第3話
貴子は変な子だよね。初めて会った時からそう思ってた。取引先の会社の受付を務めていて、いつも困ったような顔で笑うからつい目で追ってしまっていた。思えば私は昔からそういう所があったように思う。
大学生の頃初めて付き合った女の子は風俗に勤めていた。ホント、でも可愛かったんだ。あんなに愛らしくて、愛したいと思える子はなかなかいないと思う。だって最近の女の子はみんな何か自立していて、一人でも平気って顔してるから、あなたがいなきゃだめだなんて言う時代錯誤な情熱を持っている子がほかに見当たらなかったんだ。
でもその子はどんどん不幸になっていって、勝手にどっかへ行ってしまった。チラリと私のせいかもしれないと思うこともあったけれど、でもそんな考えももうどこかへと行ってしまったから、今は思い出すこともほとんどない。
「千田さん、おはよう。」
今日は商談があって、貴子の会社へと出向いていた。貴子の会社、貴子が在籍している会社はそう遠くない内に倒産するだろうな、とは思っていた。だけど勤めている貴子にそんなこと言えないだろう?言ったら私はどんな最低な野郎なんだよ。でもさ、私は貴子とずっと一緒に居たいと思っていた。
だってそのくらい愛していたから。
なのに、何で?
私はなぜ貴子に別れを告げられなくてはならないのだろう。
「貴子…。」
最近は寝覚めの悪い夢を見て目を覚ます。というかロクに眠れていない。でも、分かってる。何が引っかかってこうなっているのか、私はきちんと分かっている。
「貴子、ごめんな。」
40を超えてこんな気持ちになるなんて、自分を強く省みる羽目になるなんて、思いもしなかった。
私はつまり貴子を傷付けた。深く深く傷つけてしまった。私の心の中に潜む堕落が、彼女を叩いていたのだ。
私は、人を愛するということを全く分かっていなかった。私は、ずっと昔からそうだったのかも知れない。家族からも、他人からもみんな、愛したことも愛されたこともきっとないのだろう。
今、私はそれを知っている。
私は貴子を、愛していたから。
大学生の頃付き合っていた彼女の話、あれは本当に恐ろしい話なんだ。彼女はほとんど失踪という形で忽然と消えていて、でも前日には私と普通に話していたんだ。なのに、だから。
もしかしたら彼女は彼女が深くかかわっていた闇の世界へと引きずり込まれたのかもしれない。ずっと怖いとぼやいていた彼女の言葉にほとんど耳を傾けず、しらを切っていた。ただ何かめんどくさいなんて言うどうでもいい理由で、彼女を放ったらかしてしまった。
ずっと心にわだかまりが残っていて、ぞれが大きくなっていたのか、見えない所でひそかに育っていたのか、私はまた困ったように眉根を寄せるあの女に似た、どうしようもない寂しさを抱えた女を愛してしまった。
2
「愛なんて、厄介なもの抱えなきゃ良いのよ。」
「そうかな、でも愛って幸せなんだよ。すごく幸福で、多分感じた時には麻薬に溺れている、そんな感じ。この世の中でこんなに良いことがあるんだって、きっと驚くんだ。」
「ふーん、そうなんだ。まあ、アタシは知らないけど、男といると確かに安心するかな…そんな感じ?」
私は適当に笑い、行きつけの風俗店でいつも指名しているリサちゃんに抱きついた。
「それよりさ、いつも何でこんなに払ってくれるの?しかも、あたしに直接、店長にバレたら多分千田さんもヤバいのに…いいの?」
「いいよ。気にしないで。」
「うん…。」
彼女は歯切れが悪そうに微笑んだ。
どんな犯罪者だって、身近な悪人だって、とても幸福な誰かだって、みんな知れば感情のある人間で、だから知ってはいけないんだ。情を感じたらもう終わりだから、それが私の弱点なんだ。
私はもっと冷酷に他人を突き放さなくてはいけない、私は、だって私は。
父親を殺したのだから。
いや、正確には、正確と言っていいのかは分からないけれど、私の記憶の中では、父は私が混ぜた毒を口にして死んだ。
ちょっとずつ混ぜていた毒、でも誰にもバレずなんの問題にもならず、私は今生きている。
父は、もう死んでしまったのだらか、仕方がないけれど、でも。
私はもうずっとロクに眠ることすらできない。これはきっとだから私が受けなければいけない罰なのだと信じている。
私はだからもう、人間なんか信用しないんだ。
そう決めれば、ラクだから。
父は怖い人だった。
いや、今思えばきっと弱い人なのだろう。いつもカリカリしていて、母はおどおどと心を閉ざしていた。もともとは活発だったと聞いたことがあるけれど、私が物心を抱いたころにはすでに母の態度はそれだったのだから。
「お母さん、大丈夫?」
私は一度、小学校から帰って来た時に母に尋ねた。母は体中から震えが出ていて、ああ、きっとまた父に怒鳴られたのだろう、と思い込んでいた。けれどどうやら違っていた。
母は、母の家族に会いに行っていたらしい。私はだって知らなかったのだ。何となく親戚という存在に会ったことが無かったから、まあそういう物なのかもしれないと思っていたが、違う。母は、母はずっと他人から侵害されてきたのだ。ずっと誰かから侵害されていて、でもきっと学生時代の頃は活発だったというのだから、不遜な態度でその不遇の時代をやり過ごしていたのだろう。けれど、結婚した相手が父だ。
また同じような性格を持つ人間から、迫害される。
でもここまでくると母はそういう人を求めているのかもしれない、と思った。無意識のうちにそのような悪意を探し出して、取り込もうと苦心している。父のことも何とか、何とかまともになってくれるわよ、と私に聞かせて語っていた。
でも、違う。
私は分かっていた。だけど口には出さなかった。
父と母は、多分一緒に居るべきではない。個々人が個々人として生きていれば、きっとここまで事態は悪化しなかったのだろう。なのに、二人はともにいることを止められない。
私は分かっていた。もどかしいけれど全部分かっていた。
そして、気が付けば私は父に憎悪を募らせていて、でももうその頃にはその感情を手なずけられなくなっていて、ああ、そうだ。
私はそれで父を殺したのだった。
報い、というものなのだろうか。
貴子を失って、今。私は多分幸せではない。幸せにはもう、なれない。そんな予感が全身を包んでいて、私はひどく呆けてしまった。
もう何もしたくない、その感情だけが私を包んでいる。嫌なのか何なのか、それすらも分からない。
私はきっとどうにかしてしまったんだろう。
そう思って、家を出た。
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