第3話 殺意上々


――――


 嘘だ、嘘だッ、嘘嘘嘘嘘……。全部、悪い夢だ。カジーク様が家を追い出されてしまったことも、カジーク様がわたしを騙していたなんて言ったことも、カジーク様がわたしなんて要らないと言ったことも、全部、全部全部、嘘だ――。

 目頭が熱くなって視界がぼやける。肺が灼けるような感覚に咽ぶ。水を飲みたかった。全身に汗が滲み出る。足が止まる。気付けば、遠くに街が見える地点まで来ていた。

 振り返って、来た道を見る。カジーク様の姿は見えない。――戻る? カジーク様のお側に居なければ、カジーク様のお側に居たい、そんな義務感と不安感が自然に胸から湧き出でてくる。けれど、それを押しとどめる感触が手にあった。

 奴隷契約書。カジーク様はこれを奴隷商に渡せと御命じ遊ばされたのだ。

 思わず握り締めてしまっていた手の中で、酷い皺が出来ていた。不甲斐無い。それに、カジーク様とわたしの間の品をこんなにしてしまうなんて――。そこまで考えて、また手に力が入りそうになってしまう。

 信じられない、信じたくはないが、カジーク様はあんな嘘を言われるようなお方ではない。

 目に涙が溜まるのを抑えられない。今にも泣き喚いてしまいたい。

 けれど、確かめなければ。まだ、本当のところを確かめたわけではないのだから。何かの間違いかも知れない。それに、カジーク様が御命じなされたのだ。だから、この契約書を届けなければ……。

 涙を拭い取りながら、街への道を辿る。

 二度とあの館へ行くまいとは考えていたが、街への出入りは少なくない。館の場所自体は何となく分かっていた。

 街に入る。人が多いと言っても、都とは違う。カジーク様に連れていただいた時のあの驚嘆は忘れない。あの時の都の情景に比べれば、この街に流れる時間は緩やかで、街を歩く人も、店を構える人も、警邏も、馬や鳥でさえ、穏やかな幸福に浸かっていると見えてしまう。

 それが、今はとても怨めしい。

 こんな、こんな気持ちでわたしが居るのに、何の苦痛も無さそうな奴らが、こんな、鈍器で殴られて頭から血を流しているような最悪な気分でいるのに心配して下さらないカジーク様が、皆、皆、憎く思えてくる。

 奴隷商の忌々しい館に着いた。

 門番へ奴隷商に会わせるよう告げる。契約書にあるカジーク様の名と、この奴隷商の下で契約が成されたことを証する印が通行手形となって、暫時の後、応接間へと通された。

 長椅子に座って待っている間も、肌が貼り付く氷の上に座らされているような、熱された鉄板の上に座らされているような、苛みの感覚が止まない。それはこんな場所に居るからなのか、それともカジーク様の――。

 また涙を隠せなくなる寸前で、応接間の扉が開いた。従者を伴って奴隷商が入ってくる。奴隷商の顔には皺が増え、頭には白髪が目立っていた。わたしの記憶にある姿に比べて、相応に老けてはいたが、始めに相手を疑って掛かるような厭な瞳には変わりが無かった。

「ようこそお越し下さいました」そう言って向かいの長椅子に腰を下ろす。「御用向きは……?」

私は奴隷契約書を差し出す。正確には、二枚目にある、奴隷解放手続きの代行申請書が主たる物だ。

「へえ、へえ……」奴隷商は書面を検める。「受領しました、確かに。今回の場合、代行手数料は契約時にいただいておりますんで、後は全てこちらで遣っておきます。役所の方での処理などありますんで、こちらの奴隷が正式に解放されるのは――」奴隷商は契約書を指す。目の前のわたしが誰だか分かっていないらしい。「まあ明日か明後日になります。それ以上、遅くなるようでしたらこちらからお報せします。それでは今から、代行手続きの受領証を発行してきますので、またもう暫くお待ち下さい」

