第9話 - ユイ、話す

ユイは出ていってしまったが、伊藤は前のように落ち込んでいない。

また会える可能性は残っている。

彼女の協力も必要だが、絶望するのは駄目だった時でいい。


相沢洋子の名前を調べると、大手アパレル企業の創業者であることが分かった。

自分の思考や判断に多大な自信を持ち、自責と無縁な性格はここから来ているのかもしれない。


ユイのことを考える。

おそらく姉との何らかの事件があり、あの母親の罵倒を浴び続けることになったのだろう。

自尊心は削り取られ、言葉を自由に発することが出来なくなるくらい、長い間。


契約結婚募集サイトを何で知ったか分からない。自分に連絡が来た理由も。

しかしそれは、彼女にとって蜘蛛の糸を掴むような意味を持っていたのではないだろうか。


彼女を家から出したいと思う。

正しくないかもしれない。少なくとも母親の正しさとは相容れないだろう。

人の数だけ正しさがあるからこそ、ユイの気持ちを確かめたい。

ユイが同じ望みならば、社会的に間違っていたとしても二人分の我儘を押し通したい。



まず、伊藤は新しい住まいを探した。

仕事と並行して、家の準備を進める。


そして毎晩19時にハチ公レリーフに行く。

もちろんユイに会うためだ。

母親からは社会的な繋がりを断たれているだけで、家に軟禁されているとは思えない。

もし買い物などで外出できる機会があれば望みがある。

もっとも、自分とまた会いたいと思ってくれれば、だが。



時間はかかったが、伊藤の賭けは実を結んだ。

数週間が過ぎたある日、レリーフ前に彼女は立っていた。


ゆっくりと近づく。

「ユイ」

また、名を呼ぶことができる。


ユイは無言だ。

抱き寄せた。

ユイも手を回す。

「話をしたいけど、いいかな」

彼女は頷く。


少し歩いて、駅ビルの中庭に着く。誰も居ない。

ベンチに並んで座った。


「まずは僕の気持ちを言うね」

彼女は前を向いている。


「ユイの側に居たい。それで不幸になるとも思っていないし、離れている方がよほど辛い。あと、ユイの頭が悪いなんて思ったことないよ。本の書き込みにも気付いたくらいだからね」


伊藤はあの時、文庫本のカバー裏に犬のイラストに数字の19を添えて書き込んだ。

彼女はそれに気付き、外出できる機会を探してハチ公レリーフに向かったのだ。


「ただ、一つだけ我儘を言うと」

「…」

「ユイの声を聞きたい。話を聞きたい。嫌いになったりしないと約束する」

彼女は無言のままだ。

「それが、言いたかったことだよ」



しばらくして、ユイが口を開いた。途切れ途切れに、掠れた声を連ねる。

「…私、はあなたが。

好き。

初めて会った時、こんな素敵な人、いるんだって、思った。

暖かくて、格好良くて、何でも持っていそうな。

なのに時々、寂しそうな、目になる。まるで私の、ように。


ずっと、優しくて。私なんか、大切に、してくれて。

一緒に暮らした時、夢みたい、だった。


でも私は、不幸を呼ぶ。

あなたから、離れないと。

なのに、ごめんなさい。


本の書き込み、見て、会いたくなって。

また、側に、来てしまった。

どうしたら、いいの。

分からない。


ずっと、死にたかった。

私は、姉さんを…ひどいことを。

それでも、ただ、生き続けて。

あなたに、会った。

あなたとの、時間。一番、幸せ。

無くなる、のは、耐えられない。


このまま、終わりにしたい。

もう、疲れた」


彼女は泣いている。

彼女を抱きしめる。


お互いの体温が混ざり合い、ほのかな熱を生む。


「一緒に、死のうか」


彼女は伊藤を押し戻す。

冬の冷気が二人の間を通り抜ける。

「だめ。絶対、だめ」

「二人で生きられないなら、二人で死にたい」

「だめ。あなたが、そんなこと、しては」


「僕は素敵でも何でもない。身だしなみを整えて、色々な女性に会って、それで好かれた気になっているような酷い男なんだよ。人らしい感情が持てない、誰にも興味を持てない。誰も、好きになれなかった」


誰にも伝えたことのない内面が漏れ出てくる。


「誰もが主役を張っているこの世界で、僕はずっと舞台に上がれなかった。一度も本気になれなかった。今も、本気の振りをしているだけかと怖くなる」


ユイが頬にそっと手を触れる。

伊藤は気づかずに涙していた。

「証明したいから死ぬわけじゃない。ただユイと一緒なら、悪くないと思ったんだ」


ユイは小さな体で伊藤を抱きしめた。

伊藤はユイの胸元で子供のように泣く。


数分経ち、気持ちを落ち着かせた。

「ごめん」

「…話してくれて、嬉しかった」

「うん」


「だけど、最後に」

ユイは顔を赤くしている。


伊藤は何も言わず彼女の手を取り、二人は道玄坂に向かった。

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