第7話

 私はね、別に良いの。

 全く気にしてなんかいない。

 お母さんは、だって壊れていたから。誰かが匿ってあげなきゃ、だってお母さんが壊れてるって気づいてるのは私だけなんだから、私がちゃんと、私が、私がやるのよ。


 だからかな、私は一人ぼっちで孤独になってしまった。一人で孤独でどうしようもない、こんな状態から抜け出せないの。どうやっても、誰かに助けを求めても、無駄みたい。

 私の声は小さくて、誰にも届かない。

 もう、あんなに私を頼ってた母も父も死んでしまった。死んでしまったのよ。

 それで、どうする?どうしよう。


 ねえ、助けて――

 尚保君。


 彼女が一人ゴチていたのはそんなことだった。

 すごく狭い世界の中でしか物事を考えることができない、典型的な人間になっていた。

 そのせいなのか美しい容貌は黒さをまとい、もうそれは重みでしかないように見えた。


 「鶴草さん、平気?」 

 「………。」

 返事はない。問いかけても彼女はそれに気付かず、どこか遠い場所にある何かを見ているようだった。

1

 生まれてからずっと不幸だったなんて、どうして思ってしまうのだろう。私達は、幸せと不幸を波のように連鎖させながら生きてきたはずなのに、どうして、そんな風に思ってしまうのだろうか。

 「ねえ、尚保君。」

 私は何気なさを装って彼に尋ねる。ずっと傷ついてきたはずの彼に、私はひどく言葉を選びながら語らなくてはいけないと思っている。

 自分ではどうしようもないほど、陶器のように割れやすい心を持っているのだから、なおさら気を使わなくてはきっと即座に割れて壊れるのだろう。

 「何だよ、変だな。」

 彼が素っ気なくそう言うから、笑ってしまった。この人は、何もわかっていない。まるで子供だった。いつまでたっても大人にはなれない子供、馬鹿みたい。

 私は、なんでこの人と離れることができないのだろう、そんなことはもうすでに何度も考えていた。

 でも、やっぱり尚保君は家族だから、だから言うと決めたのだ。


 そして私はどこまでも背負い続けよう。そうすることで、きっと私は大丈夫になるのだから。


 「尚保君、あのね。鶴草さんは生きていたよ。でもね、彼女を刺したのは、尚保君だった。もう知っちゃったの。だから、ねえ。一緒に逃げようか。」

 私にはもう何が正しいのかは分からない。ただ目の前には重くのしかかるような現実があるだけで、私はそれを見ないように目を閉じて、ただ前に進むことにした。そうしていれば、もう何も起こらないできっと救われるんだと、思っていたから。

2

 川沿いは冷たくて、寒い。ずっと海に行かたかった。海なんてずいぶん昔に来たっきりだったから、そのあまりにもな風のくすぐったさに私は少し居心地が悪い。

 「寒…っ。」

 震えながら首をすくめ水面を見つめる彼は、何だか大人っぽい雰囲気を纏っていたけれど、でもその横顔の幼さとそのありのまますぎる自然な動作を隠すまでもなく私には全て見せているという事実に少しだけ顔が引きつり呆れてしまうのだ。

 馬鹿だなあ…。

 私も、尚保君もあまりにも馬鹿で、馬鹿だったから嫌になる。

 尚保君、

 「どこに行く?」

 でも、二人でいれば全部平気になってしまうよね。一人じゃ、大変でどうしようもなかったのに、私達はだから一人っきりにはなれなくて、ねえ。そうだったんだよね。

 私は冷たい水に手を差し出す。触れた温度から現実の厳しさが押し寄せるようだった。

 冷たくて、だからどうしようもなかったのだ。


 「分かってる。」

 私はちゃんと、貴子に伝えていた。なのにさっきから貴子は狂ったように顔をしかめ、泣いている。

 私には彼女を泣き止ますことができない。どうしようもなくできない。だって、多分いつも貴子を泣かせているのは私だったから。

3

 「貴子。」

 呟いてももう返事はない。彼女の心はどこか遠くへ去ってしまったのかもしれない。私が当たり前のように呟く言葉も、もう彼女には届かない。彼女は、夢の中で泳いでいるのかもしれない。そんな風に思わせる、不思議な雰囲気をすでに纏っていた。つまり、貴子は壊れてしまったのだ。いや、正確には彼女の心が限界点を超えて、あふれ出してしまったのだろう。

 原因は、だから私なのだった。

 だから私は貴子の目を見ることができないし、だから貴子の隣に並んで、こうやってぼちぼちと言葉を紡いでいるんだ。そして、何か少しでも引っかかることがあるのだろうか、彼女はたまに目を大きく開けて、水面を見つめている。