そう言って奴隷商が立ち上がった。

「待って」

わたしが呼び止めると、奴隷商は怪訝な目を向けてきた。

「あなたには聞きたいことがあるの、今すぐに」

いかにも億劫そうな顔をして、奴隷商は従者を見遣った。契約書を従者に渡し、改めて長椅子に座る。従者の方は部屋を出て行った。

「それで? 何でございましょう」と奴隷商。

「まずわたしが――」声が震えた。真相を聞く恐ろしさ、こいつにわたしが誰だか認識される怖ろしさ。「わたしが誰だか分からない?」

「はて?」

奴隷商は眉間の皺を深くし、片方の中指をこめかみに当てた。こちらを睨んでいるようなのは、ただそう見えるだけか、苛立ちをこちらにぶつけているのか。

「ああ、そうか」暫くして奴隷商が口を開いた。「お前さん、坊ちゃんがいつぞや買っていった耳長族の子供か。ああ、ああ! さっきの奴隷解放はお前さんの分か」

得心がいったらしく笑う奴隷商。

「へえ、坊ちゃんがお前さんを解放ねえ。何かあったのかい?」

黙れ。

「訊いているのはわたし。貴方、わたしが買われた時のことを憶えているかしら」

「お前さんが? ああ、そりゃもう、今し方、思い出したさ。手間だったし、中々面白かった」

冷笑、この瞬間の奴隷商の微笑みは、冷笑と呼ぶに相応しいものだった。氷を飲まされたような嫌な感じが、喉から胸に、胸から腹に溜まっていく。これ以上を聞きたくない。

「それで、それがどうかしたのか?」

奴隷商は何でもないことのように訊いてくる。泣き出したい、逃げ出したい、いつかの、いつものように、カジーク様に慰めていただきたい、カジーク様に守って欲しい。嗚呼、カジーク様が御命じなされたのだ、奴隷商に訊いてこい、と。ならば、訊かなくては、聞かなくては……。

「カジーク様が、私を迎え入れる折、私の虐待を貴方がたに命じたというのは、まことですか」

訊いた、訊いてしまった。どうか、どうか――。

「応よ。ま、正直ガキが何を言い出すんだと思ったなぁ。引き渡しの時なんか台本を渡されたよ。茶番も茶番で、笑いを堪えるのに忙しかったぜ。とは言え? 何だかんだ上手くいったらしいからな。以来、うちではそういう仕込みと小芝居を付けてお客様に提供する商品が出来たんだ。これがそこそこ当たってな。他の奴だったら、所詮は金持ちの道楽と、商機を逃していたかも知れないが、そこはこの俺、ってな感じでな。儲けさせてくれた坊ちゃん様様といった具合で、坊ちゃんに会ったらそこんところ伝えておいてくれや」

呵々と、奴隷商は笑っていた。

「そうですか、ありがとうございました」

立ち上がる。カジーク様、カジーク様……。

「おい、待ちねい。受領証」

どうでもいい、そんなもの。

「必ずしも受け取る必要は無いのでしょう? 手続きも確と終えていただけるものと存じております」

「そりゃまあ、そうだが……」

「それでは私、急いでおりますので、これにて」

「左様で」

奴隷商は肩を竦めた。

 正午の日差しが眩しい。奴隷商の館を出ると、軽い眩暈がした。ここを出て、カジーク様と馬車に乗り込んだ時のことを憶えている。いっそのこと、あの瞬間に戻ってしまいたい。あの瞬間でいい。もう記憶も朧気なかつての故郷、村が襲われたあの日でなくてもいい、カジーク様が居るのなら。

 我ながら、ふらふらと覚束ない足取りで街を出る。ああ、けれど、急がなければ。カジーク様をお待たせするわけにはいかない。何とか足に力を込めて、カジーク様をお待たせしている、あの辻へと引き返す。

 あの辻を踏むのは、ギルデバルトー家に用の有る者か、街に用の有るギルデバルトー家の者くらいで、人通りはほぼ皆無だ。そして、道の脇に藪は茂っているけれど、木々が鬱蒼としてはいない。見通しの良い場所だ。だから、遠目にもその不穏を察し得た。

