第9話 餌付け


 「はーい、それじゃ今日の授業はここまでなー」


 チャイムの音とほぼ同時に、やる気の感じられない声で終わりの号令を促す。

 授業が長引くことがまるでないというのも、他の教師から見れば色々思う所はあるようだが、生徒達からすれば好印象の授業スタイルだった。

 更に今は午前最後の授業、日直が号令を終えればチャイムが鳴り終わる前に多くの生徒が教室を飛び出していく。

 走り出したのは皆ハラペコの若者達だ。

 他のクラスの連中よりいち早く購買へ向かうべく、風の様に廊下を駆け抜けていった。

 元気だねぇ……なんて呟いて、その辺の机から椅子だけ拝借して腰を下ろす。

 誰の席だったか、まぁ走り出した内の一人だろうから特に問題はないか。

 普通の教師なら授業が終わったらさっさと職員室にでも戻りそうなものだが、昼休み前の授業を行った時だけはこんな風にしばらく滞在する事が多い。


 「先生、またですか?」


 聞き慣れた呆れ声で、真面目そうな見た目の生徒が声を掛けてくる。

 あくまで真面目そう、というだけであってそれが事実という訳ではないが。


 「別にいいだろ? 早く授業を切り上げる事で、皆いい物が食えるんだから。誰も損してないじゃねぇか」


 そんな言い訳をする俺に、やれやれと首を振る真面目スタイルの黒家。


 「まぁ構いませんけど。放課後は早めに部室に来てください、昨日の反省会と今後の予定についてお話があります」


 事務的に要件だけ伝えると、手荷物一つで黒家は教室から出て行ってしまう。

 昨日の夜と比べると、誰だコイツというレベルで表情が動かない彼女。

 むしろこっちがお前に対してやれやれと言ってやりたい気分だ。

 部活の時ほどテンションを上げろとは言わないが、もう少し普段から愛想よく振舞えばいいものを。

 制服をきっちり着込んで眼鏡までかけて、その上自分から周りに話しかけたりしないもんだから、大概一人でいる事の方が多い様だ。

 それこそ今この時も、黒家が俺と話していた事に対して物珍しそうな視線が飛んできている。

 全く、困った問題児も居たものだ。

 ため息を一つ溢してから、廊下に目を向ける。


 「まだかねぇ……」


 黒家の「また」と言ってた用事。

 それが何の事を指しているのかと言えば、単純明快俺の昼飯が来るのを待っているのである。

 いつの頃からか昼直前の授業を早く終わらせる場合は、購買に行く生徒達が俺の分もついでに買ってきてくれるという謎のシステムが誕生していた。

 いち早く購買や食堂に駆け付けられるであろう俺の昼前授業は、多くの生徒達から通称草加タイムと呼ばれているらしい。

 そしてその生徒達が次回もよろしくという意味を込めて、俺の代わりに購買まで走ってくれるという、なんとも中年に優しいシステムなのだ。

 とはいえ当然代金は払うし、何が届くかは走った生徒の気分次第になるので完全にランダムだが。

 まぁそれはそれで毎回違うものが食えるから別にいいかという結論に落ち着き、大体は何もリクエストなどせず、こうして教室で大人しく待っている訳である。


 「あ、あの……草加先生」


 暇つぶしにスマホを眺めていた俺の肩を、誰かの手が叩いて来た。

 どう考えても飯が届くには早すぎるし、黒家のように普段から聞きなれた声という訳でもなかった。

 まぁクラスの誰かだろうと予想しながら顔を上げると、そこには意外な人物が。


 「おう、早瀬か。どうした?」


 早瀬 夏美はやせ なつみ

 普段は話しかけてくるような事もない、というか向こうから声を掛けてくるのは初めてじゃないかと思われる。

 そんな女子生徒が目の前で立っていた。

 今までの印象としては、とにかく普通……と言ったら怒られそうだが、まぁクラス内で目立つ存在ではなかった。

 大人しい性格の様だが、どこかの誰かみたいに友達が極めて少ない訳でもなく、仲のいいもの同士で集まっているのをよく見かける。

 おっさんから見たら、見た目だってクラスの中で結構上位に入るのではないかと思うのだが、少し残念なのがいつも目の下に薄らとクマを作っている事が印象的だった女の子だ。

 記憶の中ではそんなイメージだったが、今目の前で微笑んでいる彼女は何だかいつもと違うご様子。

 彼女の特徴にもなりそうだったクマが、今日は綺麗さっぱり無くなっていた。


 「なんか今日は顔色いいな、クマもないし。夜更かし止めたのか?」


 毎日夜更かしをしているような言い方だが、実際は詳しく事情など知らない。

