disc⑦『この場所は、譲れない』
「おい、怒らないのか、アカリらしくない」
ライブの休憩時間。whetherzの楽屋で、クモリが後ろから、静かにしているアカリに話しかけた。前半戦のDJバトルは、ケットシーの勝利で決着がついてしまった。
しかし、『僅差』という点を考えれば、この敗北は大きい痛手ではない。ケットシーも、今回の勝負で原点を超えたとは思っていないので、まだ看板は奪わないだろう。しかし負けは、負け。この結果に完全勝利を望んでいたアカリなら、一番納得出来ないはずだが、何故か怖いくらい大人しかった。
「怒ってもしゃあねーよ、客が決めた勝敗だ。
「なら、その低いテンションは、なんだ?」
「……次の勝負で、whetherzの格が決まっちまう。
大人しさの原因は、自身の実力に対する不安だった。強気で、毒舌気味のアカリも欠点に対する理解は人一倍あるようだ。この後のラップバトルは、相手がいる上で行われる。つまり、即興で行わなければならない。
「
「曲の作詞、雰囲気重視、言うほど韻踏んで無い」
「でも
アカリが言ったのは、本日のライブで一番最初に観客達へお披露目した、『追+how 素+lowライフ』にある冒頭部分の歌詞である。
「韻の踏みは、ギャグみたいに、やればいい」
「お金を取られた、おっかねー……的な? 簡単に言うなよ。即興でできる気しねーから、どうしたらいいか悩んでるんじゃん」
「完璧に、やる必要、ないんだぞ」
「でも、俺が大惨敗したら……この
はぁ……と、アカリはため息をついた。それが本来の妹らしい弱気だと知っている兄のクモリは、肩をすくめると、楽屋にある樽を引っ張って隣に置くと楽に座った。
「一番、不安なのは、そこか」
「ご先祖様も——何があったか分からないけどさ、自分の大切なハコ……無くして、絶望してただろ?」
「……、確かに、そうだな」
「なんつうか、すげぇ血が騒ぐんだよ。何百年も客を楽しませてきたこの
アカリは本音を明かす。脈々と受け継がれてきた歴史の重み、何よりもこの会場が大切な場所であるという、譲れない思い。故に、この後のラップバトルはどうしても勝たなければならないのだ。クモリは、妹の熱意を受け取ると、兄として落ち着いたアドバイスを添える。
「ラップバトルは、言葉にビビったら、負けだ」
「だよな……」
「だが相手を、言い負かそうと、しなくていい」
「……?」
キョトンとしているアカリに、クモリはいつも彼女がライブ前に見ている、例の電子タブレットを手渡した。そこで確認出来るアプリケーションは、作詞や楽曲のネタがぎっしり詰め込まれた『メモ帳機能』と、自身の呟きだけを観覧できる『SNSアプリ』だけだ。
「言葉を止めない、それがMCの、取り柄だろ」
「MCの——取り柄……」
「いつも通りの、馬鹿騒ぎで、客を楽しませろ」
クモリの言葉と、タブレットをスワイプさせた先にある、元祖whetherzの呟き。そこには、パンデミックに陥る前の輝かしい音楽活動の数々が残されている。DJとMCは楽しんでくれる『客』がいて、初めて成り立つ仕事なのだ。
「……あざっす、
「この
兄妹はニッとお互いに笑うと、吹っ切れた気持ちと共に、楽屋からステージに向かっていく。いつも浴びてきた、薄暗い出入り口の光。その先で、whetherzの意地をかけた後半戦が、今、はじまる。
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