第16話 背の高い女


 これは数年前の話、それこそ私が中学生になったばかりの頃の話だ。

 当時私は、姉と弟と共に三人で暮らしていた。

 私の両親は仕事で家を空ける事が多く、平日に限らず土日ですら帰ってこない日々。

 別に育児放棄なんていう大層なものではなく、ただただ仕事が忙しかった両親。

 出張だ転勤だと、忙しなく送られてくる辞令に苦しめられていたらしい。

 そんな中、子供を親の都合に合わせては可哀そうだという気遣いで、二人はマンションの一室を購入した。

 子供達だけでも同じ地域に長年住まわせてやろう、各所に引っ越しを繰り返すよりはずっといいと結論づいたらしい。

 仕事が休みの日にやってくるだけの両親、といえば世間からすれば聞こえは悪い。

 でも実際は二人とも家に居る間はとても幸せそうだったし、何より多額の生活費と共に普通の学生では使いきれないだろう小遣いが毎月振り込まれていた。

 こればかりは良し悪しの評価も分かれそうだが、私はそれなりに満足する生活を送っていたと思う。

 小さいころから両親が帰ってこない事にも慣れていたし、家事だって姉弟で何とかなっていた。

 その頃から『見えていた』私は学校で友人も作れずに孤立していたが、逆に他の家庭と自身の現状を比べる事が無かった。

 ある意味ではそのお陰で悲しまずに済んだとも言えなくはない。

 でも、それは多分私だけだったのだろう。

 高校生の姉は部活などで忙しくなり、帰ってくるのも遅い。

 そして弟はというと……どうやら家庭環境の事で、友達から色々言われていたらしい。

 その影響もあってか、弟は友達と遊びに行く事も滅多になく、学校が終わるとすぐに家に帰ってきた。

 なので自然と、私と弟が共に過ごす時間が多かったのだ。

 私も弟も小遣いがあるからといって、特に欲しい物や遊びたい事があった訳ではない。

 二人してコレといった趣味もなく、派手な遊び方も知らない子供達だったのだ。

 結局やる事といえば、一緒にスーパーへ買い物へ行ったり、家事をしたりと地味な生活が続いていた。

 それでも不満があった訳ではない。

 自分たちの好きな物を買って調理し、好きなだけ食べたり遊んだり。

 ただただ自由に生きていた。

 そんなある日の事、時間を持て余した私達は何となく近所の公園に足を踏み入れた。

 別に遊びに来たという訳でもなく、何となく散歩しているくらいの感覚だったと思う。

 周りで走り回る子供達を眺めてみたり、公園の隅に居た猫を構ってみたり。

 特に意味もない事をして、ただ時間を潰していた。

 それなりの時間が経って、そろそろ日が陰りそうな時間だったと思う。


 「そろそろ帰ろうか」


 なんて会話をしていた時、唐突に『ソレ』が現れた。

 公園の壁の向こう、男の人でも胸から下が隠れてしまうくらいの高さがある壁。

 その向こうに、真っ黒い影が佇んでいた。

 これまで見てきたような靄とは違う。

 どす黒いとしか言えない真っ黒な影。

 明らかに『何か』がそこに居て、こちらに意識を向けている。

 そんな風に感じる程強い視線を感じた。

 アレは不味い、絶対に関わってはいけないモノだと直感が告げる。


 「は、早く行こう。もう暗くなっちゃう」


 そう言って弟の手を引いて逃げようとした。

 関わりさえしなければ、反応さえしなければヤツらは何もしてこない。

 対抗手段とも言えない行動だったが、それ以外の方法を知らなかった。

 家族の中でも、私以外『見えている』人間は居ない。

 だから私さえ気を付ければ何とかなる、そう思っていた。

 しかし、この時だけは違ったのだ。


 「ねぇお姉ちゃん、あの人……こっち見てる」


 思わず動きを止めてしまった。

 聞き間違いであってほしい、他の誰かに対して言っているだけだと思いたかった。

 だが弟は間違いなく、見えていない筈のソレに対して指をさしながら呟いていた。

 その言葉を聞いた瞬間、壁の向こうにあった気配が膨れ上がる。

 ゾッと背筋が冷たくなるような、汗が噴き出るような感覚を覚えて足が震えた。


 「見ちゃ駄目!」


 もはや遅いと分かっていても、私は叫ぶ事しか出来なかった。

 弟を腕の中に抱いて、その目を塞いだ。

 一度でも反応してしまったらどうなるかなんて、それまでの私には経験がない。

 ただ恐怖心だけが湧き上がってくる。

 普段から見ないフリをしていたカレらが、弟の発言によって間違いなく私達を認識してしまった。

 もはや視線を向けなくても分かる、アイツはどんどんこっちに近づいて来ている。

 逃げ出そうとしても、恐怖で体がいう事を聞いてくれなかった。


 「だ、誰か……」


 せめて助けを呼ぼうと周りを見渡した。

 でもそこには、更に恐怖を掻き立てる光景が広がっていた。


 「……え?」


 いつも目にしてた光景、見慣れた公園。

 見間違えるはずもないソレが、この瞬間だけ少しだけ形が変わって見えた。

 簡単に言えば、出口までの距離がやけに遠く見える。

 恐怖のあまり錯覚しているのかとも思えたが、間違いなく距離が延びていた。

 そして何より、子供や保護者で賑わっていた筈のその場所に、誰一人として人の姿が見えなかったのである。


 「そんな……さっきまであんなに」


 もはや理解できる状況ではなかった。

 知っているようで全く知らない場所に放り込まれてしまった様な感覚と、背後から迫る圧倒的な恐怖。

 そのどちらも、私の精神をかき乱していた。


 「お姉ちゃん……」


 腕の中から震える声が聞こえる。

 せめてこの子だけでも、そう考えたのが先か動いたのが先か。

 背後のソレから弟を隠す様に胸に抱いたまま、私は目を瞑りその場で座り込んだ。

 このまま何事もなく通り過ぎて! いつもみたいに私に関わらないで!

