第4話 

 涼しい風が吹いている。

 風邪をひきたくないから全身をマフラーで覆っている。

 前に同僚から、「お前着込み過ぎだろ?」と言われたことがあって、でも私は寒いと全身が痛くなってくるからこうやって防御を固めるしかないのだ。

 今日は街まで出ることにした。普段は家でデスクワークをしているのだが、あまりにも籠り過ぎて憂鬱な気持ちが抜けなくなりこのままではいけないという危機感を募らせ、一番近い繁華街のカフェへ向かうことにした。

 「ブレンド。」

 一言そう発するだけでこの店の店員はちょうどいい塩梅にさじ加減を加えてコーヒーを提供してくれる。

 そんなの、人によって好みが違うんだから無理だろ、と言われるのかもしれないが、これは事実だ。

 だって、店員は私の幼馴染だから。

 「なあちゃん、いらっしゃい。今日寒いね。平気?」

 貴子は勤めていた会社を辞め30歳の今このカフェの店員として働いている。私はたまにしか来ないけれど、行けばうれしそうな顔をして出迎えてくれる。

 世相は一昔前の男女平等とはかけ離れた、圧倒的女社会からまあまあな均衡がとれた時代へと移り変わっていた。

 この国はあまりにも女性蔑視が激しいと世界から糾弾されていて、その結果として過敏になり過ぎたこともありただ女性が強いだけという生きにくい世の中が発生してしまったのだ。

2

 それでも私は大丈夫だった。貴子さえいれば、心は安らいだ。思えば30になるまで色々なことがあったように思う。

 私は、ずっとしていた貴子との同居を解消し、一人で生きることにした。

 その頃は本当に厳しく、就職口がほとんどなかった。それに誰もかれもイライラと焦っていて、私も自分の進退を急ぎ足で考えざるを負えなかった。

 ずっと貴子が、ゆっくりでいいんだよ、なあちゃんのペースで頑張って、と励ましてくれていて、でもそれはきっと私が毎日リクルートスーツを着て外を歩き回っていることを知っていたからだろう。

 貴子はいつも誰かのことを注視している。普通、人はそんなに他人に関心を抱かない。けれどあいつはいつも笑顔で誰かをずっと見ている。最初は気味が悪いと思っていた。なんでコイツはこんなに私のことを見ているのかって、不気味に思っていた。けれど次第に気付いてしまったんだ。ああ、この子は緊張しているんだって、緊張して怖がっているから周りの状況を把握しようと躍起になっているんだって、分かってしまった。

 これは貴子が、校庭の隅で一人砂いじりをしている時に分かった事なんだ。

 「…はあ。」

 物憂げなため息を漏らしている。そりゃそうか、クラスみんなが校庭の中心で遊んでいるというのに、この女はたった一人、こんな日陰の隅っこでうんこを書いている。女でうんこって、しかもすごく大人しい印象だったからそのギャップに馬鹿らしくなって笑ってしまった。

 「お前、何やってるの?それ、うんこだろ。」

 そうしたら、ビクッと肩を震わせて彼女はこちらを振り向いた。その顔にはただ恐い、という見ているこちらをどん底に突き落とすような恐怖がにじみ出ていた。だから少し焦ってしまって、「いや、あの…。」と困った顔をして言い淀んでしまった。

 「そうだよ。私友達いなくて、仕方ないから男の子が書くようなものを書いてみたの。あんまり楽しくないけど、やってみたら何だか違う自分になったみたいで爽快ね。」

 笑った顔が可愛かった。

 それだけで十分だった。彼女のことを大切だと思い始めるきっかけとしては、この上ないことなのだと痛感した。

 

 それからはたまにお互いを意識するようになって、でも私達はシャイだったから特に何かアピールをするということは無くて、でもお互いがお互いを認識して、強く認識していることだけは分かっていた。

 それが、どういう感情なのかは、未だに分かっていないけれど。



 「尚保君…私。」

 鶴草さんが泣いていたのは覚えている。けれど私には彼女を泣かせてしまった経緯が全く分からない。最近、記憶があやふやで、飛んでしまうのだ。一昨日だと思っていたのに今日になっていたり、本当にめちゃくちゃで、何が原因かは分からなかったが、ただ混乱する頭の中で、目の前に貴子がいるというだけで私は安らいだ。それだけで、本当は良かったのだ。

3

 「なあちゃん、最近忙しそうだね。前みたいにずっと家に籠っているよりは健全だしいいと思うけど、ちょっと心配かな。だって顔色悪いよ?私はこのカフェ、すごく遅くで営業しているわけじゃないし、バランスのとれた生活ができているけれど、なあちゃんは会社員じゃない。やっぱり融通が利かないと思うの、だから疲れたらさ、ここで仕事すれば?なあちゃんだったら、ずっといても店長も何も言わないと思うし、いいんだよ?」

