第36話 こっくりさん 3
電気の付いてない室内、薄暗い部屋の中。
本来ならその程度だった筈なのだ。
だというのに、今私達の目の前は本当に真っ暗。
カレらの纏う黒い霧。
それが部屋中に充満して、もはや何も見えない。
いや、正確には霧の中のカレらの姿はハッキリと見えるのだが。
首がおかしな方向に曲がったサラリーマン。
自身の四肢を探し求めるように這いずる女の子。
全身ずぶ濡れで、長い髪から落ちる水滴で床を濡らす女性。
そんなカレらが、部屋の中を我が物顔で闊歩している。
いくら見ても慣れるものでは無い。
カレら、カノジョらは、死んだ時の姿で現れる。
今まで巡に聞いた話と今まで見た者達の姿から推測するに、綺麗な姿のまま幸せに亡くなった人たちは、ほとんどの場合こうして姿を現したりしない。
目の前に現れるカレらは皆一様に惨い姿をしていたり、恨みの籠った眼差しを向けてくるのだ。
それは私にとって……というか”見えている人”にとっては、地獄のような光景だった。
「ごめん、ごめん巡! 私が指離しちゃったせいで!」
「そういうのは後でいいですから! 今はとにかく逃げますよ!」
私の手を引く友人は、前回同様力強く引っ張ってくれた。
きっとこの手が無かったら、以前の廃屋で私は命を落としていただろう。
こういう時でしか手を握ったりなんてしてくれないが、とても頼りになる友人。
だからこそ先ほどのミスがこの上なく申し訳ない。
とはいえこんな状況でも、彼女となら安心して——
「困りました」
「どうしたの?」
巡は顎に手をやったまま、うーんと声に出しながら唸っている。
「玄関が開きません、鍵は開けたはずなんですけど」
どうやら安心できる状況ではなかったらしい。
そもそも周りを見れば分かりそうなものだが、それでもどこかに希望を持っていた私の心が、ポキッと折れた気がした。
「どどどうするの!? また戻るの!? あの中に!」
指さす先には黒い霧。
だけならまだしも、色々とヤバイ姿をしたカレらがゆっくりと近づいて来ている。
さながらゾンビ映画だ。
あまりその手の映画は見た事がないので、多分こんな感じだろうという予想でしかないが、はっきり言ってどいつもこいつもグロい。
当然と言えば当然なのだが、見た目は歩く死体なのだ。
実体はないにしろ、視覚的に優しいものではない。
「あの中を突っ切る勇気があるなら、それもいいかもしれませんね!」
やけくそ気味に巡は叫ぶ。
どうやら彼女にも余裕はないらしい。
こんな状況で私に何かできるだろうか? 目の前の情報を処理しきれない頭がどんどんと混乱していく。
視界に広がるのはカレらが作り出す黒い闇、後ろには開かない扉。
これって、結構……いやかなりヤバいんじゃないだろうか?
「え、えっと! ごめん! ほんとごめん! それで何か良い手はない!?」
そんな事を言ってる間にも、カレらは迫ってくる。
口々に「ミエテル」だとか「イッショニイコウ」だとか、勝手な事を口走りながら。
前にもあった事だが、こういう時は巡の様な能力が羨ましい。
だってカレらの酷い顔を見なくて済むんだから。
あるものは電車にでも轢かれたのか、体中がボロ雑巾の様に裂け、皮一枚で繋がった四肢を動かしながらジリジリと近づいてくる。
あるものは病気でも患っていたのだろうか、骨に皮を被せただけの様な極めて細い姿でフラフラと私達の元まで歩み寄ってくる。
そんなカレらが口にするのは、一様に「自分の事が見えているのか?」「私達と共に逝こう」という自分勝手な言葉である。
こっちの事など考えていない。
自分達の仲間を増やし、苦しみを周りに振り撒く事しか考えていない。
近づいてくるだけで不快というか、絶望に心が折れそうになる気持ちが湧き上がるのは、多分私が”見えている”からというだけではないはずだ。
カレらは絶望を振りまく、少しでも何かに対して負の感情を持っていればそこに付け込んでくる。
そういう存在なのだ。
そんなカレらの手を取ってしまったら、一体どんな事になってしまうんだろう。
もしかしたら今までの辛い過去だけを思い出し、自ら首を吊るのかもしれない。
人生の中で一番苦しかった思い出を胸に抱きながら、窓からその身を投げるのかもしれない。
普段なら馬鹿みたいだと笑う程度の妄想が、彼らを身近に感じる事で現実感を増していく。
多分私達のような存在だから分かる。
カレらは”そういうモノ”なのだと。
近づけば近づくほど心の中に影が落ちる。
その質問に答えてはいけない、カレらに存在を知られてはいけない。
無意識の内避けてきた怪異との接触、それがどういうものなのか……改めて目の前に突き付けられた気分だった。
カレらは、”私達を喰おうとしている”。
迷界に入った時のような直接的な行動ではないにしろ、その結果に変わりはない。
このままカレらを受け入れてしまえば、私達はもれなく醜いカレらの仲間入りを果たすだろう。
それがどういう結末なのかは、目の前を見ればはっきりと分かった。
腕が捥げ、脚は無くなり、首の骨は明後日の方向に曲がって。
それでも生者に喰らい付く、自身と同じ境遇の者を増やそうと誘う。
あまりにも惨めな化け物だ。
——私は、こんなものになりたくない。
でも、私にはもう……。
「さっきから、ブツブツブツクサうるさいですよっと!」
叫びながら、隣の彼女は何かを投げる。
”カレら”の方に向かって。
なんだろう?