 人の気配が無い。そこに誰も居ない。

「カジーク様」

辻の真ん中に在って、主の名を呼ぶ。けれど、返って来る言葉は無い。無い、無い、無い。辺りを探すと、脇の茂みにわたしの雑嚢が置かれてあった。それだけが、カジーク様の痕跡だった。

 置いていかれた。

「ブクッ、ククク……」失笑してしまう。「アハ、ハハハ、ハァーハッハハッ……」

可笑しい。酷く笑える。膝から力が抜けて、立っていられなくなる。

「イヒヒ、ヒ、キ、ククク、ヒーッヒヒ……」

笑い過ぎて涙が出てきた。

「ア゛ー、ア゛ーッ!」

笑い過ぎて苦しい。呼吸がまともに出来ない。堪え切れず、狂人のように道に寝転がってしまう。

 それから笑い疲れて小康を得るまで、笑い転げた。誰もここを通り掛からなくて運が良かった。傍目には狂人かさもなくば病人にしか見えなかったことだろう。

 地面に仰向けのまま、空を眺める。ぷかぷかと雲が浮かんでいる。雲は風に流されていた。どこまで行くんだろう。あの方角は、ええと、クリスピローの街か……。

 カジーク様は“勇者”になると仰られていた。そうなると、向かう先は魔境のある都市や街だろう。クリスピローにはアラクレスムの巌窟が在る。アラクレスムの巌窟は、ここから最も近い魔境、そしてクリスピローは近辺で最も栄えている都市だ。流れて住み着くには都合が良い。行く先はそこに違いない。

 わたしは起き上がった。心は決まっていた。

 カジーク様はわたしの人生を弄んだ。返しきれない程の恩も、与えられた寵幸も、あの優しい微笑も、温もりも、愛も、全て偽りだった。身も心も全て捧げてきたのに、手酷くわたしを裏切った。

 許さない。

 わたしの味わった苦痛の、わたしが奪われた時間の、代償を支払わせてやる。殺してやりたい。いいえ、殺すだけでは飽き足らない。嗚呼、いったいどうすれば、この気持ちを僅かにでも晴らせるのか。いいえ、晴らす必要など無い。ただ、わたしの恨みに依ってカジーク様が苦しめばそれでいい。

 掻き毟りたくなる蟠りが胸に膨らんでいる。けれど足取りは異様に軽い。空気の抵抗すら無いようだ。

 苦しんで下さい、カジーク様。そう、きっと、わたしが苦しめてみせます。御身を苛みます。切るのも良いでしょう、突くのも良いでしょう、焼くのも良いでしょう、抉るのも良いでしょう。きっと一生消えない傷を刻んでみせます。心に傷を創ります。貴方が大事にしているものを壊すのが良いでしょう。あ、強姦魔だと言い触らしてみましょうか? わたしを見ただけで平静ではいられなくなるような、そんな、傷を、きっと負わせます。

 そうしたら、死んで下さい。多分それでわたしは満足です。

 急がなくては、貴方が向かったであろう、クリスピローへ……。


――――


 日が暮れてきた。私室にいつまでも籠っていては怒られるのではないかと不安だったけれど、誰も気遣ってくれているらしい。このまま、夕食も部屋に運んできてくれると思う。ただ、いつまでもこうしては居られない。早くいつも通りの私に戻らなくてはならない。そうでなくては、皆に迷惑を掛けてしまう。嗚呼、けれど……。

――やってしまった、やってしまった、やってしまった……。

ふと気を抜けば、後悔と恐怖が、私の足首をがっしりと掴んで、身動きを取れなくさせる。体が震える。襲われた際の心的衝撃も有るだろうけれど、それ以上に、あの人のことが怖い。

