第8話 私のヒーローは変身ベルトを付けたおじさんでした


 今日の夜は、なんだか妙に騒がしい。

 騒がしいとは言っても、どこかの誰かが庭先で暴れているなんて事はない。

 そもそもここはマンションの4階部分に位置する。

 外で少し賑やかに騒いだところで、こんなところまで耳障りなほど響いたりすることは滅多に無いのだ。

 では他の何が、という話になるのだが……。

 チラリと一瞬だけ、ほんの一瞬だけ部屋の中に視線を投げる。

 ここは私の自室。兄弟や姉妹といったものも居ない私は、この広い部屋を個人の物として親から与えられていた。

 ここには私しか居ない、そのはずなのに。

 そこら中から黒い霧のようなモノが立ち上がり、その中にいくつもの人影が蠢いていた。

 何度も何度も居なくなれ、見え無くなれと願った数年間。

 その願いは叶う事なく、未だに彼らはこうして私の前に現れる。

 そして見えるだけではなく、彼らの声も当然の様に私の耳に届いていた。

 良くなるどころか、日に日に酷くなっているのではないか? なんて思う程だ。

 擦れた様なその声が耳に残るくらい、何度も何度も聞こえてくる。


 「ミエルノ? ミエルノ?」


 聞き飽きたと叫びたくなる様なセリフを幾度となく繰り返し、そこら中を徘徊する彼ら。

 耳に蓋をするように、私は普段通りイヤフォンを耳に突っ込んでいた。

 いつもなら音楽でも聴いていれば、それなりに彼らの声を防げると言うものだが……今日はどうしたと言うのか、周りの彼らも落ち着かない様子でウロウロガヤガヤ。正直言って鬱陶しい。