 冗談めかしに言ってみただけなのだが、それを聞いたは早瀬はクスクスと明るく笑う。


 「はい、おかげ様で昨日はぐっすり眠れました」


 何がおかげ様でなのか分からないが、そりゃ良かったと適当な返事を返す俺。

 やけに上機嫌な早瀬は、頭の後ろで結っているポニーテールがまるで犬の尻尾みたいに揺れている。

 いや流石にワンコの様に振り回している訳ではないが、そんな風に見えてしまうくらい機嫌が良いみたいだ。


 「んで、俺に何か用か?」


 いつまでもニコニコ早瀬を見ている訳にもいかず、話を切り出してみれば。

 本人も「そうだった」みたいな顔をしてから、その頭をゆっくりと下げてきた。


 「昨日はありがとうございました、草加先生のおかげで助かりました」


 「へ?」


 思わず間抜けな声が漏れてしまった。

 当然ながら、まるで思い当たる節がないので首を傾げるしかない。

 昨日……何かしたっけか? 学校では普通に仕事しただけだし、帰ってからはアレだったしなぁ。

 いくら悩んでも答えが出てこない、そもそも昨日早瀬と話したり関わったりした記憶自体ないのだが。

 そんな姿を見て察したのか、頭を上げた早瀬が再び上機嫌に微笑む。


 「昨日の夜の事ですよ。草加先生は気づかなかったかもしれませんが、ウチのベランダ走り抜けてましたよね?」


 「ブフッ!」


 彼女の言葉に思わず噴き出した上、更にむせ込んでしまった。

 不味い、非常に不味い。

 昨日は確かにあの不審者を追いかけて、そこら中走り回ったのは覚えている。

 だが途中から熱くなりすぎて、縦横無尽に逃げるアイツを捕まえるべく他人様の家の敷地内など、多数の場所を駆け抜けてしまったのだ。

 今更だが、いくら追跡の為とは言えアレは非常に不味い事をしたと思う。

 他人から見れば俺だって不法侵入者な上、おかしな物を腰に巻いた不審者に他ならないのだ。

 多分、いろんな所から通報されている気がする。


 「凄かったです! パルクールって言うんですよね? 昨日のアレ」


 しっかりと渡り歩いた所まで目撃されているらしい。

 これは……俺の人生終わったんじゃね? 連続住居侵入とかで捕まっちゃうんでない?

 もはや乾いた笑いだけで早瀬に返事をしている状態だった。


 「あ、あの……早瀬さん? もしかして、通報しちゃったりした? ご家族とか警察とかに、俺の事話しちゃった……よね?」


 声がとてつもなく震えているのが、自分でも分かる。

 普通するよね、通報。

 そうだよね、俺だったらするもん。

 もはや夢であって欲しい。


 「え? 別にそんな事してませんけど、何でですか?」


 何を言っているんだとばかりに、早瀬は不思議な顔をして首を傾げている。


 「え? してないの? マジで?」


 彼女の言葉に耳を疑いながら、思わず身を乗り出してしまった。

 向こうとしても此方の反応が意外だったのか、驚いたように身を後ろに反らす。


 「はい、というかどんな通報するんですか? 草加先生に助けてもらいました、なんて警察に伝えても仕方ないですよね?」


 はて、なんだが会話が食い違っている気がするのは気のせいだろうか。

 さっきも言われたが、俺が彼女を助けた? それこそ何の事だろう。

 先ほどからの会話で、昨日の街中でフリーランをやらかした事に繋がるようだが……なんとも理解しがたい。

 いくら記憶を掘り下げようと、早瀬とアレが関わる事情が見えてこなかった。


 「あ、の……そんなにジッと見つめられると、流石に照れるんですけど……」


 「え? あぁ、悪い悪い」


 いつの間に身を乗り出す様にして、早瀬の顔を覗き込んでいた様だ。

 悩み始めると、どうも考え事に耽ってしまっていかん。

 謝罪を入れながら再び元の位置に戻ると、早瀬の方も落ち着きを取り戻す様に息を吐きながら胸に手を当てている。

 若干頬が赤い気もするが、そこまで恥ずかしい思いをさせてしまったのだろうか。


 「えっと、話を戻すが……その助けてもらったってのは何の事だ? 身に覚えがないんだけど」


 これ以上警察だ何だと話していたらこちらの身が持たないので、そこらへんはもう話題に上げない。

 通報されなかったんだ、ならもういいじゃない。


 「あ、はい。昨日私の家のベランダに、その……アレ、が来ちゃって……その時私目を合わせちゃったんですよ。向こうにも気づかれちゃって、凄く不味い状況になっちゃったんですけど、その時助けてくれたのが草加先生だった。という訳です」