 コン、コン、と控えめに扉が叩かれる。

「シズル、今、良いかい?」

アマッカス兄様の声だった。

「はい、構いません」

ベッドに腰を掛けた状態で、アマッカス兄様を迎える。兄様は気遣わしげな目を私に向けていた。

「少しは落ち着いたかい?」

「その、……すみません」

「いいんだ」慌てたように、兄様は言った。「悪いのはシズルではない」

兄様が私の隣に座る。そっと、私の手を、両の手で取った。親指で私の手を摩る。それから、ふっと小さく息をいて、居住まいを改めた。

「夕食は、運ばせた方が良いかい?」

「はい。申し訳ございませんが、そうして下さると助かります」

「遠慮することはないよ」

兄様が私の腰に腕を回す。私は兄様に体を預ける。アマッカス兄様は一番好きだ。どうすれば私を気に入って下さるのか一番分かり易いから。

「それにしても――」兄様が低く唸るような声を出す。「あの下男め、生きていれば私が直々に手を下してやったものを……。死んで逃げ果せおった」

「兄様、それはもう良いのです」死んだ人間には何も出来ないから。「きっと自らの行いを悔いたのでしょう。私はあの者の罪を許そうと思います」

「シズル、お前という者は……」兄様に抱き締められる。「本物の天使だな」

「そんな、兄様、私なぞは……」

兄様に私の顔が見えるように、軽く、優しく、慎重に兄様の体を押し離しながら、照れた横顔を向ける――。内心に焦りが生じた。普段ならここで頬を赤らめられている。けれど、今は出来なかった。あの人への恐怖が、精神を縛めているのは間違いない。

 兄様は私の顎に指を添えて、目を合わさせた。それから真っ直ぐに瞳を見詰めて仰られる。

「謙遜しなくて良い。お前は私にとって、紛れもなく天使だ」

私は目を伏せて、瞳を潤ませる。

「光栄です」

小さく言った。やはり頬に熱が灯らない。それどころか、緊張で喉が乾く。

「兄様」

顔色を悟られぬよう、兄様の胸元に顔を埋める。兄様は再び私を抱いて、ゆっくりと私の頭を撫ぜ始めた。

「兄様」

「なんだい?」

「カジーク兄様は、その――」

「シズル」強い口調で遮られた。「あのような者を兄などと呼ぶな」

「けれど、私にとっては――」

「お前のそれは美徳だ。何ら恥じることはないし、無論のこと、お前自身に怒りも無い。しかしながら、あいつと同列のように呼ばわれるのは、いや、あいつとお前に関わりがあるかのように呼ばわれるのは、極めて不快だ」

兄様は、私の頤を包み込むように掴んだ。強引に顔の向きを変えさせ、兄様の怒気を含んだ表情をはっきりとお見せになった。冷たい手に心臓を掴まれたような緊張が胸に走る。それから、平素の、私を慈しむ際の笑顔になられた。

「それにだ」と兄様。「あの者には義絶が言い渡されている。お前とはもう、正真正銘、赤の他人なのだよ」

「はい、兄様」

私は再び兄様の胸へ潜り込んだ。今日はもう真に迫った表情を作るのは無理だ。

「それで、兄様、カジークのことです」

兄様は溜め息を吐いた。

「あれがどうかしたのか?」

「お父様から、何か伺っておりませんか? 恨み言を言っていたとか、何処其処へ向かうと言っていたとか……」

「いいや、何も。従容として申し渡しを受け入れたそうだ。開き直りでもしたのだろう。何処へ行くという話も無かったそうだ」

「左様にございますか……」

「まさか」兄様の硬くなった声。「手を貸そう、助け出そう、などと考えているのではあるまいな」

「まさか」その逆だ。「そんな、まさか……」消え入りそうな声で言った。

「本当か?」と兄様。

「私はあの人が恐ろしいのです。今も何処かに居て、ひょっとしたら、私をまだ狙っているのではないかと思うと……」

「嗚呼、シズル」

兄様の腕に力が籠る。

「そんな心配はしなくても良い。私がどうにかしてあげる。……何かあれば、必ず私がお前を守るよ」

「お願いします、兄様」

兄様から体を離して、代わりに兄様の手指に自分の指を絡める。それから身を乗り出すようにして、兄様の頬に口付けた。笑顔を作る。

「兄様のお陰で元気が出てきました。少しお腹も空いてきたようです」

「そうか、では夕食を運んでくるよう言ってくる」

「そんな、兄様にそのようなことを……、私が自分で言います」

「良いのだ。お前はもう少し休んでいなさい」

少し躊躇ってから――。

「分かりました。本当にありがとうございます、兄様」

斯くして、アマッカス兄様は部屋を出た。

 私は深呼吸をして、ベッドに倒れ込む。

――やってしまった、やってしまった、やってしまった……。

後悔も、恐怖も、些かも変わりない。事態には何の変化も無いのだから。アマッカス兄様は本当にカジークをどうにかして下さるだろうか? してくれるだろう。少なくとも何か手は打つ筈。今はそれに期待するしかない。

