1  フレデリカ・アプリコットという人物


 ーーばちん、という、いかにも痛々しい音が響き渡った。


「ーーフレデリカッ!!」


 呼ばれた『わたし』は、何が起こったかわからないと、ぱちぱちとまばたきを繰り返し、きょろきょろと、目線だけを動かす。

 何が起こったかわからなかったのだ。

 本当に。


「もうやめてください! フレデリカは、まだ四歳なのですよ!!」

「『もう』四歳、だ。そこを退け、アムネジア」


『母』が己に駆け寄る。

『父』が、己を見ている。


 ……母って何だ?

 父って、誰のこと?

 何だ。

 何なのだ。

 なぜ、わたしが『フレデリカ』と呼ばれているのだ。


 目線だけを、必死に動かす。

 きらびやかな部屋。

 これから舞踏会にでも行くのかと言うくらい、豪華かつ繊細な服装の人たち。

 隅でおろおろとしている人たち。

 ……豪華なドレスを身に着けた、わたし。

 誰、誰、誰。


 誰ーーーー……。


「アプリコットの後継として、当然の躾をしているだけだ。退け、アムネジア。お前もまた、痛い目を見たいのか」


 アプリコット……。

 フレデリカ・アプリコット。

 その名。

 その名前だけは、覚えがあった。


 知っているものが何ひとつない、この部屋で。

 その名前だけは。


 何故。

 何故。

 何故…………。



「何で、わたしがその名前で呼ばれてるんだーーーー!!」


 自室へと連れていかれ、ようやく、『わたし』は言葉を発した。わたし、こと、『フレデリカ』。

 フレデリカ・アプリコット。四歳。

 ついでにぶん投げた枕は大きな扉に弾かれ、わたしのこの叫びも、防音完備なこの部屋ではきっと届かない。

 誰に届けたいのか、自分でもわからなかった。


 幼児ひとりのそれにしては、やたら広すぎる部屋。

 壁一面を覆うほどの窓に、続くバルコニー。

 キングサイズの天蓋つきベッド。

 ゆたりと寛げるソファがあって、ローテーブルがある。

 幼児にはまだ早すぎるだろう大きなドレッサーに、ウォークインクローゼット。

 窓近くには小さな猫脚テーブルと装飾の細かな椅子があって、この部屋すべてがわたしのものだと言うなら、それだけでもう泣きたくなった。


 けれど泣けるだけの気力もなくて、『フレデリカ』は、ううう、とその場にうずくまる。

 ……違う。フレデリカは、わたしだ。わたしが丸まっただけだ。

 床一面に広がった幾何学模様の絨毯も、毛足が長くてふかふかで、実に心地がいい。


「嘘」


 と、

 わたしはつぶやいた。


「嘘、嘘。嘘嘘嘘うそよ、これ。だって、何でいきなり、こんな。こんな、そう、こんなこと、小説とかアニメとか、そんなとこでしか見たことないもん。それが、何でわたし。何で、何でこんな、よりにもよって『カベコイ』……。それも、おまけに、まさかまさかの『フレデリカ・アプリコット』……」


 そして、『わたし』は叫んだ。

 それこそ、悲壮感たっぷりに。


「死ぬしかないじゃん! 『破滅フラグ』だよ、そのまんまだよ!」


 フレデリカ・アプリコット。

 本名は✕✕ ✕✕✕。忘れた。忘れてしまった。

 何なら、自分がなぜ死んだかも覚えていないし、どういう生き方をしたのかもまるで思いだせない。

 親の顔も友達の名前も覚えていない。覚えているのは、自分が重度のオタクだった、とか、そんなどうしようもないことだけだ。


 そうだ。

 重度のオタクだった。

 乙女ゲームの信奉者だったし、特に、『壁を乗り越える。恋をする。』というゲームには本当に本当にドハマリしていた。


 だから。

 違う。

 そうじゃなくて。

 ええと、そう、つまり。


 ぺたぺたと、己の顔を両手のひらで擦ってみる。そこには、慣れ親しんだだんご鼻も細い目や眉も黒い天パ髪もなくて。

 目鼻立ちがしっかりと刻まれた顔。

 肌理細やかな肌。こぼれそうなほどに大きい碧眼。高い鼻。さらさらの金髪。


 目の前の、ドレッサーの鏡に映っているのは、そんな、アンティークドールみたいな顔をした自分。


「……うそでしょ」


 そんな、まさか。

 漫画やアニメでは、本当によく見る展開だけれど。だけれども。


「……転生、とか、そういうやつ?」


 まさか、現実で、そんなものを体験できるなんて思わなかった。

 もはや、笑うしか。


    フレデリカ・アプリコットという人物(に、まさか自分がなるなんて!)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る