なんて疑問を抱いた瞬間、投げたソレが瞳を焼くような光を放つ。
視界が真っ白に染まり、カレらも私も見えなくなる。
ただただ白い世界の中、耳元で怒鳴り声が聞こえた。
それはもう耳を塞ぎたくなるほど大きな声で。
「貴女バカですか! カレらと同じになり掛けてましたよ!? 聞こえてますか!? おいコラ早瀬! さっさと立つ!」
間違いなく彼女の声だ。
とても怒っていて、私を強く引っ張っている。
でも、なんでだろう?
何故彼女はこんなにも私を強く引っ張るのだろう?
一体彼女は、私をどこへ連れて行こうと……
「あぁもうっ!」
パァン! っと高い音が響いた。
数秒してから感じる頬の痛み、私は……今叩かれたのか?
「早瀬さん! ……はやせ……あぁもう夏美! さっさと起きなさい! 死にたいんですか!?」
徐々に弱まっていく光の中、怒り狂ったような形相の女の子が視線の先に映る。
とても怖い顔。だというのに、その顔を見た瞬間に少しだけホッとした。
「夏美! 私を見なさい! 息を吸いなさい! なに『雑魚』程度に殺されそうになってるんですか!」
彼女の言う通り息を吸い込むと、徐々に視界が開けていく。
さっきまでカレらで埋まっていた視界が、嘘みたいに広がっていく。
「……あれ? 巡? 私何して——」
「いいから行きますよ!」
先ほどまでぼんやりとしていた思考回路が鮮明になり、目の前の光景を改めて”見る”。
さっきまであれ程押し寄せて来ていたカレらは、自身の瞳を押さえながら藻掻いている。
目の前に迫っていた、もはや逃げられないなんて思っていたのに、カレらはまだずっと遠くにいた。
それこそ他の部屋に逃げ込めるほどに。
「また呑まれない様に気を付けてくださいね!」
そう叫ぶ巡に手を引かれ、私はカレらの隙間を抜けながら走った。
一直線に、私達が居たリビングとは違う扉に向かって。
「風邪ひいたらすみません! 命あっての物種なので!」
なんて言いながら、彼女は私を狭い空間に押し込んだ。
床は固く冷たい、真っ暗でほとんど見えないが、とにかく狭い場所に放り込まれたようだ。
それこそ足も伸ばせないような空間。
そんな場所に私を放り込んだかと思うと、彼女は体を押し込むようにその狭い空間に自身の体も詰め込んできた。
一体ここは……なんて思っていた内に、頭の上から冷水を被せられる。
しかも一度とかそういうのではなく、永続的に雨に打たれているかのような水分量だ。
「ちょっ! つ、冷たい! なに!? 一体何してるの!?」
やっと頭が冴えてきて、普段通りに喋れるようになった……なんて思える先程の私は、やはりどこかおかしかったのだろう。
さっきまで何をしていたのか、何を考えていたのか。
いまいち思い出すのに靄が掛ったような感覚があるのだ。
その質問に答えるかの如く、目の前で私と共に狭い空間に体を押し込んだ彼女は答えた。
「浴室でシャワーを浴びてます。儀式の前に冷水で身を清めるとか、滝に打たれるとか言うでしょ? あれって邪気を払うとか、穢れを落とすって意味もあるらしいんですよ。だからこうして体が冷えるほどの冷や水を全身に浴びてる訳です。もしかしたらこうしている間はカレらも近づいてこれないのかと思って……多分ですけど」
そういう彼女の唇は、段々と紫色に染まっていく。
当然だ、”アイツら”がいる空間は何故かこの時期ですら寒いと感じられるほど体温が奪われるのだ。
だというのに、私達は今冷水を頭から被っている。
何故こんな馬鹿な事をと言いたくなるが、理由なんて分かり切っていた。
アイツらに良い様に誘惑された、馬鹿な私を助ける為なのだろう。
はぁぁ、と大きくため息を付きながら額を押さえる。
私は何をやっているんだ。
彼女より知識はないにしろ、彼女より見える『眼』があるのだ。
それなのに事態を悪化させ、終いには命の危機にまで自分から陥ってしまった。
全く、目も当てられないとはこの事だ。
皮肉にも私の異能は『眼』だというのに。
