第40話 こっくりさんと狐憑き 2
浴室の扉に張り付くようにして、静かに耳を澄ませる。
脱衣所の扉が閉まる音、そしてその扉から離れる足音までキッチリ聞き届けてから私は息を吐き出した。
「草加先生、出てった?」
隠れるように浴槽の中に引っ込み、心配そうな声を上げる早瀬さんが顔を出した。
正確には隠れていても、その頭から生える耳は見えていた訳だが。
まぁ今更何を言っても遅いだろう。
「えぇ、部屋に戻ったみたいです」
安堵なのか気疲れなのか、ひたすらに長い溜息をはきながら私は座り込んでしまった。
お湯を浴びていない床のタイルの冷たさが、お尻に伝わってくる。
とはいえ、これからどうするべきか。
早瀬さんをこのまま外に出す訳にはいかない。
『感覚』で彼女が捉えられない以上、きっと私が今まで見てきた”怪異”とは違うモノなのだろう。
だからといって、周りの人間は納得する事はまずない。
なんたって彼女は今やケモミミ娘に成り果てたのだ。
いや進化したというべきか……そこはどうでもいいか。
「えっと、ごめんね? 私が指を離したせいでこんな事になっちゃって……巡に迷惑掛けてばっかりだね」
悲しそうに呟く彼女の感情を示すかの如く、頭に生えた耳も項垂れたように折れ曲がる。
なんだこれ、見てる分には結構楽しい。
「とにかく、もう少し時間は出来ましたけど……今考えても多分妙案は浮かばないでしょうね、このまま本当にお風呂入っちゃいましょうか。体は冷え切ったままですし」
自分で言いながら、改めて自身の体の震えを実感した。
とにかく寒い。
室内は湯気や熱気でそれなりに温度は上がって来たが、私の体はまだ冷え切っている。
対する早瀬さんは、腰くらいまで溜まったお湯に浸かっているのでそれなりに暖かそうだが。
「あはは、なんか修学旅行みたいだね。あっ、それなら背中流すよ」
そう言いながら湯舟から立ち上がった彼女に、とにかく座れとハンドサインを送る。
彼女の方が私よりずっと体温を奪われていたはずだ、それならもっと温まってから……というか自分の体くらい自分で洗えるので問題ない。
「背中を流すにしても、洗顔だの髪を洗ったりだの色々あります。貴女はとにかく湯舟に浸かってなさい、体温だってまだ完全に戻った訳じゃないんでしょう?」
半端にしかお湯が溜まってない状態でそんな事を言うのもどうかと思うが、体勢次第ではどうにでもなるくらいの水量はある。
全身を温めるにも、多分問題ない筈だ。
「うん……わかった。ごめんね?」
「だからそういうのはいいですから。早く温まってください」
そんな会話の後、体を小さくしながら湯舟に浸かるケモミミ娘。
お風呂で上機嫌になったのか、湯舟からはみ出した尻尾をブンブンと振り回している。
彼女の尻尾を視線の端っこに収めながら、私の頭の中では思考が飛び交っていた。
何故こんな事になった? なんて、言うまでもない。
間違いなくあの仮面のせいだ。
彼女から生えている耳や尻尾は、見るからに狐のソレ。
とはいえあの仮面がどう彼女に影響したのか、それが分からない。
普通の幽霊のように、ただ相手に憑りついた……なんて状況なのであれば、先生がその体に触れば一発で解決するだろう。
むしろ近づいただけでも解決してしまうかもしれない。
だというのに、彼女のソレは一向に戻る気配がない。
直接触れなければ駄目なのか? いやそもそも、私の『感覚』で彼女は捉えられない。
だとしたらこれは何だ? 怪異現象ではない? そんな馬鹿な。
普通に生活していた人間から、こんな耳や尻尾が生えるなんてありえない。
だとすればやはり、あの仮面の影響。
しかしあの狐の面は、『感覚』でも『眼』でもよくわからない代物なのだ。
おまけに先生の『腕』が触っても、今のような現象を引き起こす媒体として力を発揮している。
本当に、”アレ”は一体なんだ?