 「何か、あるの?」

 「………。」

 分かっている。尋ねても彼女は答えない。当然のことだった。

 貴子も私も、もう還暦を迎えようとしている。貴子はだけど独身で、だから私も独身で、という訳にはいかなかった。

 私はすでに結婚をしていて、もちろん妻もいるし子供もいる。はたまた孫までいるのだ、ここまでくれば何だか私の人生はひどく成功したもののように感じられる。

 でも実際は、私は壊れ始めた貴子を放っておくことができなくて、ずっと世話をしていてでも、妻は私を好いていてくれて支えてくれた。正直、妻のことは大事だが、好きになったことは一度もない。大事と、好きはきっと異なるのだろう。多分、何か少しの齟齬でもあれば離れてしまう様な、その様な結びつきしか築けない。だけどいいんだ。私と妻には家族がいて、幸せだから。妻には妻の幸せがあって、私には私のやるべきことがある。お互いが、きっと満足していられるのなら、それは悪いことでは無いのだと思う。もしかしたら、私の思い違いで、妻の考えは全く異なるのかもしれないが。

 「……ごめん。ちょっと出る。」

 私が体調を崩した貴子から電話をもらったから、急いで支度をして外に出ようとしていた時だった。妻がこちらを見ていて、その顔がひどく寂し気だった。でも私は貴子のことが頭から離れなくて勝手に一人走り出してしまったんだ。

 その時貴子は平気で、少し風邪をひいてしまっているみたいだった。走っている最中には何も浮かばなかったのに、こうやって貴子の無事を確認できると妻の顔が思い浮かぶ。私は、ズルい人間なのだと思っていた。

 後から聞いたら子供が熱を出してしまって、妻は病院へ行くかどうか悩んでいたらしい。それを知った時は、息子にも妻にも、数日顔を向けることができなかった。

4

 私は、鶴草さんを傷つけた。いや、こんな生ぬるい言い方ではきっと許されない。だって私は、鶴草さんを刺したのだから。

 直後は私の方が貴子よりずっとおかしくなっていた。けれど、貴子がずっと側にいてくれて、それで私は回復できたけれど、貴子はダメだった。

 私は分かっていた。

 貴子が壊れやすいということも、当たり前の様にボロボロになるまで力を尽くしてしまうということも、全部。

 だから、ゴメン。

 立ち直れないだなんて、考えられなかったんだ。人を刺してしまった私を貴子はまるごと受け入れてしまった。もちろん、私は体か軽くなったように感じたけれど、そんなのはただのまやかしだった。誰かに負担を預けただけで、消える重さなど何も無かったのだから。

 

 「久しぶり。」

 「そうだね、貴子ちゃんは大丈夫?」

 「ああ、いつも通り。」

 「そう、ゴメンね。」

 彼女はいつも済まなさそうな顔をして、私に会いに来る。本当に済まないのは私の方なのに、歳をとっても相変わらずキレイな彼女は薄っすらと微笑む。

 「夫がね、会いに行きなよって言ってくれたの。対外的には私は何も悪くない、ただ刺されただけの被害者だったから、夫も知らないのよ。何も知らないの。でもね、分かっているみたい。私の脆さと、私の弱さを知っているから、何かあったんだってことはぼんやり認識してる。」

5

 大人になって、もう本当に大人と言っても十分すぎるくらいの年齢に達してみて、私はずいぶん気楽に鶴草さんとは会話ができるようになった。

 最初は、彼女の顔を見るだけでぎこちなかった。私が傷付けられたのはもちろんあるんだけど、ぞれより何よりずっと彼女を傷付けてしまったことに対する罪悪感が私を縛り付けていた。

 「平気よ、私が悪かったの。だからそんな顔しないでよ。」

 きれいな顔を生気がない表情のまま歪めながら彼女は言った。

 でも、そんなの。私の口からは言葉が溢れそうなのに、何一つ形にはならなかった。どうしても、出来なかった。

 「それより貴子ちゃんは?」

 貴子は、彼女に会うことはできなかった。ずっと会わなきゃ、探さなきゃと奔走していたのに、その途中で倒れたのだ。私はすごく驚いて、医者をたくさん探した。だって貴子は内科の薬を飲んでも一向に回復しなくて、手に負えなかったから。

 家族もいないのだから、私しかいない。でも私の身持ちはあやふやでこの危ない状態の貴子を抱え込むことは多分に難しかった。

 親友だった明美さんも、もう子供がいて手が回らないようで、でもたまに見舞いにお金を持ってやって来てくれた。いち主婦としてたいしたお金もないだろうに、彼女はありったけの大金を大切に封筒にしまい手にしていた。

 「それ、どうしたの?」

 私はだから聞かずにはいられなかった。旦那さんが?くれたの?

