220925
今日、ぼくは村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』を読み返した。最初にこの作品を読んだのはぼくが高校生の頃のことだから、今から30年ほど前ということになる。それ以来、今に至るまでぼくは折に触れてこの作品を含めた村上春樹の作品を読み返してきた。いったいどうしてそこまで惹かれるのか、実はぼくにはよくわからない。そして、ある種の「好き」という感情についてはそうして言葉にしないこともまた生きるためのコツなのかなとも思う。ともあれ、ぼくは村上春樹のファンだ。それを恥じる必要があるとも思われない。
村上春樹の作品から感じるのは、「もっともらしく」というか「いかにも」語ることへのある種の含羞というか恥じらいだ。『風の歌を聴け』の始まりはある種の文化論じみた小理屈が開陳されることは有名かもしれないけれど、その文化論の中で彼は「文明とは伝達である」というテーゼを語り、あるいは言葉を書くことの不可能性について語る。どちらもこうしてぼくたちがコミュニケートしていることを根底から見直す視座に基づいている、と言えるだろう。つまり、彼はいきなり語り始めず「小説とはそもそも何なのか」「言葉とはそもそも何なのか」を問うのだ。
ぼくはひょんなことからウィトゲンシュタインという哲学者にも同時に惹かれているのだけれど、ウィトゲンシュタインもまたそうした「そもそも言葉とは何なのか」という問いをしつこく考え抜いた人だ。おかしな話に聞えるかもしれない。作家とはある種言葉における達人のような人だ。そんな人が「言葉とは何か」なんて考えるんだから。イチローがスイングしながら「野球とは何か」「スポーツとは何か」なんて問うだろうか? そう思うと彼らの問いは滑稽だとも言える。書くことはただ本能的な営みであり、それは何の意味もない「ついやってしまう」事柄でしかないとも言えるからだ。
でも、ぼく自身もまたいつも「そもそも言葉とは何なのか」を考えることがある。どうしてぼくはこんな風に文章を書いてしまうのだろう。どうして他人の書いた本を読むのだろう。そんな問いに立ち戻ると、ぼくは上述したような不器用な問いを考察しながら書く書き手の書いたものを支持したいとも思うのだ。彼ら自身の中にある、そんな問いに立ち戻ってしまう彼らの幼さというか子供っぽさを支持したいし、ぼく自身もそんな小理屈に影響された人間として自分なりの小理屈を書きたい。この「undercooled」を書くのははそんな意図もある。
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