 やってしまった、私は、遂にやってしまったのだ。

 カジークを恐怖するようになったのはいつの時分からだったろう。多分、この家の住人たちが、家族達が、カジークではなくシズルを、わたしを褒賞するようになってからだ。親に、里に、他人の全てに裏切られたわたしは、幸運にも齎されたギルデバルトーという別格の居場所を、決して失いたくはなかったし、今だって失いたくなどない。だから懸命に努力してきたのだ。勉学も、作法も、人心掌握も、わたしに出来る何もかもを。それが裏目に出るなど思いも寄らなった。

 わたしは養子で、それも気紛れに拾われただけの存在だ。後で調べて判ったが、わたしが公的にギルデバルトーの養子となっていたのは、拾われてから四年近くも経ってからだった。お父様も始めは、捨て犬を拾うのと大差無い意識で、いいえ、もっと粗雑で酷薄な感情で、わたしを拾ったに違いない。それこそ、実験動物にしても構わなかった筈だ。この家に初めて来てからの一年は、ただ生き残るのに必死だった。母様には露骨に嫌悪を向けられたし、兄様には関わり合いになるまいとばかりに避けられていた。姉様には存在そのものが無いかのように扱われていた。わたしは只々機嫌を損ねまいと、その日の餌を取り上げられまいとして、家人の言い付けに従っていた。

 だから最初は、カジーク兄様のことが好きだった。カジーク兄様だけが、わたしを人間並に扱ってくれたから。本当の妹のように扱ってくれたから。本当に頼りにしていた。

 勉強で成果が出せたのも、カジーク兄様が付きっ切りで見てくれたお陰だ。人付き合いだってそうだ。始めの内は、誰との遣り取りでもカジーク兄様が緩衝をしてくれた。カジーク兄様のお陰で今の私が在ると言って良い。

 けれどいつからか、わたしはカジーク兄様の能力を超えてしまった。何をしても何をしても、カジーク兄様はわたしを下回った。わたしはそれが恐ろしかった。お父様も、母様も、アマッカス兄様も、クロナ姉様も、皆優秀で、しかも特に秀でた部分を有していた。けれどカジーク兄様だけは違った。全てがわたしの能力以下で、一芸に秀でてすらいなかった、わたしと同等以上の教育を受けていた筈なのに、カジーク兄様に手を抜いている素振りは無かったのに。わたしが気紛れのように試験で手を抜いても、カジーク兄様は決してそれを上回らなかった。常に確実にわたしの一歩か二歩は後ろに居た。わたしは一度だってカジーク兄様を下回れなかった。次第に家族はカジーク兄様に愛想を尽かし始めて、その代わりと言わんばかりにわたしを可愛がり出した。わたしは家族に好かれるように、認められるよう努力した。家族に認められることは嬉しかった。居場所を得ることは幸福だった。けれど、その承認が強固になればなる程、その幸福が大きくなればなる程、わたしの恐怖は膨れ上がった。わたしの居場所は、元々カジーク兄様の居場所だったからだ。

 十二歳、誕生日のお祝いに、今も使っている、それまでより大きな私室を贈られた。わたしは大喜びしてお礼を言った。何度も、何度も、カジーク兄様に。だって、この部屋は、元々カジーク兄様が使っていた部屋だったからだ。

 恐ろしかった。

 笑顔で「嬉しそうで良かった」と言うカジークが。わたしが使っていた部屋ですらなく、もう一回り小さい、蜘蛛の巣を払われたばかりの空き部屋を宛がわれ、それを平然と受け入れているカジークが。