などと考えている私とは対照的に、早瀬さんは気持ちよさそうにお風呂の中で体を伸ばし始めた。
「お湯溜まってきたぁ……あぁー、生き返るぅぅ。草加先生の家に来た当日に、まさかお風呂まで借りる事になるとはねぇ。あ、今日どうする? この際泊って行っちゃう?」
そんな呑気な発言が、微妙に頭に来る。
耳はピコピコと動き、尻尾はブンブン振り回している。
所詮イヌ科か貴様。
「状況が分かっていない早瀬はどうやらお仕置きが必要みたいですね? イヌ科だって本当は水が苦手だっていいますし、私が全身くまなく洗って差し上げましょう。 あぁ心配いりませんよ? 嫌だと騒いだ所で、無理やり洗いますから。獣臭いのは、嫌ですもんね?」
体を洗い終わった私は、青筋を額に浮かべながら立ち上がった。
コイツ、状況をなんも理解してねぇ。
「えっと……あぁー、うん。別に自分で洗えるから大丈夫だよ? あはは、ほんと。ね? だからそんな怖い顔で近寄ってこないで? 私が悪かったから、危機感足りなかったから、だからね? ホ、ホラ! 本当に、巡? めぐるぅぅ!」
そんな叫びを聞きながら、私は問答無用でケモミミ娘を浴槽から引っ張り上げたのだった。
————
「うえぇぇ、なんかシャワーが怖いよぉ」
「黙りなさい、獣臭が落ちるまでひたすら洗ってやります」
「本当にそんな匂いする!? マジでする!?」
泣き言を叫ぶ私の背中に、巡は容赦なくシャワーをぶっかけた。
何故だろう、毎日浴びているはずのシャワーに対して妙な嫌悪感がある。
肌がムズムズするというか、妙に逃げ出したくなる衝動に駆られるのだ。
浴槽でお湯に浸かっている時は平気だったのに、何だろうこの違い。
「ほら、いいから。大人しくする」
まるで子供に言い聞かせるみたいに、巡は私の体を流していた。
なんとも妙な感じだが、彼女のそれ自体に別に悪い感じはしない。
修学旅行などで友達と御風呂に入る機会はあったが、こんなにも無防備に身を差し出した事はあっただろうか?
裸の付き合いなんて言葉もあるくらいだ、信用していない相手とは到底出来ない事だろう。
「ほら、耳押さえて。水入りますよ? あ、いやそっちじゃなくて。頭の上の方の耳です」
慌てて頭の上に生えているであろう狐の耳を押さえつけると、タイミングを見計らったようにお湯が被せられる。
どうしてか、彼女の言葉通りに従っている私が居る。
なんだろう、今の巡は普段の彼女とは違う感じ。
いつもならもっと冷たいというか、命令口調だったりこっちの事なんて考えていない言動を繰り返す気がするが。
それこそ私の耳……ケモミミ? なんて気にせずシャワーをぶっ掛けそうなものだ。
「えと、どうしたの巡? なんかいつもより優しい気がするんだけど」
聞かずには居られなかった。
なんというかこう、今の状況はムズムズするのだ。
シャワー的な意味ではなく、空気的な意味で。
そんな私に反して、彼女はいつも通りの口調で告げる。
「別に……昔弟の髪をよく洗っていたので、その癖が出ただけです」
素っ気なく答える彼女だったが、その手はとても優しいものだった。
頭皮を揉み解すような緩やかな手つき、髪の一本一本まで細かく洗われているかのような、その快感と言ったら……。
「ん? 私ではこのケモミミに触れられないようですね。手が突き抜けてしまいます……チッ」
どうやら言動はそこまで優しくないらしい。
まぁ巡らしいと言えば、巡らしいが。
というか、彼女は彼女なりに毛並みとか気になったのだろうか? この耳とか尻尾の。
ちなみに結構気持ち良い。
生えている毛そのものは細く、とても指通りが良い。
現状の様にずぶ濡れになる状況でも、水分そのものが直接触れていないのかモフモフのままなのだ。
なんて思いながら尻尾を撫でていたら、背後から冷たい殺気を感じたので慌てて尻尾を後ろに戻す。
そうだ、こんな事をして和んでいる場合ではない。
早くこの尻尾と耳を撤去して、草加先生の前に出られる状況にしないと。
先ほど思いっきり引っ張ってみたが、スポンッと抜けるはずも無く、単純に痛みだけが伴った。
とはいえ巡には触れる事が出来ないらしいので、やはり霊体的な何かなのだろうか?
もしかしたら草加先生に引っ張って貰えば抜けるのではないか? とてつもなく痛そうだけど。
なんていう淡い希望を抱いた所で、巡が口を開いた。
「普段ポニーテールにしてますけど、髪を下ろした姿も結構似合いますね? 狐耳が生えていると余計に」
予想外な一言だった。
女子的な会話を、巡と初めてした気がする。
私の髪は、背中くらいまで伸びていて、普段は邪魔だから縛っているくらいの感覚しかなかったが。
巡の様にキャラにあった……って言ったら失礼かもしれないが、肩くらいで切ってしまうのも良いかと考えていたくらいだ。
特別髪の質がいい訳でもない、拘りをもって伸ばしていた訳でもない。
だというのに鏡に映る金髪の私は、普段とは違ってそれなりに見れるくらいには整っていた気がする。
多分、きっと。
巡だって褒めてくれたわけだし、自画自賛って程じゃないよね?