 しかし、彼女は私が何かを言う前に別の話を始め、毎回すべてがうやむやになって行ったのだ。だから、私は彼女のその気遣いが苦しかった。こんな若くて大変な時期の女性に負担をかけさせているなんて、耐えられなかった。

 だけど、何もできなかった私はそれを甘んじて受け取るしかなかった。

 だから今も明美さんとは、顔を見ることが怖くてあまり会うことができないでいるのだ。

 「貴子、みんなが心配してくれている。だから大丈夫だよ、安心して。」

 その頃の私は妻とだ知り合ったばかりだった。会社に中途入社をして、気を詰めたような印象が強い真面目な女性だった。

 「すごく忙しそうですね。」

 ある日、何気ない風を装って彼女は私にそう言った。でも、その目がなぜか強い光を宿していて、ああ、軽い気持ちで声をかけたのではないんだ、と思っていた。

 何だろう、その頃の私は毎日とても疲れていて、全く思考を働かせる余裕が無かった。だけど、

 「あの、もし良かったら食事しませんか?」

 彼女はいつも少しだけ早く帰る、そういう契約なのだった。つまり契約社員という身分で、あまり正社員である私達とは交流が無かったのだ。なのに、

 「え、でも私は退勤が少し遅いんだよ?それでもいいの?」

 「はい、大丈夫です。私、ずっとお話してみたくて、駄目ですか?」

 駄目だと言ったら死んでしまいそうな目をこちらに向けていて、ちょうど私もその日は早く帰ることができそうだったから少しくらいならいいよ、と言ってしまったのだ。

6

 「やっぱり楽しい。」

 彼女は笑ってそう言った。

 だから、何で?と単純に疑問に思ったし、彼女はよく笑い、よく泣く子だったからでも私も実を言えば楽しかったし癒やされた。

 辛い状況の中で近くから離れず側にいてくれる大切な存在だった。

 だけど、好きにはなれなかった。

 大切だけど好きではない、矛盾しているけれどそれが全ての真実だった。

 何度も会っていた頃だったと思う。彼女が突然口にした。

 「私にはね、好きな人がいたの。でもね、駄目だった。私もその人も完全に好きだったのに、駄目だったの。私が、駄目だから。」

 最初は何のことだろう、と訝しんだ。だって急に言われたってわからない。それって、つまり。

 「だからもういいの。すごく好きで、どうしようもない人がこの世にいることを知っただけで、それでいいの。私には、一生そういう人と一緒にいることはできないって分かったから。だから、でも一人では生きられない。それも分かってるの。だから。」

 「だから私ってこと?ちょうとよく困っていて、話しやすそうだからってこと?」

 私は、多分少し苛ついていた。自分の言葉の落胆を私は感じずにはいられなかった。

 「ごめんなさい。」

 彼女は一言そう言って笑った。

 一瞬笑ったように見えたけど、でも彼女は泣いてしまったのだ。

 私はただ立ち尽くしていただけだし、彼女も自然に泣きじゃくっているだけだった。

 だから、その今の空間には不自然さも不穏も何一つ無くて、だから私達は夫婦になったのかもしれない。

 その自然さの発露が、あまりにもドラマチックだったから。

7

 夫婦って、何だろう。そんなことをずっと考えていた。けれど、彼女と、知美ともみと一緒になったことで、私はその意味を知ることになる。

 例えば、じゃあ貴子と一緒になれたとしたら、多分それはまた違う別個のものになっていたような気がする。でも、確実に共通していることがあって、それは私達は家族なんだという安心感だった。さらに、私たちの場合はそれぞれ本物の恋に破れた事情があって、だからこそ離れることは無いという確信まで持っていた。

 だって、知美は一生私以外の人といることは無いのだろうし、もちろん私もそうだった。貴子は二度と戻らない。もうこの世界で一緒に笑うことはできない、それは、いくら信じたくなくても見ていれば分かることだった。

 「そうかな、きっと良くなるよ。」

 知美だけだった。この状態の貴子を目にしても笑っていてくれるのは。たいていの人間は顔をしかめ、少し目を逸らす。明美さんでさえ最初はそうだった。それ程、貴子は目に見えて心を痛めてしまっていた。

 だから、

 どうか。どうかお願いします。

 どうかお願いします。

 私のせいで傷ついてしまったあの子を、救ってください。

 お願いします。

 

 私は妻とよく旅行へ行った。

 旅行といっても二人だけでぼんやりと歩くのだ。そして、力があるという場所まで行って祈ってくる。それは、神社であったり寺であったり、様々だったけれど、でもどこへ行っても私達は祈り続けた。祈り続けることで、救われたから。

 現実は何一つ一向に変わらなかった。私たちが祈り続けていたことは何も成就せず、何も回復せず、でもそれでも、私達は幸せだった。

 それで、良かったのだ。

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