 もう家の誰も、カジークを敬ってなどいなかった。――いえ、カジーク個人の奴隷らしい使用人はそうでもなかったようだけど、それは唯一の例外だった。――それ程までに、徹底的に、残酷に、居場所を奪われ、カジークはわたしをどう思っていただろう。想像するだに恐ろしい。元は赤の他人だったわたしだ。粗末に扱われていたところに手を差し伸べてやったわたしだ。そんなわたしに居場所を、家族の愛を奪われ、恩を仇で返され、恨みは骨髄にまで達していたことだろう。いつか、機会さえあれば、復讐しようと考えていた筈だ。

 カジークの外出が増えた数年は、きっと復讐の準備をしているのだろうと、本当に恐ろしかった。他の者にするように、必死に、必死に愛想を振り撒いたけれど、カジークには何の変化も無かった。そもそも、カジークは他の者と違って、わたしに何を求めているのか分からない。そう、それは恐らく、わたしに何も求めていないからなのだ。ただ復讐だけを思っているから。

 そしてここ最近は外出の様子がめっきり減って、散歩くらいはしているようだったけれど、家に居る日の方が多かった。いよいよ復讐の準備が整ったのだろうと感付いた。ひょっとしたら、キルケル女学院への出発に合わせて企んでいるのかも知れない。そう思うと、恐怖心が弥増した。

 そんな折だった、わたしが襲われたのは。

 始めは本当に復讐が始まったのだと思った。これが最初の一手なのだと。けれど、カジークはわたしを助けに来た。或いは、あれは演技だったのかも知れない。わたしを窮地に陥らせ、それを助けて、油断させようとしていたのかも知れない。ただ何にせよ、あの場でカジークがわたしを助けたということ自体は事実だった。事実だったのに――。

 わたしは、やってしまったのだ。

 わたしはカジークが犯人と共謀していたと嘘を吐いた。もしそうでないと明らかになっても、あの時なら気が動転していたという言い訳で事足りると考えたから。そうして、その讒訴は、嗚呼、讒訴は、まんまと成功してしまったのだ。

 わたしはカジークから、最後の居場所、断崖の縁のような、最後のよすがまでカジークから奪ってしまったのだ。

 きっとカジークは今、わたしへの憎しみを新たにしているに違いない。最早、カジークがいつわたしを殺しに来ても驚くには値しない。カジークが生きている限り、わたしに絶対の安寧は無いのだ。


――――


 シズルの部屋へ夕食を運ぶよう使用人に言い付けて、自室へ戻る。扉の鍵を締めた。

「シズルをああも怯えさせるとは、愚弟と呼ぶのも烏滸がましい、あの下衆めが……」

灯りを点けていない部屋を見渡す。暗く、録に見えたものではない。見えたものではないが……。

「バズモよ、居るか?」

「ここに」

呼び掛けると、闇の中から浮かび上がってくるように、小柄な男が進み出てくる。しかしその闇への溶け込みようと言えば、体の輪郭をまともに捉えられぬ程である。顔すらも輪郭が朧気であり、人相も判然としない。その理由は、光を吸い込むようなカヅテトラス絹糸製の黒い装束と、黒々とした髭、眉、髪をふんだんに蓄えたことに拠る隠蔽効果である。

「カジークが放逐された件については知っておるな」問う。

「館中の噂になっておりますれば……」

バズモの掠れたような低い声は、部屋の外に漏れ出すことがない。

「貴様に、カジークの暗殺を命じる」

「宜しいので? 父御の御意向は……」

「フン――」思わず憤懣が漏れる。「恐らく父上は、頃合いを見て奴に便宜を計るだろう。義絶したと言っても口だけだ。正式な手続きを進めてはおらぬし、進める気も無い筈。あれで身内には甘いからな。シズルがキルケルへ入寮した辺りか、それかそこからもう暫く経ってから、奴を拾って別邸にでも住まわせるつもりだ」