 しかも彼らに反応してしまったりすれば、すぐにでも「ミエテル」なんて言って集まってくる。

 これに答えてしまえば、何をされるかわかったものではない。

 だからこそ無視を決め込んでる訳だが……今日はやけにうるさいしウザイ。

 大方、どこかの馬鹿が降霊術でもやっているのか。

 近くでそんな事をやられた日には、決まって彼らは騒がしくなる。

 昔学校の友達がそういった類のモノで遊んだ結果、今と似たような状況になっていたのはよく覚えている。

 大体は失敗……というか不完全な形で終わると言われている降霊術、それは霊を降ろすというよりも、ただ周りのコイツらみたいな存在をかき集めてしまうに過ぎない。

 私が見た限りでは、いつもそんな感じだった。

 そしてその結果、私の様な見える人間にばかり被害を被るという、とてつもなく迷惑な代物なのである。

 はっきり言ってそんな事を行う人達の気が知れないが、見えなければただの興味本位で済まされるのだ。

 とてもいい御身分だなと、お小言の一つでも言ってやりたい気分になる。

 まぁそんなわけで、多分どこかの誰かがやらかした結果、今の私の部屋はとても賑やかな事になっているのではないかと予想している訳だ。

 元気な彼ら……と言ったら矛盾がある気がするが、もう死んでる訳だし。

 とにかくせわしなく動き回る彼らのせいで、私の眠気も未だ訪れる気配がない。

 今しばらく待とうとため息を溢した矢先、部屋の扉からコンコンッと控えめなノックの音が響いた。


 「夏美なつみ、まだ起きてるの?」


 心配そうな表情で、母が顔を覗かせた。


 「ごめん、もう寝るから。心配しないで、お母さん」


 そういって微笑みかけると、母は安心したように微笑んでから顔を引っ込めた。

 母を見送ってから、扉が閉まると同時に顔が強張る。

 いつもより顔色が良くなかった……元々体が弱いと医者に言われていた母だったが、ここ最近は体調を崩す事がより多くなったように思える。

 その原因はおそらく医師や……多分その当人よりも、私には良く分かっている。

 他の人からしたら何でもない体調不良、でも私の目には……普段から母の背中に、多くの赤ん坊が張り付いている光景が見えていた。

 目や口といった顔面が窪んでいる箇所、とでも言えばいいのか。

 その全てが暗闇で覆われた、得体の知れないそれらが母の背中には張り付いている。

 日に日に数を増やすソレは、今では母の背後を埋め尽くさんばかりに増え続けていた。

 そんな母を……というより、普段から体調不良を繰り返す母を見かねてか、それとも私の奇異な体質のせいか、父親はとうの昔に出ていったきり帰ってこない。

 ちゃんとした理由は明かしてくれなかったが、もしかしたら両方という可能性もある。

 そんな経緯の元、一人で身を削るように働く母は、日々様々なストレスと戦っていた。

 私だって色々見えてしまうのだから、ストレスにならないと言えば嘘になる。

 しかしそれは両親に相談しても困らせるばかりで、私自身が母のストレスになりたくないという一心から、この話題についてしばらく触れてさえいない。

 それこそ昔からそういう気遣いが出来ていたのなら、父親も出ていくことは無かったのかもしれないが……。

 まぁそんな事今更言っても仕方がない。

 大人しくこの騒がしい空間で、どうにか眠りにつこうと考え始めた。

 だいぶ諦めの混じった決断の後、イヤフォンを外した瞬間。

 その声は聞こえてきた。

 周りの彼らとは違う、低くはあるが、力強く野太い声。

 距離があるのか何を言っているのかまでは分からないけど、何かに怒鳴りつけながら近づいてくる声。

 まるでその声に反応したように、私の周りに集まっていたソレらは一斉に視線を外へ向ける。

 またおかしな事じゃないだろうか……なんて不安を抱えつつも、覗き見をするかのようにカーテンを少しだけ開けた。

 すると。


 「えっ……?」


 私の住まうアパートの前の大通り。

 私の視力で見えるギリギリくらいの所から、何かが走ってくる。

 血に濡れて赤黒く染まったかのような薄汚れた雨がっぱを翻し、長い髪の毛を振り回しながらとんでもない勢いで走っていた。

 その手には刃物らしき鋭い得物を持ち、凄いスピードでこちらへ向かって走ってくる。

 どう見たって普通じゃない。

 ここからでも分かるほど異常な雰囲気を放ちつつ、目が合ったわけでもないのにとんでもない寒気を感じる。

 狂気に満ちた瞳。

 あの長い髪の毛の向こうにソレがあるとわかった途端、感じていた寒気が全身を震わせるほど強くなった。

 咄嗟に布団を頭から被る。

 アレは不味い。出会っただけで良くない事が起こりそうな、付いてこられたりなんかしたら命に関わるような……そんな存在だと思う。

 絶対に目を合わせてはいけない、ソレに関わってはいけない。

 そういうモノだと、遠目から見ても理解できた。

 なら、私が取るべき行動はいつも通り……見ない、聞かない。

 それに徹するだけだと心に決めて、ベッドの上でガタガタと震える体を抱きしめる。

 あれだけは関わっちゃいけない、あんなものがすぐ側にいるんだと感じてはいけない。

 その一心で震える体を押さえつけている私の耳に、信じられない言葉が響いた。


 「てめぇコラ、いつまで逃げてんだぁ! さっさと捕まって弁償しやがれってんだ!」


 さっき聞こえてきたものと同じく、力強くて、低い男性の声。

 明らかにさっき見たモノが発した訳ではないだろう。

 確かに私の耳が捉えたその声に、疑問と困惑の念が浮かぶ。

 普段では考えられない異常事態、しかもそれが連続で起こっている現状に私は頭を抱えた。

 何度も見たいと思える代物ではないが……さっきから聞こえる怒鳴り声は、多分同じ方向から聞こえてきている。

 それこそアレとはまるで関係ない、ただのそこら辺にいるチンピラの怒鳴り声だったなんて可能性も考えられるが、それにしては何かを追いかけているような雰囲気だった。

 もしかして、その声の主はアレを追いかけているのだろうか?

 その上あんなモノですら逃げ出すほど、とんでもない力の持ち主であったりするのだろうか?

