絶望と再起の邂逅
痛みはない。苦しみもない。
ただただ、リュートの胸を掻き毟るような喪失感が腕の断面から疼痛のように全身を這っていく。
もがれたわけではない。千切られたわけでもない。
単純に失われた。
折れるな……。
軋む心臓は諦めろと叫ぶ。
立ってくれ……。
剣を杖のように使い、震える膝を抑えて立ち上がる。意識しなければ、今にも脆く崩れる虚勢だ。
「……ぐっ……そ……」
悪態すらうまく口に出ない。
そうしている間にも、髑髏の尖兵はリュートへ降り注ぐ。狂った重心をねじ伏せるように剣を持ち上げ、ひどく不格好な応戦を試みた。
槍の雨を掻い潜り、前後左右から訪れる死の気配に懸命に抗う。
それでも、リュートは廃都の死骸に近づけない。
刻まれたのは恐怖。五感から襲い来るそれらに対して、リュートは目を背けることしかできない。
「……相変わらず生物特攻が極まってるねぇ。『生きている』。たったそれだけでヤツを相手取るには不利が過ぎる。まぁ……死んでても傀儡か」
蹂躙を特等席で見物する崩皇仙女は、廃都の死骸からの『動くな』の指令に抗えず、つまらなそうに空を仰いだ。
真っ黒に染まった天は太陽を隠し、この特殊な結界内は魔法光のみによって照らされている。
文字通り、一条の光も見えない、届かない。
「……すぐに折れない。ただそれだけで、青少年はよくやったよ」
お世辞でもなんでもなく、今リュートを突き動かす原動力に感嘆の息を漏らす。
廃都の死骸も抵抗を止めないリュートの様子に無貌の顔面を歪ませた。そして、ふと――——先ほどこの場を離れたルルノアを追うように視線を動かした。
「……や、やめろ……っ」
骸骨の群れを辛うじて躱し続けるリュートは、初めて懇願の声を出した。
腕を失ってなお、心を圧してもなお、闘志を繋いでいた彼の見せた綻び。
————廃都の死骸は、嗤った。
顔はない、感情はないはずの悪辣の化身が、その腕をその方角に伸ば――
「——やめろおおぉぉぉおおお゛おおッ!!」
リュートの足が地を蹴った。
屈していたはずの身体が、心が、もう一度躍動する。
蹴散らす、押し潰す。
群がる尖兵どもを片手で封殺すると、その首魁に向かって咆哮する。
「あの人に手ぇ出してみろッ!! 絶対ぇぶっ殺す!!」
できないことなどわかっている。
己の無力など嫌と言う程見せつけられているだろう彼は、それでも叫ばずにはいられない。
がむしゃらに剣を振り回しながら、先程と同じように無謀にも怪物に接近する。
また触れられる。また奪われる。
ほくそ笑んだ廃都の死骸に気付かないまま、リュートは――
「……いっ!?」
急停止。突如として右手を襲った鋭い痛みに髑髏の尖兵を足場に廃都の死骸に近づいていたその足を止め、距離を取るように後退する。
「シャ~~~!!」
「ヨッ、ヨルカッ?」
痛みの正体は、ヨルムンガンドの鋭い牙だ。
切迫した状況にずっと袖の中に隠れていた彼女の怒ったような鳴き声に、リュートは冷や水を浴びせられたように目を見開いた。
(……そうだっ……同じ轍を踏んで右腕まで奪われたらどうするっ!?)
怒りに支配されていた思考を落ち着ける。
「ありがとうヨルカ……」
「シュルゥ……」
自信を案じるようなヨルカの一鳴きに撫でて返すと、リュートはしかし、ほとんど手詰まりの状況に自嘲気味に笑みを浮かべる。
ルルノアは逃げられただろうか?
ほかの生徒は無事だろうか?
俺がこいつを止められなかったら……全員死んでしまうのか?
溢れる思考は凡そリュートをポジティブ方向には連れて行かない。
見下ろしてくる怪物に、リュートの心はまたしても暗く沈んでいく。
■ ■ ■ ■
「はぁっ……はぁ……」
なんで逃げてるのっ……助けなきゃっ。
脳内と心内で氾濫するその言葉を排斥して、ルルノアはひた走る。
あしでまとい……そんなのわかってるっ。
結局自分は、肝心なところで彼の役には立てなかった。
隣を並走するバビロンは、彼の頼みでルルノアを守るように魔物の攻撃を防ぎきる。
ただ走るだけのルルノアを冷めた瞳で見つめるバビロンは、頻りにリュートがいる場所を振り返る。
彼が心配なのだろう。許しがあるなら今にも飛んでいきたいのだろう。
(——考えろっ、考えなさいルルノアッ!)