 貴子はちょっと前まではばっちりとしたギャルだったのだが、最近は引くところだけは引く、といった心根で化粧をしている。そしてそれがとても似合っていて、私はずいぶんほだされてしまった。初めて見たのはいつ頃だっただろうか、そうだな。貴子がこのカフェに勤め始めた頃だろうか。その頃の貴子はいつもぼんやりとしていて、会社の仕事も身に入らなかったようで、カフェに勤め始めたと聞いた時はえらく驚いたっけ。だって貴子みたいな真面目な女はずっとどこかの企業で勤めていくものだと思い込んでいたのだ。

 「なあ、お前なんかあったの?会社辞めるなんて。もしかして千田さんとのことが影響してるのか?だってすごく好きだって言ってたのに、何で別れたんだよ。」

 「…そんなの関係ないよ。それにずいぶん前の話じゃない。私もう30になりそうなんだよ?考えなきゃ。それに今いる会社はちょっと業績が悪いの。減益とかならまだいいんだよ?でもね、ずっと赤字なの。もうかばい切れないの。だから多分倒産する。みんなそれを分かっていて、必死に働いているから、私は少しついいていくのが難しくて、だから決めたんだ。」

 「そうなのか。」

 それしか言葉が出なかった。ふにゃふにゃとした豆腐みたいな女だった貴子が、今現実を直視して戦っている。反対して私はずっと腑抜けたままだ。何かをする、という決心がいつもぼやけていて、何もできずに満たされない。私は、駄目なんだ。そう思わされるような、強い感情を貴子から感じてしまった。

4

 ああ、そうだ。

 私はずっとこうやって、貴子と一緒にいたいのかもしれない。思えばずっと、私はいつも願っていたような気がしている。

 「なあ、貴子。」

 「何?何か改まってるね。最近良いことでもあったの?ずっと顔見せてくれなかったから心配してたんだ。どうしたんだろ?元気ないし、何か不安だなって。」

 「………。」

 貴子は取り立てて馬鹿な女なのかもしれない。そう思わせるだけの純粋さがむき出しなのだから。いつもむき出しの感情を世界に晒すから、傷ついて不安になって、耐えられなくなってしまうのに。

 私は分かっていた。側でずっと見ていたからはっきりと、確実に分かってしまっていた。

 「もう一緒にいないか?私達、ずっと離れて暮らす必要なんか無いだろう?付き合うとか、男と女とか全部、私達の間には必要なんか無い。だって、私達はずっと家族だったんだから。家族みたいな存在で、何で離れていなきゃいけないんだ。私は…。」

 気が付けば、貴子が震える顔で私を覗き込んでいた。

 その顔を見た瞬間、私は全身に力が入らないことに気づき、そのあまりにも重すぎる感覚に許容量を激しく逸脱した焦燥感に苛まれているのだと理解する。

 「なあちゃん…?」

 私が目を開けたことに気づいたのだろうか。貴子が不安気な眼差しと声で私を呼ぶ。

 「………。」

 だけど私には、何かを一言でも発する力は残っていないようだった。

 そのあまりにも大きい絶望感が、全身に浸透し痒くなっていく様を、私はただ静かに感じることしか出来なかったのだ。

5 

 「鶴草さんでしたよね。」

 「…そうです。あなたは尚保さん。ちゃんと分かっています。」

 「じゃあ尋ねますけど、何で私をこんな風に監禁して、あなたは泣いているんですか?」

 「私は、別に。ただ尚保さんのことが好きなんです。だから離れたくなくて、そう思っていたら自然とこうなってしまいました。客観的に考えたらおかしいし、私もそれを分かってるのに、止められない。ねえ、私どうすればいいの?」

 鶴草さんは泣き顔がとても美しい人だった。この人の感情をもう扱い切れない、といった切実さを醸し出した泣き方はきっと多くの男の心を揺さぶるのだろう。なのに、あなたはなぜ、私に執着しているのだろう。

 なぜ?

 「ごめんなさい、分かってるんです。でもこうしないといけなくて、だからごめんなさい、尚保さん。」

 彼女は自分の頬に伝う涙にすら気付かず、ぼうっと立ち尽くしていた。そして私を強く縛り、部屋を後にした。

 毎日食事を与えてもらうのだが、何かが混ざっていることは分かっていた。何が混ざっているのかは分からないが、でも良くない何かであることは確かだった。その証拠に私の体はどんどん重たくなってきていて、思考もひどく鈍い。

 鶴草さんが夜やって来て、私に何かを語りかけているけれど、もう私はそれが何であるのかさえ全く分からない。


 「………。」

 「鶴草さん?何してるの?」

 やけに感覚が鋭くくっきりしていることに気付いた。どうやら、私に与えられていた薬が抜けてしまったようだった。ということは、鶴草さんは?私を監禁していた彼女は、どこへ行ってしまったのだろう。

 と思っていたのだ。けれど、目の前には静かに横たわる彼女の姿があり、私は泣くことすらできなかった。だってその姿はあまりにも凄惨に、包丁でズブりと刺されているようだったから。彼女は苦しそうな顔をしていた。一体、何者がこんなことを?