 そんな淡い希望が浮かんでくる。

 だが好奇心で覗き込んだ結果さっきのアレが目の前に居る、なんて事になったら目も当てられない。

 彼らならそれくらいの事、当たり前の様に起こってしまうのだ。

 肉体がないから当たり前なのかもしれないが、アイツらに物理法則みたいなものはない。

 壁や天井は平気ですり抜けてくるし、何もない空中を我が物顔で歩いていたりする。

 当然こちらから触れるなんて不可能で、今の所対抗手段なんて私には思いつかない。

 ただただ気づかないフリをするのが関の山だ。

 相手はそんな連中な上、アレは他の個体と比べ物にならないくらいマズイ。

 なら危険を冒す必要はない……このままじっと耐えて、通り過ぎるのを待とう。

 さっきから聞こえる声も、アレを追いかけまわしている確証なんてないのだから。

 きっと私の勘違いだ、あんなモノを追い回す人間なんて普通いない。

 考えてみればそうだ、あんな気味の悪いモノを平然と追いかけられる人が居るなら、逆に見てみたいと思うくらいだ。

 結論が出て、改めて毛布を被り直した私の耳にその声は届いた。


 「お前だよお前! 止まれ、止まれってんだ! えっと……なんだ、雨がっぱ着たロンゲ! コラ止まれや!!」


 どうやら無関係ではないらしい。

 明らかにその声は、さっき見たソレを指していた。

 普通では視界に止まる事もないであろう彼らに、大声で静止を呼びかけるその声。

 本当に訳が分からなかった。

 本来彼らの姿を見ればそれが何なのか、どういったものなのか理解出来そうなものだ。

 しかもどう見たってヤバいソレを追いかけるその人の声は、臆している気配が微塵も感じないのである。

 こんな事、私の人生においてあり得なかった。

 その訳の分からない事態と、胸に秘めるあり得ない可能性……もしくは好奇心と呼ぶのかもしれないが。

 私の経験を覆す出来事を起こせる、もしそんな人が居るのなら。

 勝手な妄想かもしれない、現実はそんなに甘いものではないという事は今まで散々経験してきた。

 でももしかしたら……。

 淡い期待を胸に、目の前のカーテンを振り払うように押しのけた。

 もしもこの期待が裏切られ、目の前にアレが立っていたら。

 その状態で「見エルノ?」なんて聞かれてしまえば、いい訳のしようが無い状況に追い込まれるだろう。

 例え目の前に居なくとも、カーテンを開けた私を見つけてアレがこちらに走ってきたら……間違いなく私はソレに苛まれる事になるだろう。

 今すぐに殺されるかどうかは別として、遠くない未来……そういう結末が待っていると予想できる。

 そんな危険を冒す覚悟があったのか、そう問われれば正直分からない。

 でも、これを逃したら一生後悔するという焦燥感だけはあった。

 だからこそ迷いなく、目の前のカーテンを開け放つ。

 もしも最悪の事態が発生したなら、その時はその時だ。

 そんな決意と共に目の前のガラスを睨む。

 すると。


 「え?」


 まさに最悪な状況、最悪のタイミングだった。

 私の眼前には、今まさにその場を通り過ぎようとしていたソイツの姿があった。

 走り抜けようとしたソレは、私に気づいてビタリと足を止める。


 「ぁ……あの……」


 震えるその声を聴いて、ソイツは口元を釣り上げる。

 失敗した、声を上げるべきではなかった。

 さっき見た光景では、まだ数十メートルはありそうな距離だったはずなのに。

 それだけの距離を、まるで一瞬で移動してきたような速さだ。

 こんなもの予想出来るはずがない。

 もしもカーテンを開けるのが、あと数秒遅ければ……もしもあのまま毛布を被ってやり過ごしていれば。

 後悔ばかりが頭を埋め尽くして、涙が溢れてくる。


 「ネェ、見エテルヨネ?」


 もはや否定のしようがない。

 体は震え、悲鳴にならない乾いた声を漏らす。

 ソイツの血走ったような瞳も、血に濡れた細い体も、私はしっかりと視界に収めてしまっているんだ。

 この世で最もあってはならないモノ、最悪という名の存在。

 目の前のソレは、そういう言葉以外では言い表せなかった。


 「ぃ……ぃゃ……来ないで……」


 今まで妄想していたような「いつか誰かが助けてくれる」なんて、そんな甘い出来事は用意されているはずがなかった。

 誰か、そうまるで救世主の様に。

 ある日突然現れて、私をこの状況から救い出してくれる。