 しっかりと思い出すかの様に、ゆっくりと一言ずつ説明する早瀬。

 途中までは声が震えているような気がしたが、最後の方は何か……うっとりというか、ちょっと楽しそうに話している気がしたのは気のせいかね。

 まあとにかく彼女がいうアレってのは、昨日の不審者でまず間違いないだろう。

 そして、目が合ったなんていうくらいだから……。


 「あっ、もしかしてお前ん家、3階だか4階にある? めっちゃ苦労して登った後、アイツが突っ立ってたのが一回だけあったわ」


 「そうですそこです! 登ってきたのにも驚きましたけど、あの飛び蹴り! 凄かったです!」


 やっと思い出した。というかそれくらいの記憶でしかなかったが、早瀬の方はやけに嬉しそうだ。

 ピョンピョン飛び跳ねる勢いで話に食いついてくる。

 バストは揺れないが相変わらずポニーテールが揺れている、やはりワンコの様だ。


 「あの時先生が来てくれなかったら、本当にどうなってたか。だから、今日しっかりお礼を言おうと思って」


 なるほど、やっと話が見えた。

 記憶の中でアイツは「もう追ってこられないだろゲヘヘ」みたいな感じで、油断して突っ立ってたものだとばかり思っていたが、どうやら早瀬という目撃者に手を出そうとしていたらしい。

 そりゃ確かに危ない所だった、あのまま放っておいたら今頃早瀬がどうなっていたか。

 更にさらに、知らない所で功績を上げた俺は不審者とは認識されず、見事通報されなかった訳だ。

 めでたしめでたし。


 「それで……ですね。言葉ばっかりのお礼ではアレかなぁって思いまして、こんなの作ってみた訳でして……よかったら、その……食べて頂けたら、と」


 一人で納得してウンウンと頷いていた俺に対して、早瀬がやけにモジモジしながら一つの包みを取り出した。


 「まさか……これは……」


 やけに可愛らしいピンクの布に包まれた、四角い物体。

 これは……もしかして、世の独身男性が挙って憧れると思われる伝説の……!


 「お弁当です。いつも購買で買ってたみたいだから……その、お口に合えばいいんですけど」


 真っ赤な顔をしながら、その包みを押し付けるように渡してきた。

 それを手にして、改めて実感が沸いてくる。

 これこそが……女子の手作りベン・トー!

 零れそうになる涙を必死に押し殺し、天を仰ぎながらフルフルと震えるおっさんが一人。

 多分傍からみたら相当気持ち悪い光景だろう。


 「ありがとう、ありがとう早瀬……俺は今死んでもいい」


 「え、いや。そこは死なずに食べて頂けると嬉しいです」


 意外と冷静にツッコミを入れてくる。

 そういう所はちょっと黒家に似ているのかもしれない。


 「とにかく、これはありがたく頂戴します……えぇ、味わって頂きますとも……」


 「あの、そんなに畏まられると恥ずかしいというか……その、頑張りましたけど自信はないというか……」


 お弁当を掲げながら頭を下げる俺に、慌てたように手を振り回す早瀬。

 周りからどう見えているのかわからないが、若干クラスの連中が距離を取ろうとしているのが視界の端に見える。

 そんな中、やはり空気を読まない奴というものは居るもので。


 「草加ッち! 見てみて! 今日はカツサンドゲットしてきたよー!」


 元気の良い男子が購買から帰ってきたらしく、その手に持った戦利品を掲げながら教室に飛び込んできた。

 しかしやけに静かな教室内と、目的の人物がその手に掲げている物体に気づき、男子生徒は気まずそうに視線を逸らす。


 「えっと、ごめん。今日は草加ッちご飯いらない日……だったみたいだね」


 男子に人気の絶品カツサンド、売り切れ御免の一番人気。

 そんな入手困難な品を手に入れてきたというのに、彼はまるで敗者のような暗い表情で再び廊下に向かって立ち去ろうとしていた。


 「いやそんな事はないさ、カツサンドも頂こう。ご苦労だったな、さぁ……代金を受けるがいい」


 誰だお前はと言われそうな不思議テンションで、男子生徒に向かって数枚の紙幣を手渡す。


 「え、いや草加ッち? それ多すぎだけど」


 目の前の状況と、懐から取り出した金額に目を見張る彼。

 だが、今のおっさんはこの上なく上機嫌なのだ。


 「気にする事はない。釣りは……そうだな、クラス全員に飲み物でも買ってやるといい。自由に使う事を許そう」


 本当に誰お前と言いたくなる台詞だったが、クラスの中では喝采が起きた。

 盛り上がるクラスメイトに後押しされ、彼は差し出された紙幣を受け取ると当時に敬礼を返す。


 「草加先生! ごちになります! 必ずやクラス中にドリンクを配布いたします!」


 なぁに、安いものよ。

 この女子高生の手作りベン・トー! に比べれば……な。

 そんな良く分からない思考の元、ピンクの弁当とカツサンドをその手に教室を後にする。

 現金を受け取った彼同様、喝采と共に見送る生徒達。

 早瀬もその場の空気に流されて小さく拍手を送っていた。

 若干苦笑いしている気がしないでもないが。

 そんな姿を視界の端に収めながら、俺は静かに歩を進めていく。

 その右手に夢と希望と愛の詰まった弁当を掲げ、男の友情の証であるカツサンドを左手に下げて。

 まさにやり遂げた男という表情で、喝采の中彼は職員室へと足を向けたのであった。

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