「で、あれば、弟御の暗殺は――」

「あれはもう弟ではない」

「……失礼。カジークの暗殺は、父御の御意向に反しまする」

「今、言った、父上のお考えは、私がそう思う、というに過ぎぬよ。現実には奴めが罪を問われ父上に義絶を申し渡されたという事実が有るだけだ」

「それでは、暗殺の期限は、父御がその御意向を明らかになさるまで、というわけですな」

流石に察しが良い。

「言うまでもないが、カジークの行く先については、或る程度は見当が付く。先ず考えられるのは近場の街や村だが、奴に欠片でも羞恥心があればむしろ寄り付くまい。我が家の使用人が頻繁に出入りするうえ、商売や陳情にこの宅へ来る者も少なくない。後ろ指差されるのは想像に難くない。まあ、あの愚物のことだからどう出るかは断言出来ぬが、少しでも物を考える頭があるのなら、向かうのはクリスピローだろう。あそこであれば幾らでも人中に紛れることが出来ようし、何かしら仕事にありつくことも出来よう。最悪、魔境もあることだしな。父上もそう思惑されているだろう。クリスピローであれば、父上があれこれと手を回すのも容易だからな」

「御意。それでは行って参りまする」

「うむ、資金は必要なだけ持っていけ」

バズモは音も無く闇に消えた。

 部屋の灯りを点ける。部屋に人の気配など無い。バズモの存在がまるで妄想であったかのようだ。

 パモヌズス・バズモ。奴はかつて王都で拾った暗殺者だ。雇い主に裏切られ窮地に陥っていたところを助けた縁で、側仕えとした。奴は命令が無い限りは常に私の側に侍っているが、その存在を知る者は、この館にすら私以外存在しない。隠密の達人、故に暗殺の達者。勝負はバズモがカジークを発見出来るか否かに掛かっているだろう。見付かりさえすれば、賊の仕業とでも見せ掛け難無く始末する筈だ。

 椅子に座る。実の弟の殺害を希求する私は邪悪か? 否、奴は強姦魔であり、私の愛する最も大切な者を深く傷付け、その懲罰すら適当ではない。しかもシズルの言うように、まだシズルを狙っていても不思議は無いのだ。恐らく、奴は自分の無能を棚に上げ、自分より優遇されるシズルを逆恨みしている。そのうえ、シズルに懸想すらしているのだ。その感情が今回の事件に繋がったのだろう。故に奴を完璧に排除することは、極めて妥当なことであり、シズルの幸福には不可欠なことなのだ。

 これ以上は考えても仕方無い。バズモの腕は一流。今はただ朗報を待つばかりだ。


――――


 俺はうたた寝していた。

「お客さん、着きましたぜ」

「ん、ああ? どうもどうも」

馭者に声を掛けられて目が覚める。思いっ切り背伸びをすると、体からポキポキと音が鳴った。周りはすっかり暗い。幌を開けて外を覗くと、車庫の壁。粗末な木造だ。馬車を下りて通りに出る。平素な民家から、ぽつりぽつりと、灯が漏れていた。馭者は馬を裏手の厩へ連れて行っている。併設されている二階建てのこの建物が、馭者の言っていた宿らしい。

 ここはウィンタージ。アマリデモへ通じる中規模の村だ。アマリデモへの中継地点として利用されているそうで、駅馬車もその都合に依って設けられている。お陰でクリスピローから何度か馬車を乗り換えてここまで来られた。

 尋常ならギルデバルトーを追放された俺は取り敢えずクリスピローに滞在するだろう。周辺の街や村に居ては体裁が悪いし、クリスピローは色々と都合が良いからだ。しかし、クリスピローに居たくない理由が二つ有った。一つ目、クリスピローはギルデバルトーの名と顔が利く。下層、一般庶民にはまず利かないだろうが、あそこの名士とか鼻の利く商人にはかなり利いてしまう。それでは父上たちに――おっと、グレイウス様たちに迷惑を掛けてしまうかも知れない。二つ目、クリスピローに在る魔境は巌窟だ。俺は狭くてじめっとしてそうな所はあまり好きじゃない。それにあそこの魔境は探求されてきた期間も規模も長く大きく、他の魔境と比べて安全と言えば安全だろうが、その分、面白味が少なそうだ。折角なので、もう少し自由で発見の有る場所の方が良い。そういうわけで、俺が目指す魔境は、アラクレスムの巌窟の次に近い位置に在った、アマリデモの魔境。その名もクモデリリスの森林だ。





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