第3話 - 初めてのユイ

秋が終わる頃、気になるメールが届いた。

「初めまして、渋谷で会えたら嬉しいです。お金はいくらでも大丈夫です。ユイ」

素気なく、自分の売り込みもない内容。


サイトを見てみたが、同じ名前や内容の投稿は見当たらない。

怪しいと思いつつ連絡を取り合って、明日の待ち合わせを約束した。

前日なのでジムは軽めに済ませ、サウナで汗を流してから帰宅したが、いつものように寝付けなかった。



普段どおりに爪を切り、シャワーを浴びる。

紙幣だけの財布を持ち、薄手のコートを羽織る。

10分前に待ち合わせ場所のハチ公レリーフ前に着く。

由来を調べると、作品の詩が見つかった。


 出会いと別れのあるところ

 よろこびとかなしみと

 みんな一緒のおしゃれな広場

 生きている楽しさ味わう広場

 あなたと私のしあわせ話そう

 北原龍太郎


生きている楽しさ、しあわせ、か。

すっと心が冷える。周りの音が薄れて静かになる。

伊藤はニヒリストであるが冷笑家では無かった。

ニーチェがニヒリストを「価値、意味、願望の徹底的な拒否」と定義していることを知った時、彼は自分の人生観を言語化できたと思った。


伊藤は自分の一生を蟻と同じだと考えている。

有象無象に紛れて生まれ、何とはなしに踏み潰されて土に還る。

それが見えている中で人生を楽しむことが分からず、それでも憧れを捨てられずに暗い巣穴から地上を見上げている。



ふと、後ろに気配を感じた。

振り返ると、一人の少女が立っていた。

黒のショートカットで綺麗な顔立ちだが表情は乏しい。


「ユイさん?」

彼女は頷く。

そして、目線で道玄坂の方に促された。

思わず「僕でいいの」と聞いた。

彼女は頷くと手を繋いできた。


無言で歩く。

誰かと手を繋ぐのは何年振りだろうか。

何を言っても空々しそうで声が出せない。

でも嫌な空気ではない。


適当なホテルに入る。

二人になった。

今、彼女はシャワーを浴びている。

現実味が無い。頭が働かないまま流されている。

交代でシャワーを浴びた。

ユイはベッドで裸で待っていた。

華奢な身体に似合わず胸元は豊かだ。

シャワーを出たら、彼女が消えていた方が良かったかもしれない。

居るということは次に進まなければならない。


ベッドに入る。

「実は」

彼女は言葉を待っている。

「本当は誠という名前なんだ」

「マコト、さん」

「うん」

彼女が自分を抱きしめてくる。

年齢とか、自分で本当に良かったのかとか聞きたいけれど、つまらないことを気にしていると思われそうで、ただ無言で抱きしめ返した。



彼女は初めてだった。

一層混乱しながら、シャワーを交代で浴びた。

着替えた後、封筒を渡す。彼女は無造作に鞄にしまう。

ユイはこちらを向いて、手を広げる。

伊藤は躊躇いながら、優しく華奢な体を抱きしめる。


今までの相手には一度も言わなかった言葉が出る。

「また会いたい」

彼女はこくんと頷いた。

優しく頭をなでると、腕の中で彼女はびくっと震えた。

「ごめん、嫌だった?」

彼女は首を振る。



ホテルを出て二つ曲がるとそこはもう雑踏になる。

彼女は手を降って、人混みに紛れていった。

あっけなく、振り向きもせず。


しばらくしてメールが来た。

「今日はありがとうございました。優しくしてくれて気持ちよかったです。あと、髪を撫でられるの好きです。できれば契約続けてください。ユイ」

饒舌なメールに戸惑う。


「こちらこそありがとう。契約、ぜひ続けさせて。気をつけて帰ってね。マコト」

散々悩んだ挙げ句、どうしようもないメールを返して、家に向かって歩きだした。


混乱しているときの癖で、今宵の月のようにの歌を頭の中で延々と流しながら目黒川沿いを歩く。

マンションに着いた。

彼女の残り香を服に求めたが、夜の香りしかしなかった。

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