 そんな願いを打ち砕く声が、すぐ近くから聞こえた。


 「ネェ、貴女モ 見エテルヨネ?」


 余りにも近くから聞こえた声に、思わず私は目を開けてしまった。

 ただの反射行動、危険を察知する為の生物としての本能。

 だがこの時だけは、それが決定的な仇となった。


 「ヤッパリ、見エテル」


 目が合った。

 まるで覗き込むように頭を下げたソレが、目の前で笑っていた。


 「い、いや……」


 悲鳴でも上げたいところだったが、私の体はそんな簡単な動作も出来ない程に固まっていた。


 「ホラ、見テ。私ヲ 見テ」


 言葉を交わすほど、意識するほどにその姿は鮮明になっていく。

 先ほどまでは影にしか見えなかった筈なのに、今では白い服を着た女の人が笑っているのがはっきりと見える。

 この時初めて分かったが……ヤツらが私達に意識を向けて、こちらもカレらをはっきり認識すると、どうやら私でも姿形が分かるくらいは見えるようだ。

 当然今この場で起こっている事態も異常だが、それ以上に恐怖を抱かせた『彼女』は……とてつもなく身長が高かった。

 初めて明確に姿を現した怪異、予想以上に現実離れした光景。

 『彼女』は背の高い体を折りたたむ様にして、四つん這いに近い形で私達を覗き込んでいる。

 とにかく気持ちが悪い。

 到底この世の物とは思えないソレは、ニヤリと口元を大きく釣り上げながら笑った。


 「行コウ、一緒ニ」


 ソレは立ち上がりながら声を上げ、私達の腕をそれぞれ両方の手で掴んだ。

 掴まれた腕に、鈍い痛みが走る。

 とても普通の人間には見えないが、カノジョの手足は異常に細長い。

 さきほど四つ這いになっていた時なんて、まるで蜘蛛のように見えたほどだ。

 そんな見た目からは想像できない程の力で、ソイツは私達を引きずる様にして歩き始めた。


 「は、なせ……!」


 どうにか振りほどこうと力を入れるが、ガッチリと食い込んだ指が離れる気配はない。

 むしろ下手に暴れたりすれば、私の腕の中から弟が引き剥がされてしまいそうだ。

 結局力いっぱい足を踏んばる事しかできず、ずるずると引きずられてしまう。

 方向的には公園の出口に向かっているようだが……敷地の外へ連れて行かれ、果たして無事で済むのか。

 多分、希望は薄いだろうと直感が告げていた。


 「嫌、嫌だ! はなして、痛い! お姉ちゃん! お姉ちゃん助けて!」


 私と同じように引っ張られている弟が、泣きながら悲鳴を上げている。

 もはやどうしようも無かった。

 とんでもない力で引っ張っていく妖怪。

 このまま私も弟も、どこかへ連れていかれてしまうんだ。

 諦めにも似た感情が、頭の中を埋め尽くしていく。

 もう少しで公園から出てしまう、あぁ……もう駄目だ。

 そう、思った瞬間だった。


 「なぁにやってんだ! このデカ女!!」


 大きな怒鳴り声と共に、その人は現れた。

 現れた……というより、横から飛んできたのだ。

