Exception
こやま智
Access Violation
上野駅前の交差点を渡った裏手のところに「Exception」というバーがある。
このバーのマスターは元天才プログラマーだという噂で、プログラミングにひっかけた話のネタをいくつか話してくれる。
今回の話は、客の少ない二月の雨の夜に、一人で飲みに行った際に話してくれたものだ。
その日、駐車場の話を振ったのは私だった。
「マンションの駐車場に、よく隣の住人が停めるんですよ」
「ああ、いますね。困りますよね」
マスターはグラスを磨きながら答えた。
「それがね、どうも話を聞いてみると、その住人も、その隣の住人に停められてしまって、仕方なく停めたらしい。で、その隣の住人も同じようなことを言う。どこから始まってるのかと思って一度端っこまで聞いて回ったんですけど、ずれ始めるのがどこなのか、はっきりしないんですな」
「学級会のフルーツバスケットみたいに?」
そうそう、と二人で笑った。
「で、私の駐車スペースは一番端なので、いつも最後に停められなくなって割を食ってしまう。で、とうとう頭にきて、私もやってやろうと、その列の空いてるところに」
「停めちゃったわけですね」
「で、翌朝駐車場に行ったら、マンションの管理人が来てて。どうも発端が私の車だってことになってるわけですよ。昨日聞き取りに行った連中が、みんな私のほうを見てる。もう、腹立っちゃって」
そこでマスターは大笑いし、私は勢いよくマッカランを煽った。
少しして、マスターが話を始めた。
「プログラミング言語で、Access Violationって例外があるじゃないですか」
「あるね。メモリ境界の外側に読み書きしちゃってるやつでしょ。そっか、他人のスペースに停めちゃう奴もそんなもんだよね」
コンピューターのアプリケーションは原則として、あらかじめアプリケーションが確保したメモリアドレスに対してしか読み書きをしてはいけない。その範囲外のメモリは、他のアプリケーションが利用しているからだ。
「今はプロファイリングツールで大体検出できるし、VMやOSも実行時に検出してくれることが多いけど、再現性がない場合も多くて厄介なんだよねえ」
侵害してしまったメモリアドレスを、どのアプリケーションがどのように使っているかは、ほぼ実行時にしかわからない。なので、報告されたエラーを再現できず、修正に手間取る場合が多いのだ。
「そう。昔お客さんから聞いた話で、まさにそういう怖いトラブルの話がありまして」
マスターは、アイスピックで丸氷を削りながら語り始めた。
「やはり自分の駐車スペースに勝手に駐車される話なんですが、これが良くない話でね。そうやって勝手に停めてるのが、有名な組の大幹部だったんですよ」
そりゃあ怖い、と私は頷いた。
「何でも、組の護衛役が毎晩のようにやってきては停めていく。思い切って文句を言ったら、やたら首の太い黒服が出てきて、千円札一枚渡されて、今日は外に停めろって言われたらしいです」
気の毒に。せめて万札を出してくれていたら、溜飲が下がったのだろうか。
「私なら引っ越してるね」
「まあ、結局その人も一年もたずに引っ越したそうです。不動産屋が、近所で比較的条件のいいマンションを見つけてくれたとかで」
よくある話なのかどうか知らないが、現実的な解決策ではあるのだろう。
「で、自分のいた部屋の住人が次々と入れ替わっていくのを眺めていたらしいです。引っ越し先のマンションより築浅で、高層だったもんだから、気にするなってのが無理だと」
「未練だねえ」私はしみじみと言った。
「短期間で新婚家族やら老夫婦やら女子大生やら、次々と入れ替わったらしいですよ。で、最後の女子大生が住み始めて少し経った頃、そのやくざが、駐車場で爆死する事件が起きたんです」
「え?」
思わず聞き返した。
「この先はそのお客さんが聞いた噂なんですが」と前置きしたうえで、マスターは語り始めた。
「その女子大生はどうやら、愛人として囲われていたらしいんですね。免許がなかったから車はなかったけれど、そのうち買ってもらうつもりでいたのかもしれない。駐車場は借りていたけれど、自分の車はないので、誰が停めていても気にしなかった。ヤクザのほうも、我が物顔で無断駐車するようになっていたそうです」
「愛人のダンナのほうは、そこに車を停めることはなかったのかい」
「中国の実業家ですからね。わざわざ自分で運転するようなレベルの金持ちじゃなかったみたいですよ」
中国ではいまだにセダンが売れている、という話を思い出した。金持ちは高い車を買っても、自分で運転しようとはしない。昔は日本もそうだったが、接待がなくなり、公務員がセダンを買わなくなった。そのため、日本のセダンは凋落したのだという。
金持ちの格の違いを感じて、少し侘しくなった。
「で、実はその実業家、中国マフィアとのビジネスでトラブルになっていて、命を狙われていた」
マスターはアイスピックを置き、語り始めた。
「殺し屋はおそらく、実業家が愛人に会いに来ると考えて、愛人のマンションを調べたのでしょうね。そしたら、女子高生らしからぬ黒いレクサスが毎晩のように停まってる」
彼らも、本国の実業家がどんな車を好むか知っていたら、違和感に気づいたかもしれない。
「あとはもうお定まりのパターンですよね。車に仕掛けをしたようです。朝方に戻ってきた大幹部がエンジンをかけたら」
首を傾けながら、マスターは両手でドカーン、という仕草をした。
あちゃー、と私は大げさに顔を手で覆った。
まあそんなわけで、とマスターは続けた。
「他人の
「そういうことね。うまくまとめたなあ」
私は彼にマッカランを一杯奢った。
午後十時を回り、雨は小雨になっていた。
マスターはいつものように、店の入り口まで見送りに来てくれた。
「さて、うちのマンションの駐車場はどうしたもんかな」
私が傘を差しながら言うと、
「簡単ですよ。ターゲットさえ間違えなければうまくいきます」
と彼は笑って、店の中に戻っていった。
少し歩いて振り返ると、もう店の灯は消えていた。
Exception こやま智 @KoyamaSatoshi
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