私は怒っているということだ。憤っている。だから、
「…すみません。」
目の前の探偵が口から血を流しこちらを見つめながら倒れている。
「君、血の気が多いんだね。ダメだよ、私じゃなかったらダメだった。こんなことしてはいけない、私が教えてあげるよ。」
それから私は、探偵の元でしばらく居候をすることになった。「住みなさい。」と言われたから、それに病気の貴子を抱えていく場所など無かったから、私は探偵に住まわせてもらい、そしてそこから仕事へと通った。真面目な正社員として、働くことができたのだ。
探偵は、しばらくして死んだ。
今思えば彼が教えてくれたことはただ普通の人間がするただ普通なだけの生活だった。けど家族がいない私にとっては全てが新鮮で、新しかった。だから、探偵が死んだときには、不意にボロボロと泣いてしまった。誰にも見られることは無かった。けれど、私ははっきりとこんなにはっきりと探偵のことを大切に思っていたんだと知り、そしてその存在を失ってしまったことがとても辛くて、耐え難かった。
6
私は今、彼女の家の前に立つ。だいぶ時間が立ってしまったように感じる。貴子が壊れてから、鶴草さんが閉じこもってしまってから、多分一年は経過していたのかもしれない。
ドアは開いていた。
チャイムを押したけれど彼女の気配すら感じられない。黙って家に入る程、それまでの意志もなかったからその時は帰ってしまったけれど、今思えば、思いなおせば、やっぱりそんなの無視して彼女にコンタクトを取らなくては、事態は何も解決しないということを悟ったのだ。
「あれ…。」
ズカズカと、いや正確にはだいぶ足音を忍ばせていたと思うけれど、彼女は、鶴草さんは一人、たった一人きりで具合の悪そうな青白い顔をして、ベッド上でぼんやりとしていた。
「ごめん、急に家に入って。私のこと、分かるよね?」
「…うん、分かる。尚保君でしょ。どうしたの?」
「どうしたのって、鶴草さんこそどうしたんだよ。いつも元気だったじゃないか、笑っていたじゃないか、なのに何でこんな場所にいるんだよ!」
私は、少し苛ついていたのかもしれない。だっていつもよりずっと苛ついた声が私の口から漏れて、ちょっと動揺したから。
「何でって、本とか読むんだけどね、何かぼんやりしているのが一番楽なの。ぼーっとしていると心がぐちゃぐちゃにならないから、だからこうやって。」
そう話す鶴草さんはどこか呆けたような様子だった。だから、そうだ。私は意志の無くなってしまった彼女をきちんとここから連れ出して、救わなきゃ。
そう決めたから、私は彼女の手を引いて、急いで外へと出た。そして思ったより抵抗も無くついてきた彼女は、彼女の手は、すごく冷たかった。少し、ゾッとしてしまう程、彼女は弱っていたのだ。
7
「外、久しぶり?」
「うん…。」
鶴草さんが逃げないように、私は彼女の手を掴んで離さないように努めた。
言葉に、人との会話が久しいようなブランクを感じる。彼女は、ずっとあの薄暗い部屋の中でうずくまっていたのだ。そうだ、彼女は、きっと傷ついている。
私は、別に鶴草さんのことは好きでも何でもない。好きなはずはなかった、だって私が幼い頃からずっとそんな感情を抱けたのは貴子だけだったから。もしかしたら、違うのかもしれない。私が好きだ、と貴子に対して抱いている感情は、世間一般の恋人に対するそれとは異なっているのかもしれない。けれど、それしか私は知らない。私が知っているのは、ただ家族のように大事な存在がいるということだけで、それ以外があることなんて分からなかった。
「あのさ、尚保君って、何で私と一緒に居るの?もうどっかへ行っちゃえばいいじゃない。そういうとこだよ、私が尚保君に執着してしまったのは、あなたがそうやって優しいから。私はずっとどうしようもなかったから、だからあなたみたいな人に頼ってしまうの。」
鶴草さんは、少し言葉を取り戻してきたらしい。
たどたどしい言い方だったけれど、声が聞けただけで大丈夫なんだと思えた。
「いいよ、私は鶴草さんの事情を知ったんだ。苦労していたってことも、色々ね。」
「え…?」
余程驚いたのか、大きな瞳を見開いて、彼女は私の方を見た。
「ごめんね、調べたんだ。気になって。」
「別に、私が尚保君に執着していたから、苦しめてしまったから、だから別に、気になんかしてない。全然、気になんかしてない。私のことなんて、最低なんだから放っておいてくれればよかったのよ。なのに。」
鶴草さんの瞳から雫がこぼれた。
表情は無く、苦し気だった。
だけど私は、彼女に何も伝えることはできなかった。
言うべき言葉が、見つからなかったから。
貴子の容態は、一向に回復しなかった。心を病んでしまっただけで、こうもどうしようもない状態になるのかと、私はひどく驚いた。どうやって、どうやれば貴子は世界に帰ってくるのだろう。考えても、分からなかった。日に日に呼びかけても反応が薄くなり、次第に何も無くなってしまった。
「貴子、鶴草さんが、すごく元気になったんだ。やっぱあんなとこにいるべきじゃなかったんだよ。外に出たらすぐ、彼女の周りには人が集まって、みんな彼女を慕ってる。本当は、彼女の居場所はここだったんだ。」
私は目を細め窓の外の空を見る。
貴子は、相変わらず何も口にしない。
けれど、私は髪を触って、それでしばらく肩をトントンと叩く。そうすると貴子は笑顔を見せてくれる。
外の光は相変わらず強く、彼女の顔を照らしていた。
とびっきりの苦笑いを、彼女の刻みつけられたその表情を、ただ輝かせながら光っていた。
「会いたい、でも会いたい。」
たまに呟くこのセリフは、私は貴子の前では言わないようにしていたのに、この瞬間があまりにも美しかったから、つい漏れてしまったようだった。
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