 そんな漫画みたいな、映画みたいな人に憧れていた……小さい頃からずっと。

 その幻想も今この瞬間、完全に打ち砕かれてしまったと言えるだろう。


 「見エテル……見エテル」


 そう繰り返しながら、ソレは右手を振り上げる。

 私の瞳に、ソレの右手に握られた刃物が煌めく様子が映し出される。

 月明りに照らされながら、三日月の様に吊り上がった口元をさらに引上げ、今にもその右手を振り下ろそうとしていた。

 あぁ、ここで終わりなんだ。

 やけに冷静になる頭が、終わりを悟った。

 訳の分からないモノに追い掛け回され、家族を苦しめ、友達も気味悪がった私という存在は今ここで終わりを迎える。

 それがはっきりと分かるくらい、ソレはゆっくりと近づいてくる。

 その手に持った刃物は、いくらガラス越しとはいえ無事に済むとは思えない。

 だって彼らには実体そのものがないのだから。

 私の胸を貫くその瞬間は痛いのだろうか? それとも実物ではない刃物が刺さるだけなら、苦しいだけで済むのか。

 でも、アレが振り下ろされれば私は命を落とす。

 これだけは、多分変わらないのだろう。

 彼らはそういうモノであり、私達生きている人間には回避しようもない事実。

 私たちの常識なんて通用しない。

 私がどう足掻こうと、彼らは追いつめてくる。

 だから、これが最後なのだと諦めた。

 最後の足掻き……といえば聞こえは良くなるかもしれないが。

 ソレが振るう刃物がこの胸に突き刺さる瞬間、その最後の瞬間まで見届けてやろうなんて思ったんだ。

 私の最後は、私自身が最後まで見続けるんだ。

 どれだけ痛かろうと、苦しかろうと、お前たちの望む悲鳴なんか上げてやらない。

 そんな些細な抵抗だけでもしてやろうと、私は瞼に力を込めた。

 ごちゃごちゃした思考を投げ捨てて、肺に残った空気を吐き出し、後歯を食いしばりながらその瞬間を待つ。


 「一緒ニ、行コウ……」


 ただただ楽しそうな笑顔を浮かべて、ソイツは右手を振り下ろした。

 でも、やっぱり痛そうだな……嫌だなぁ……。

 呆気ない、余りにも呆気ない終わり方だ。

 でも、もう仕方ないよね……そう諦めた瞬間。


 「ここに居やがったかぁぁぁ!」


 叫び声が聞こえた。

 それと同時に、ソイツの顎に向かって誰かの踵がめり込んだのが見えた。

 本当に一瞬だった。

 これでもかというほど目を見開いていたから良いものを、もし瞬きでもしようものなら多分見逃してしまう程一瞬の出来事だった。

 さっきまで確かに目の前にいた、その恐怖の対象が……真横に吹っ飛んでいったのだ。


 「は?」


 訳が分からない。

 さっきまで嫌という程、己の死を覚悟していたというのに。

 ソイツは顔面に飛び蹴りを喰らって、そのまま隣の部屋のベランダまで吹き飛ばされてしまったのである。


 「やったか!?」


 『先生、それはやってないフラグです』


 吹き飛ばされたソレと入れ替わるようにして、彼は私の目の前に着地した。

 月明かりに照らされる男性の姿。

 まるで映画の主人公のような登場、誰と話しているのかは分からないが、まさに漫画でありそうな会話。

 そして腰に輝く変身ベルト…………変身ベルト?


 『COMPLETE!』


 「おいこのベルトうっせぇ!」


 『この人また変身してる……』


 なんでこの人そんな物付けてるの? というかここ4階なんだけど。

 この人物はさも当然の様に登場した訳が、普通ならありえない事態だ。

 色々と聞きたいというか、ツッコミたい事だらけなのだが、まずどうやってここまで登ってきたんだろう。

 というか……彼の顔に見覚えがある気がする。


 「んな!? くそっ、アイツまた逃げやがった!」


 彼は叫びながら再び走り出す、ベランダの隅に向かって。

 私の家はアパートの角部屋に当たる。

 隣には母の寝室のベランダが伸びているが、当然その先には何もない。


 「あ、あのちょっと!」


 慌てて窓を開けながら声を掛けようとするが、既にベランダに彼の姿はなかった。

 確かにベランダにはその姿は無かった……のだが、隣の建物を屋上を走り抜けている姿が見える。

 思わず目を疑う光景だったが、彼は疑問に答えるかの如く、すいすいと建物から建物へ渡り歩いて見せた。

 パルクール……というやつだろうか?