それでもルルノアは、逃走する。
生きていなければ、打開の手すら考えられなくなってしまう。
そうでなければ……リュートが失われてしまう。
(この状況は一体何!? 魔女関連だとしてもあの怪物は……! 違うっ、今は正体なんてなんでもいいっての!)
喚く。
(今戦ってるのは生徒と教師だけっ……ルクスは何してんのよっ!)
未だ救助の影はない。それどころか――――
「ッ!?」
顔を上げ、空を覆う黒の影に目を凝らす。
そしてルルノアは、足裏に魔法を付加し速度を急激に上げた。
「そうよ、結界ッ!」
救助が入ってこないのではなく、入ってこられないのだ。自分たちが第一学年校舎の講堂で使っていたように。
規模は違うがこの学院は今、隔絶された万魔殿。
だとするならば。
(どこっ……どこ!?)
バビロンが自分を守る間にルルノアは跳躍した。
宙から学院を見回し、必ずある綻びを探す。
(絶対、ある……)
あるはずなのだ。
そう、信じている。
「バビロン……力っ、貸しなさい!!」
「……あと、すうびょうしかもたない」
「充分ッ!!」
「ん」
有無を言わさないルルノアの言葉に、バビロンは頷いた。
「私を連れてって、あそこまで!」
「……わかった」
ルルノアが指したのはヴァルヘイルの正門だ。
バビロンはルルノアの腰を掴むと、勢いよく疾走を開始した。
抱えられたルルノアは全身の魔力を両手に集め、一点特化の魔法を練り上げる。
「——明滅する赫の棘っ、消滅する銀の鎧、壊滅する砦……破滅齎す神銀の槍……我が果てるは――
結界とは、内外どちらかからの衝撃には非常に強く、ここまで大規模になれば他に類を見ない強固な結界であることは自明の理。
だがどんな結界も――内外両方からの一点集中の衝撃には弱いのだ。
空気が詰まった袋を外側から指で押すと空気が分散するのと同じように、結界に張り巡らされた魔力が、その一点にだけ供給されなくなる。
長くて五秒ほどの綻びではあるが、今はその後五秒があまりにも大きい。
「お願いっ!」
ルルノアは、懇願の声と共に、正門に真紅の槍を射出した。
■ ■ ■ ■
「ぐっ、おおおぉぉぉぉぉおおおお!!」
死ぬわけにはいかない。
だが、攻勢に出ることはできない防戦一方。
悪戯に消耗を続けるリュートには、右手の握力すらもうほとんど残っていない。
終われないっ……!
もう、終わりはすぐそこまで来ている。
まだ……戦えっ!
戦いにすらなっていない蹂躙に、リュートはそれでも抗う。
恐らく一か月前のリュートだったら、ここで満足して死を選んでいただろう。
ルルノアを逃がし、笑顔でこの世を去るというおぞましい最期を迎えていたはずだ。
しかし今は、降り注ぐ凶刃を、薙ぎ払われる死の概念を死に物狂いで躱す。
死を実感してもリュートに襲い来るのは自分の命の危機に対する恐怖ではなく、他のすべてが失われることの恐怖だ。
現実は残酷にも牙を剥き、その爪をリュートの命に引っかける。
「ぐあっ!」
一合。
髑髏の尖兵との打ち合いで、限界に達した右手が悲鳴を上げた。
取り落とした剣を拾う暇すらなく――廃都の死骸が、再びリュートの眼前で手を伸ばす。
逃げろっ……無理だっ、終わるっ!
次に触れられれば何が失われるっ!?
そうなったら戦意を保っていられないかもしれない。
笑顔のルルノアが脳裏に浮かぶのは、終焉を察した脳が発する走馬灯か。
無意識に暴れるリュートの身体を意に介すことなく、廃都の死骸はその魔手を彼の心臓に向けた。
「ぁ――――――」
『赫』と『白』の閃光。
魔力の濁流が色を持って髑髏の群れを飲み込んだ。
降り立ったのは、二つの人影。
「——悪ぃリュート。遅れたわ」
「よく頑張りました、流石は
はためく赤髪と、聞き慣れた軽い口調。
冷静な声音の白髪は、いつもの服装とは少し違う軽装鎧を纏っている。
「それでも言わせていただきます。——立ちなさい。諦観は死するその時まで心に押し込み、主のために奮いなさい」
「ちょっ、こんなに頑張った後輩にそれは」
「黙ってくださいダメ魔王。これが私の教育です……ね? リュート様」
あの絶望を前にいつも通りを振る舞う二人は、優しくリュートに振り向いた。
これは絶望と再起の邂逅。
今にも折れかけていたリュートの心身は、再び立ち上がる。
「……魔王に……
その光景を眺める崩皇仙女は、どこか楽しそうに口角を上げる。
対するは廃都の死骸。
並び立つは――——魔王国。
「さぁ、反撃開始と行こうぜ、リュート」
「————っ、はい!」
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