第38話 こっくりさんと狐憑き
ふと目が覚めた。
いつもよりずっと重い瞼、軋むように悲鳴を上げる体。
痛む体に降り注ぐ、冷たい水が肌に触れる感触。
一体、何が起きた?
「うっ、ぐ……」
体を起こそうとして、誰かが私の上に乗っている事に気づいた。
本来ならとてつもなく焦る事態なのだろうが、徐々に気を失う前の記憶が戻ってきている為、悲鳴を上げたりすることはしなくてすんだ。
「はやせ……さん、早瀬さん。起きてください、死んでる訳じゃないんでしょう?」
声を掛けてもぴくりとも動かない、彼女もまた気絶しているみたいだ。
どうにか起き上がろうとして、彼女の体に触れると……とてつもなく冷たい。
「え?」
とてもじゃないが、正常な人間の体温とは思えない。
ぐったりともたれ掛かる彼女は、全身の力が抜けたみたいに私に覆いかぶさっていた。
まるで何かから私を守ろうとするかのように。
当然冷たいシャワーも、彼女に直接降り注いでいる。
私が肌で感じていたのは、彼女から間接的に零れてくる水分でしかなかった。
はたして私は、どれ程の間気を失っていた?
その間早瀬さんがずっと冷水を浴びていたとしたら、怪異云々どころではなく身体的に影響が出る……もしかしたら命を落とす危険がある程、その体温が奪われてしまっているのではないだろうか?
「早瀬さん! 起きてください早瀬さん!」
もはや自身の体の事など構っていられなかった。
とにかく彼女の冷たい体を腕に抱き、冷水を放ち続けているシャワーを止める。
明かりがついていないので彼女の顔色や表情を伺うことは出来ないが、それにしてもコレは冷たすぎる。
もしかして、死んでいるのは……なんて考えも湧き上がってくるが、必死で頭振って馬鹿げた思考を振り払った。
違う、まだ大丈夫だ。
本当に死んでしまっていたのなら”こんなもんじゃない”、もっともっと冷たいはずだ。
私はソレを”知っている”、だから彼女はまだ大丈夫だ。
「早瀬さん! 聞こえますか!? 早瀬さん!」
叫ぶ声が浴室の中に響く。
相変わらず反応を示さない彼女の胸に耳を当て、そのあと唇の前に手をかざす。
「大丈夫だ。心音も聞こえるし、呼吸もしてる」
それだけ確認すると、引き裂くような勢いで彼女の服を脱がしていく。
お洒落するために着てきたのであろう可愛らしい白いブラウスも、ボタンが弾け飛ぶのもお構いなしに彼女から引っぺがした。
「文句なら後でいくらでも聞いてあげますから! 今は許して下さいね!」
もはや下着しか残ってない状態になった所で、自動湯沸かしのボタンを押し込んで、同時に熱いシャワーを全開にして放出した。
そのまま自分の服の前面をはだけさせ、彼女に思いっきり抱きついて素肌を合わせる。
やがて辺り一面が白い湯気に包まれていく。
こんなにも体が冷えていたのかと改めて実感出来るほど、シャワーの熱が体の筋肉を解していくのが分かる。
とはいえ優先すべきは早瀬さんだ。
顔にはシャワーが掛からない様に調整してから、バスタブに背中を預ける姿勢で座らせる。
冷え切った人間に対してこの対処法が正しいのかは正直曖昧ではあるが、温めないよりはずっといいだろうと判断するしかなかった。
そしてしばらくじっとしていると、体温が戻ってきたのか、早瀬さんの呼吸が落ち着いてくるのがわかった。
素肌を合わせて居る為、彼女の鼓動もしっかりと伝わってくる。
はぁ……と、思わず安堵の息を漏らした。
多分、もう大丈夫だろう。
「とにかく、一度明かりを……」
こうも暗くては何も見えない。
ずっと暗闇に居たせいで多少は目が慣れているが、それでも彼女の顔色を把握出来る程ではないのだ。
気を失ったままの早瀬さんが水没しない様に気を配りながら立ち上がり、浴室の扉から腕だけ伸ばして照明のスイッチを押した。
安いLEDでも使っているのか、徐々に徐々に明るくなる照明に多少の焦燥感を覚えるが、今はそんな事にイラついている場合ではない。
とにかく早瀬さんの状態を確認しなければ。
なんて思って振り返った瞬間、私は凍り付いたように動きを止めた。
「は? え? 何……コレ」
自分でも間の抜けた声が出たと思う。
目の前の光景は、その眼でしっかりと見ているのに現実感が無い。
というよりも信じられなかった。
だって、浴槽の中に座り込む彼女の姿が……あまりにも現実離れしていたのだから。
「えっと、は? 獣の耳? 尻尾?」
我ながら言っていて意味が分からない。
そりゃそうだ、この目でも見ていても理解が追い付かないのだから。
眠っている早瀬さんの頭に、金色の尖った耳が生えている。
ついでと言わんばかりに彼女の髪の毛もまた同じ金色に染まり、腰のあたりから同じ色の太い尻尾が生えている。
なんだこれは? いつからここはファンタジー世界になった?