 ベランダの僅かな隙間に着地してみせたり、時には電柱に足を掛けて三角飛びの様な芸当を自然にこなしながら走り抜けていた。

 そんな彼の姿が、冗談みたいな速度で小さくなっていく。

 まるで夢でも見ていたような感覚だが、確かにアレはさっきまで目の前に居たのだ。

 そして彼は間違いなくソレを蹴飛ばし、そして嵐のように去っていった。


 「今のって……」


 呆気に取られて忘れていたが、彼の顔を今更ながらに思い出す。

 あの顔、あの声。

 多分……私の記憶違いでなければ、知っているその人だった。


 「草加……先生?」


 私の通っている学校の教師、普段から眠そうにしているイメージしかないその人だ。

 体育の教師では無かったはずなのだが……あんな動きが出来たとは、正直驚きである。


 「夏美、大丈夫!? 今ベランダから変な声が!」


 叫び声と共に部屋に走りこんできた母が、息を切らしながら私の肩を掴む。

 体調が悪いのだから、あまり無理してほしくはないのだが……なんて思ったところで、ふと異変に気付く。

 母の背中に、何も憑いていないのだ。

 それどころか私の部屋の中も、きれいさっぱりアイツらが居なくなっている。

 一体なにが起きたというのか、まるで意味が分からない。


 「大丈夫!? 早くカーテン閉めなさい! まだ何か居るかもしれない!」


 いや、むしろ何も居なくて困惑しているのだが。

 とはいえ、こればかりは流石に言葉にする訳にもいかない。

 とりあえず言われた通りに、カーテンを閉めようと振り返った視線の先で、何かが蠢いたのが見えた。

 見慣れた黒い影、いつも私の周りに居たソレがいくつも重なり合い、ベランダの端で忙しなく動いている。

 思わずビクッと反応してしまったが、影の中に蠢くソレは私の事などお構いなしに外へ外へと向かって移動していく。


 「コワイ……コワイ……」


 皆同じような内容を呟きながら、次々とベランダから外へと歩き出していた。

 まるで緊急時に出口に殺到する避難民のような光景に、思わず息を飲むが。

 怖い……?

 聞き間違いではない、彼らはそう口走っていた。

 私の部屋の中どころか、母の背中に居たソレまでもが一斉に逃げていく。

 彼らにそこまでさせる何かが、今まで私を苦しめていた彼らが怯えて逃げ出すような存在が、今私のすぐ近くに居たのだとすれば。

 まず間違いない、さっき走り抜けていった草加先生の存在なのだろう。

 こんな事、起こるはずがないと思っていた。

 誰かがある日突然助けに来てくれる、そんなものは幼い少女の夢だとばかり思っていた。

 だけど、今は違う。

 当然現れて嵐の様に去っていく、彼の姿がこの目に焼き付いている。


 「夏美……? どうしたの? まだ何かいるの?」


 未だに心配そうな声を上げる母。

 違うよ、もう何もいないよ、これからは何も心配しなくて大丈夫だよ。

 そんな風に言ってあげたい。

 でも流石に「さっきまでお母さんの背中にいっぱい赤ちゃんの霊がついてたよ」なんて言える訳もなく、どうにか笑みを浮かべて誤魔化す他なかった。

 でも、もし伝えるなら……そうだな。

 私を助けてくれた、颯爽と現れたその姿、その勇士。

 小さな女の子なら白馬の王子様、なんて表現をしそうな処だが。

 生憎とそんな容姿……というか恰好はしていなかった。

 なんたって、腰回り滅茶苦茶光ってたし。

 その姿を思い出し、思わず笑ってしまいそうになる。


 「夏美?」


 はて、と首を傾げながら母もカーテンの向こう側を覗き込む。

 母には当然アレを見ることは出来ないが、私にもそこに何かがいるようには見えない。

 みんな何処かへ行ってしまったのだ、彼の存在を恐れて。

 そうだな、母に何て答えればいいだろう。

 白馬の王子様でもなければ、母の疑っている様な不審者でもない。

 なら……あぁ、そうだ。

 彼の姿は多分、この言葉が一番しっくり来る気がする。


 「さっきまでね、そこにヒーローが居たの」


 何の事だと首を傾げる母を見ながら、申し訳ないとは思いつつもクスクスと笑いが漏れてしまう。

 だって仕方ないじゃないか、今まであんなに悩まされていたんだもの。

 ずっと苦しめられていた存在が、彼が登場したその一瞬で綺麗さっぱり居なくなってしまったのだ。

 彼にとっては、まるで気にも留めない出来事だったのだろう。

 ただそこを通り過ぎただけだったのだろう。

 でも、私はそんな彼の行動に救われたのだ。

 こんな可笑しい事があるだろうか、今まで悩んでいた私が馬鹿みたいじゃないか。

 未だ心は踊っていた。

 嬉しさが溢れ出すみたいに、両方の目に涙が滲んだ。

 私の悩みが全て解決した訳じゃないかもしれない、完全に見えなくなった訳じゃないかもしれない。

 でも頼りになる人物を見つけられた。

 それだけで、私は飛び上がってしまいたくなるくらい嬉しかったのだ。


 「明日、お礼に行かなきゃ」


 静かに呟きながら、再び彼の姿を思い出す。

 目を瞑れば、瞼の裏に浮かび上がる私のヒーローの姿。

 あの姿を思い出すだけで、これからは安心して眠れる気がする。

 そんな予感と共に、私は母に満面の笑みを返したのであった。

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