なんて言ったらきっと笑えないオヤジギャグどころか、もっと場を冷やす滑った発言になる事は分かっているから言わないが。
「とにかく、巡の方がシャワーモロに当たってるじゃん。それじゃ私より冷えちゃうって……一回場所変わって——」
なんて呟いた瞬間だった。
青白くなってしまった彼女が、そうですね……なんていいながら腰を上げようとした時。
彼女の後ろから、真っ白い手が巡の体を包み込んだ。
腕や足といった各所、なんてもんじゃない。
全身を覆いつくすかのように、至る所から大小様々な白い手が、彼女の全身を押さえつけたのだ。
「——っ!」
声にならない悲鳴を漏らしながら、巡は壁に頭を打ち付けた。
ゴッと鈍い音が狭い浴室に響き、これでもかという程彼女の全身を壁に貼り付ける。
「巡っ!」
咄嗟に手を伸ばした。
私には見る事しかできない。
巡の様な対策も知らないし、草加先生の様な『腕』も持っていない。
でも、手を伸ばした。
何か思惑があったわけでも、どうにか出来る核心があった訳でもない。
ただ手を伸ばし、彼女に纏わりつく”手”を払いのける。
カレらに触れることが出来た。
いつの間にか迷界に迷い込んでしまったのか、それともカレらから接触して来ている時はこちらも触れられるのか。
分からない事ばかりだが、今はどうでもいい。
「止めて! 離れて!」
その叫びを聞き入れる者はおらず、ぎりぎりと嫌な音を立てながら巡の体は締め付けられていく。
いくら払いのけても、次から次へと生えてくる真っ白な手。
必死で一つ一つ取り除こうが、私を嘲笑うかのようにその数は増えていった。
もはや減らす数より、増える数の方が多いように見える。
「なんで! なんで!? 離れてよ!」
叫んだところで事態は好転などしない、むしろ巡の顔色は刻一刻と蒼くなっていく。
このままでは不味い、私がどうにかしなくては。
そう思った所で、私には何も出来ない。
だって私は『眼』で”見る”事しか出来ないのだから。
情け容赦なしに襲い掛る怪異に対して、私の目にはいつのまにか涙が浮かんでいた。
何もできない私の喉は、嗚咽を漏らしていた。
惨めだ、この上なく惨めだ。
もしも私にもう少し何か”力”があったのなら。
もしも私にもう少し何か”知恵”があったのなら。
そう思う度に苦しくなる。
もはや人の言葉とは思えないほどの嗚咽を叫びながら、必死で”カレら”の腕を振りほどいていた。
私は昔から何もできなかった。
私は一人で何も成し遂げる事なんて無かった。
唯一私の出来たことと言えば、それは。
「お願い! 誰でもいいから! 巡を助けて!」
助けを、呼ぶことだけだったのだ。
誰かに頼り、願う事だけだったのだ。
だからこそ、私は精一杯叫んだ。
誰かに届くように。
以前草加先生が私を助けてくれた、そんな奇跡を起こしてくれという願いを込めて。
そして、”ソレ”はやってきた。
あまりにも唐突に、あまりにも強烈な見た目で。
「……は?」
その呟きが終わるころには、目の前に現れた。
短い言葉を発したそのわずかな時間、たったそれだけの間に。
私は見たのだ、この『眼』で、確かに。
金色の獣の姿で、巡と……その彼女に憑りついた”カレら”を一飲みにしてしまうほどの大きな口と牙。
とんでもなく大きなソレを、これでもかと言わんばかりに開いて巡に迫っている。
「駄目! 巡は食べないで!」
そう叫んだ瞬間、獣は口を閉じた。
目の前で起こったことに、頭が追い付かない。
だって今、”カレら”と共に、巡は獣の口の中に居るのだ。
食べられてしまった。
死んでしまった。
そう考えただけで、視界に靄が掛かっていく。
私は結局巡を足を引っ張っただけで、何にも出来なかった。
ごめん、巡……。
その言葉だけ頭に残し、私は意識を手放したのだった。
どこからか聞こえる、鈴の音を耳に残しながら。
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