先生がやっていたゲームで、獣人とか何とかっていう人たちがこんな感じだった気がする。
漫画やアニメなんかでも、たしかにこういう獣耳を生やした少女やらは話題になってた気がするが……おい、なんだこれ。
もはや頭を抱えるどころか、唖然とするかない。
顔は間違いなく早瀬さんだ。
体格も、身長も変わりないように見える。
でも明らかに、目に見えて普段と違う物が付属している。
この現実に、私はどう向き合えばいいのだろう?
「ん、うぅぅん……」
などど立ち尽くしている内に意識が戻ったのか、彼女の目が少しずつ開いていく。
間違いなく彼女の声で、口元から漏れるその唸り声……なんていうほどのモノではなく、単純に眠そうな声が浴室の中に反響する。
「えっと、早瀬さん……ですよね?」
恐る恐るといった調子で、目の前の彼女に声を掛けた。
見た目は確かに私のよく知るその人なのだが、とてもじゃないが確証が持てない。
もしかしたら彼女に似た”ナニ”か、なんて事があったりするかもしれないのだ。
「ん……うん? 巡? ……巡! 大丈夫!?」
叫ぶと同時に彼女は慌てた様子で立ち上がり、私の方へ向かって来ようとしたがバスタブに足を引っかけて盛大にすっ転んだ。
間違いなく早瀬さん本人のようだ。
「あぁーえと、とりあえず落ち着いてください。大丈夫ですか? 顔面から行きましたけど」
「……いたい」
涙声で呟いた後、ゆっくりと立ち上がる。
幸い顔は怪我していないようだ。不幸中の幸いというか、なんというか。
あぁもう、なんだこれ。
「とにかく、落ち着いてください。それから鏡を見てください。それ、何があったんですか?」
未だ事態を把握出来てない様子の彼女を落ち着かせようと、両手を前に出しながら落ち着くように言い聞かせる。
そんな私を不思議そうに眺めながら、彼女は首を鏡のある側面へと向けた。
「なに? 鏡? 私に何かおかしい所でも……」
言い掛けた言葉が、浴室の鏡に視線を向けた瞬間静止する。
無理もないだろう、自身が先ほどまでとまるで違う姿に変わっていたのだから……。
わなわなと震える彼女に、とにかく落ち着くように声を掛けながら近づいていく。
大丈夫、その身に何が起ころうと私が——
「なんで私下着姿なの!?」
「そっちじゃないです!」
思わず彼女の額にチョップを叩きこんでしまった。
今回ばかりは多分私が悪い訳ではない気がする。
「……いたいってば」
「脱がせたのは私です!」
「え!? 巡ってそういう趣味が!?」
「馬鹿言ってないで良く見てください! 私でも見えるんです、貴女の『眼』ならもっとはっきり見えるでしょう!」
いい加減我慢の限界が来て、怒鳴りながらビシッと鏡に向かって指をさした。
あぁくそ、湯気で曇ってる。
袖でゴシゴシと鏡を拭いてから、「見てみろ」とばかりに指さした。
そこに映っているのは金髪の女の子。
頭には獣の耳を生やし、腰からは尻尾を生やした謎の生物が映っていた。
ついでに言うと水色の下着姿で。
「……え? は? んと、これ……私?」
ぷるぷると震えながら、私に続いて早瀬さんが鏡を指さした。
鏡の中の彼女も正反対ではあるが同じ行動を取り、こちらを指さしている。
もはやこれでいい訳など出来ないだろう。
「はい、私が目を覚ました時にはこんな事になっていました。何か思い当たる節はありますか? 私が気を失った後に何かしたとか、おかしな物を拾って食べたとか」
「最後だけおかしくない!? 私そんな事しないよ!?」
姿形は変わっても、中身は間違いなく彼女のようだ。
ここまで疑いながら注意深く観察してみたが、もはや間違いないご様子。
ちなみに『感覚』でさえも、近くにそれらしい気配が感じられない。
むしろ集まって来ていたはずの『雑魚』でさえ、この周辺からは逃げ出しているように感じる。