よし、今度から金髪の時は髪を解こう。
いや、そもそも元の髪色に戻るかさえ分からないが。
なんてやっている内に、巡がまたお湯で髪を流し始めた。
反射的に頭の上の耳を塞ぎ、その場をやり過ごす。
「もはや獣のような反応ですね……ちょっと引きます」
お願い、引かないで。
というか、そんな場合ではなかった。
この耳と尻尾をどうにかしない限り、草加先生の前に出られない。
草加先生の前っていうか、全人類の前に立てないけど。
どうしよう、このままでは私はお風呂の住人になるしかないのだが。
「それで、コレどうしよっか? 見た目的には面白いけど、このままじゃ外出られないね」
耳を引っ張りながら後ろを振り返ると、巡が心底呆れたような顔で私を見降ろしていた。
しかも盛大なため息もついてくれるオマケ付きだ。
ひどい、これから私の生活エリアがお風呂だけになりそうな時に。
っていうか巡本当に大きいな……触ってみたりしたら怒られるだろうか。
「あの」
手を伸ばしかけた私に、若干額に青筋を立てながら笑顔の巡が顔を覗き込んでくる。
これは怒ってらっしゃる……?
なんて改めて確認する必要もない程、今の彼女からは迫力を感じる。
思わず尻尾の毛が逆立ってしまった程だ。
あっ、この尻尾こういうのにもちゃんと反応するんだ。
「さっきから何なんですか? まるで危機感が無いように感じますけど、貴女は本気でコレをどうにかする気あります? 自分の状況分かってますか? これじゃアレコレ考えてる私が馬鹿みたいじゃないですか」
まずい、これはガチなやつだ。
ピリピリと肌に感じる程の怒りをまき散らして、彼女は怒っている。
私だって一応分かっている。
このままじゃこの部屋どころか、この先外を出歩けない見た目になっている事も。
元々は私がやらかしたせいでこんな事になってしまい、彼女に迷惑を掛けてしまった事も。
そして巡が私なんかの為に必死で考え、そして心から心配してくれている事もだ。
普段通りに見える彼女も、多分凄く焦ってる。
だからこそ申し訳なく思う、思うが。
どうしてもこの耳や尻尾が、”悪いモノ”には見えないのだ。
正直自分でもどうかと思う感想だが、鏡に映るソレを見ていて……そんな風に思ってしまった。
「んと……ごめんね。それからありがとう、心配してくれて。私じゃ対処法とか、どうすればいいのかわかんないけど。でもね、何ていうか……コレ、そんな悪い感じがしないんだよね。意外と手紙に書いてあった『守り神』ってやつなのかもしれないし」
あはは、なんて笑いながら口下手な説明をしてから前を向く。
目の前にある浴室の鏡に映るのは、獣の耳を生やした金髪の女。
改めて見ても異常な光景だ、こんな姿で誰かの前に立てる筈などない。
だからこそ巡は心配してくれているのだ、それは痛い程感じる。
だというのに……コレを排除しようとか、私の体から追い出そうとか、そういった気持ちになれないのは何故だろうか?
こんなのは異常だ、もしかしたら心まで”ナニか”に憑りつかれてしまったのかもしれない。
そう考えると、思わずため息が零れる。
「そう言うなら……早くいつもの早瀬さんに戻ってください。このまま外に出す訳にはいきませんよ?」
諦めた様なため息を吐いてから「体は自分で洗って下さい」なんて言って、彼女は浴槽の中に身を沈めた。
呆れられてしまっただろうか? まぁ普通はそうだろう。
彼女が必死で私を元に戻そうとしているのに、当人はこんなお気楽では。
彼女の気持ちを踏みにじって、やる気すら失いかねない言葉を私は吐いてしまったのだから。
ごめんね、なんてもう一度だけ呟いてから、私は体を洗い始めた。
もういいです、と素っ気ない返事を返してから彼女は浴槽の中で目を閉じた。
どうにかしないといけない、それは分かっている。
でもどうすればいいのか分からない。
疲れ果てた様にも感じる沈黙の中、私は無言で体を洗い続けるのであった。
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