 でも、でも。

 私は冷静になって考えた。

 そして私は自らの手を省みた。省みたんだ、だって真っ赤に染まったこの手が、私が犯人であることを告げているから。それは、そうだ。私は鶴草さんに得体のしれない薬品を飲まされ殺されかけていたのだ。だったら、私がその束縛から逃れるために鶴草さんを自ら手にかけたと考えるのが真っ当なような気さえする。

 「私が…?」

 そして、一目散に向かったのは貴子の店だった。就職したばかりの貴子に私はこんな状態で会いに行ってしまった。そして、貴子はそんな私を見て、真っ赤な血に染まった私を見て、驚いた顔をし、でも普通の顔に戻り、そしてひどく低い声で唸った。

 「尚保君、平気だから。私に任せて。」

 それからのことはよく覚えていない。

 そしてその出来事の後遺症として唯一残っていることが、この、私の記憶の、意識のあやふやさだというだけだ。

 人を殺したのだから、私はこんな状態になっていても、当然だ、と心得ている。

 そして、今はこんな事態に貴子を巻き込んでしまったことを深く反省している。

6

 「貴子。貴子。」

 嫌な夢を見ている。監禁されている。誰に?鶴草さんだろうか。いや、私は誰かに監禁されている。でもその誰かが全くつかめない。私は、今すごく混乱しているんだ。

 つまり、

 「なあちゃん、大丈夫?」

 「……ああ、うん。」

 貴子の突き刺さるような甘ったるい声が私の耳に響く。そして、分かった。ああ、夢だったんだ。全部悪い夢だったんだって。

 貴子とはもう一緒には暮らしていない。暮らせばいい、とかいろいろ話し合ったんだけど、やっぱりお互いは離れていよう、という結論に達して私達は別々のアパートにそれぞれ住んでいる。

 だけど貴子は高校の同級生だった明美という人と住んでいたんだけど、結局明美さんの方が結婚してしまって、「ごめんね、貴子。一人にしちゃうことになる。」と言って泣いていたそうだ。旦那さんがとても太った人で、でも明美さんは女優のような美しい容姿をしていて、私はひどく驚いた。

 「明美ちゃんはね、良い人だから。良い人を捕まえたんだよ。だってそう言ってたもん。旦那はね、すごく良い人なんだって、言ってた。」

 貴子が何か怪訝そうな顔をしている私にそう言った。もしかしたら貴子もなぜこの男の人が、と少し思っていたのかもしれない。

 私と貴子は、一緒に明美さんの結婚式に参列して、でもそのあまりにも幸せそうな雰囲気に、むしろこちらが飲まれそうだった。それくらい、二人は本当に幸せを絵にかいたような空気を醸し出していたのだ。

 「ああ、尚保さん。何か色々あったんだってね、詳しくは知らないけど、しばらく貴子が参っちゃってて、私ずっと一緒に居たんだ。でももう大丈夫そう。貴子、ちゃんと笑えるようになったから。」

 明美さんが式の途中、抜け出して私の元へやって来てそう言った。私は何と返事をすればいいのか分からず、苦笑いが抜けなかった。けれど、

 「そういう所だよ。尚保さんも、貴子も、感情を上手く隠せない所があって、私高校生の頃はそんな尚保さん好きだったんだ。今更だけどね、でも私はああ、旦那に出会うために生まれてきたんだって思える程、幸せ。こんな幸せが世の中にあるってことが、ちょっと信じられない。」

 そう言って明美さんは手を振り帰って行った。

 その姿がとても美しく、私はどこか呆けてしまっていた。

 

 「ねえ、病院行こうか。」

 貴子が突然そんなことを言ってきた。

 「何?何でそんなこと言うんだよ。私がどこかおかしいの、そう思うのか、貴子。」

 そうやって強気な口調で言い募ったら、少し寂しげな顔をして貴子は笑った。

 「うん、そうだね。でもね、尚保君はすごく疲れてると思うんだ。だからちょっと嫌な夢ばかり見たり、意識がぼんやりしていたり、心配なんだ。だから…。

7

 病院なんて、何で?

 私は至ってまともなのに、至ってまともだろう?

 「なあ、貴子。君はそう思わないのか?」

 もしかしたら私は泣いていたのだろうか、何だか声が上手く出なくて、幼い時に泣きじゃくっていた時のあの鼻をツーンとするような変な感覚が私をかすめていた。

 「貴子、私は分からないんだ。何が正解なのか、全く分からない。誰が、何が、一体何をすれば私はいいのだろう。ただ、働いて生きていれば満足できる、そんな人間じゃないんだ。私は、ああ、感覚も随分遠くなってしまって、おかしい。おかしくなってしまった。じゃあ、やっぱり私はおかしいのだろうか。」

 何を言っているのかはもうよく分からない。でも貴子が一瞬ほほ笑んだような気がする。私は、何を見たのだろうか。そこからのことはあまり記憶の中に存在していなくて、だから今がいつなのか、一体全体全く分からない。

 「なあ、貴子。貴子。」

 薄らいでいく意識の中で、何か手に冷たいものが落ちてきた。見たら、それはペンダントで、指輪で、昔私が貴子にプレゼントした数々の品だった。私がめったにそういう贈り物をしないから、貴子は大事そうに抱えてくれた。そうだ、何で?何でこんな所に?だって、ここは地獄じゃないか。

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