「とにかく、なにがあったんですか? いくら今までキャラが薄かったからと言って、そんなビフォーアフターされたら私だって流石にちょっと引きますよ?」
「言い方! 薄くないから! 目立ってはいなかったけどちゃんと部員として頑張ってたからね私! あとお願いだから引かないで!」
場を少しでも和ませようとしたジョークだったのだが、どうやら逆効果だったらしい。
涙目になりながら彼女は必死で懇願し、終いには頭を抱えてしまった。
「私だってわかんないよ! 巡がおっきい口に食べられそうになって、巡は食べないでって叫んだら、そのままパクッて……その後はよく覚えてないけど」
どうしたものか。
彼女の最後に覚えている記憶は私と大差ない。
そして現在は必死に自分のケモミミを引っこ抜こうと、どうにかこうにか悪戦苦闘している下着姿の女の子が一人爆誕している。
なんだこれ、本当にどうしたらいいんだ。
そんな時だった。
浴室の外から、玄関の開く音が聞こえたのは。
「おーい、帰ったぞー……って暗っ! おーい、黒家? 早瀬ー? どこだー?」
間違う筈もない、この声は先生が帰ってきたのだ。
こいつは非常に不味い、そりゃもうとんでもなく不味い。
彼は明かりを付けながらこっちに向かってくるらしく、その足音は徐々に徐々に近づいてくる。
そう広くないアパートなのだ、ここへたどり着くのも時間の問題……というかもはや時間がない。
いくらなんでも、今の状態の早瀬さんを見せる訳にはいかないのだ。
特殊な趣味でも持っていない限りは、こんな未知との遭遇は喜ばしい事態ではないだろう。
今後どうなるかわかったもんじゃない。
「ど、どうしよう巡。私このままじゃ先生に除霊されちゃうのかな?」
いや貴女死んでないでしょ? なんて突っ込んでる場合じゃない。
とにかく一旦彼女を隠さなければ。
「とりあえず浴槽の中に身を隠してください。私が話して可能な限り時間を作ります、その間に耳と尻尾をどうにかしてください」
「そんな無茶な……」
「ホラ、剃刀ならそこに」
「毛を剃りたいんじゃないだよ!? 根本からソレで切断しろとでも言うの!?」
思わず叫んでしまった早瀬さんがハッと口を塞ぐ。
しまった、こんな事して遊んでいる場合ではなかった。
「おい二人とも、こっちか?」
その声と共に、足音が近づいてくる。
まずいまずいまずい。
どうする、どうすればいい!?
必死で考えている内に、私が早瀬さんからはぎ取った衣服が目に留まった。
「これしかない」
「え?」
戸惑う彼女を置き去りにしながら、私は迷うことなく自分の服を脱いだ。
如何せんずぶ濡れの為、とんでもなく脱ぎづらかったが。
「ちょっと何してんの巡!」
「いいから! 貴方も全部脱ぐ! そっちの服もこちらへ、早く!」
睨みつけながら怒鳴ったせいか、彼女は戸惑いながらも残っていた下着を脱ぎ捨て、足元に脱ぎ捨ててあった服と一緒に差し出してきた。
間に合え!
受け取ると同時に浴室の扉を開け、二人の衣服を洗濯機に向かって放り投げる。
「お前らこんな所で何やって——」
脱衣所の扉が開き始めるの視界に収め、私は浴室の扉を勢いよく閉めた。
ベチッと地味な音を立てながら、私達の服は洗濯機の中に着地した……と思う。
「……えっと、なにしてんの巡」
「あぁーいや。お風呂入ってるって言えばもう少し時間が稼げるかと思って」
「それわざわざ服脱がなくても、覗かれない限りはバレなかったんじゃ……」
「……たしかに」
お互い自分の体を隠すように腕をクロスしたまま、私達は静かに乾いた笑いを溢した。
まずい、ここからどうしよう。
替えの服もない上、目の前の彼女は相変わらずケモミミだ。
「ほんと、どうしてこうなった……」
盛大なため息が、浴室の中に響いたのであった。
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