 空中で両足を突き出すように、目の前の女に対して真横から突っ込んで来た。

 俗にいう、ドロップキック。


 「うらぁぁ!」


 そんな叫び声と共に、ゴッ! と鈍い音が響く。

 その瞬間、これまでいくら力を入れても振りほどけなかった『彼女』の手が、嘘みたいにあっさりと外れた。

 そして掴んでいた手を離しただけでは収まらず、彼の全体重を掛けたであろうドロップキックを喰らったソイツは、回転しながら真横に吹っ飛んでいった。


 「……は?」


 思わず間抜けな声を上げてしまう。

 目の前でつい先ほど起こった出来事に、頭が追い付かない。

 しかも蹴りをかました彼は、空中で態勢を立て直しながら綺麗に着地してみせたのだ。

 身体能力的にも色々おかしいが、そもそも怪異を当たり前のように蹴飛ばす人間など見た事がない。

 本当にこの人……人間?

 なんて考えていた私の前に、彼は慌てた様子で駆け寄ってきた。


 「お前ら大丈夫か!? 怪我とかしてないよな!?」


 「え、と……はい、多分」


 弟と私を交互に見ながら、安堵の息を漏らす。


 「ならよかった……ちょっと待ってろよ? 今あの女……背が無駄にたけぇしオカマか? とにかく誘拐犯をとっ捕まえて……って、アイツ! 待てコラ!」


 再び怒声を上げながら走り出す男性。

 その視線の先には、先ほどまで恐怖の対象でしかなかったソレが一目散に走り去っていく姿が映る。

 見事に走っていた。二本の足を勢いよく動かし、両手を懸命に振り回しながら。

 本当に怪異なのかと疑いたくなるほどに。


 「止まれー! 逃げてんじゃねぇぞ犯罪者がぁー!」


 遠く離れていく声を聴きながら、私達はその場に立ち尽くした。

 ふと気づくと、公園の中にも外にも多くの人で溢れている。

 『戻ってこられた』

 今まで張りつめていた緊張の糸が途切れ、その場に座り込んでしまった。

 弟も泣きはらした顔のまま、彼の走り去った方向を唖然とした様子で眺めている。

 正直何が起きたのか、当時はまるで理解できなかった。

 しかし先ほどの彼が、私達を助けてくれた事実だけはしっかりと理解していた。

 安心したからなのか、怖かったからなのか、止めどなく溢れてくる涙。

 濡れる目元を必死でこすりながら、もう姿の見えない彼に心の中でお礼の言葉を繰り返す。

 その後しばらくして落ち着いた私達は、二人手を繋いで帰路についた。

 あれだけの事があったというのに、明るい声で会話をしながら。

 怖かったね、とか。

 凄いキックだった、なんて事を繰り返し話したんだ。


 「あ、そういえば……」


 ふと立ち止まり、思い出したように振り返る。


 「名前とか、何も聞いてなかったな……」


 またいつか、どこかで会えたのなら、その時は必ずお礼を言おう。

 そう心に決めて、私は再び前を向いたのであった。

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