読めば、わかるよ
浜風ざくろ
第1話
奴隷とタイプライターになったことを、天国の従妹に報告したら笑うだろうか?
きっと、軽蔑されるのだろうな。
階段ですれ違った女子生徒たちから、汗とシャンプーの香りがふわりと零れた。フローラル系の華やかさが麻薬のように鼻腔をくすぐってきて、健全な男子高校生の官能を刺激的なほどに刺激する。
女子生徒たちの去り際の笑い声。浅はかな俺をあざ笑っているように感じられるのは被害妄想だろうか。
俺は二段飛ばしで階段を登りきると、廊下を真っ直ぐに歩く。
窓を見遣ると、木枯らしになぶられて揺れる禿げた桜の木と、芋虫のようにうごめく曇り空があった。オディロン・ルドンの絵画のようだ。幻想的でどこか危険な雰囲気を漂わせ、人の不安を心の奥底から呼び覚ましてくる。窓が、ガタガタと揺れた。
急かされるように、俺は早足になった。
室内灯の輝きを吸収するように暗くなっていく廊下。
その奥に、俺の目的地である図書室があった。
引き戸の前にたどり着いた俺は、カバンの中を確認する。登校前も、授業の合間にも、放課後にも、飽きるほど確認しているはずなのに。
USBメモリは、たしかにカバンの内ポケットに入っていた。
俺は胸を撫でおろし、引き戸を開ける。
「……」
現れたのは本に囲まれた異空間だった。静謐であることを強制され、ページをめくる音と空調の音だけが存在することを許されているガリ勉と読書家たちの聖域。暖房が十分に効いていないせいか、冷たい空気が肌を撫でた。
俺は身震いしながら、図書室の二階部分に目を向ける。
柵に手をついた少女が、俺に気付いて手を振ってきた。
漆器のように艶やかな黒いショートヘアと、黒曜石のような瞳。市松人形を思わせる白い肌。着物が間違いなく似合うだろう美麗な少女は、俺が数か月前に貸した灰色のパーカーをセーラー服の上に羽織っていて、どこかアンバランスな印象があった。悪戯っぽい微笑みをたたえ、上に来るよう招き猫のごとく手を動かしている。
俺を奴隷とタイプライターにした張本人。
商業作家だった、この俺を。
「待っていたよ、村井ホトトギス先生」
「……いつも通り、
「ははは、ボクはホトトギス先生の大ファンだからね。どうしてもペンネームで呼びたくなってしまっていけない」
「光栄です。でも、同級生にペンネームで呼ばれるのは恥ずかしいんで……」
「わかっているよ、芳次くん」
円花さんはそう言って、俺の近くにやってきた。触れるか触れないかという距離で、上目遣いに俺を見上げてくる。柑橘系の香りが、俺の心臓の鼓動を速めた。彼女は、細い指先を俺の胸元にあてがって、小さく笑う。
「図書室では静かにしないといけないよ。キミの心臓にそう言いたまえ」
「だ、大丈夫ですよ。ここ、俺たち以外いませんし……」
動揺して、おかしな弁明をしてしまう。俺の馬鹿。これでは、まるで官能的な何かを期待しているような言い回しではないか。
円花さんが、スキを見つけたと言わんばかりに目を細める。
「おやおや。芳次くんはここで何をするつもりなのかな?」
「別に何もしませんから。……それよりほら、はやく書きますよ」
「はぐらかした」
俺は、円花さんの言葉を黙殺して席へ向かう。
図書室の二階は資料室だ。古い本や学校の資料などが保管されているスペースで、図書委員以外立ち入ることができない。そのため、図書委員である俺と円花さん以外はここには誰もいない。
基本的には本棚ばかりの場所だが、資料の整理などの作業をする際に使う長机とパイプ椅子が奥の方にある。俺はそこに腰かけた。
目の前には、閉じられたノートパソコンが一つ。
「……さて、お楽しみタイムだ。今日はどんな話を書いてくれるかな?」
「そんなに期待しないでください」
「期待するさ。ボクだけの小説なんだから」
円花さんはニコニコと俺を見つめる。いや、俺という自分専用の小説製造機を見ているのだ。
訳があって、俺は彼女ためにだけ小説を書いていた。
「……ああ、そうだ。その前に一ついいかな?」
ノートパソコンを開き、電源ボタンを押したところで円花さんが口を開いた。俺の肩が思わず震える。
先ほどと打って変わって、異様なほどに声が冷たかったからだ。ろくに効果のない暖房の熱がすべて消し飛んでしまうくらいに、一気に空気が冷え込む。
「な、なんですか?」
声が震えてしまうのは、知っているからだ。
彼女が何を言おうとしているのか。
「……今日、ちょっと遅かったよね?」
「は、はい。十分ほど……」
「どうして?」
円花さんの瞳から光が消えていく。
「どうして、遅くなったの?」
「それは……」
彼女はきっと……いや間違いなく全部わかっている。知ったうえで、俺に訊いてきているのだ。嘘はまず通用しないし、嘘を言えば身の毛のよだつような恐ろしいお仕置きが待っている。
震える声で、白状する。
「せ、先生に呼び止められて……。委員長と一緒に資料を運んでいたんです」
「委員長って、女の子でしょ?」
俺は首元の筋肉が硬直するのを感じながらも、何とか頷いた。
「……結構近くにいたんでしょ? キミの体から雌犬の卑しい匂いがしたから」
「……」
「会話も聴いていたよ。楽しそうだったね。三分四十三秒も話していた。その間、何回も君と委員長とやらの笑い声が聞こえてきて、思わず読んでいた本を引きちぎりそうだった。ねえ、ボクの気持ちがわかるかい? 分かるよね?」
「は、はい……」
「ボクは言ったよね? ボクが許可したとき以外、他の女と喋ってはいけないって。なのにどうしてキミは何回もボクとの約束を破っちゃうのかな? 今日、他に二回も女と喋っていたよね?」
消しゴムを落として拾ってもらった時と、先生から呼ばれていると伝言を受けた時だ。
隣に座っていた円花さんが、ずいっとこちらに顔を近づける。大きな黒い瞳は闇が深まり、飲み込まれそうなほどに暗く重たい。
俺は脇汗を流しながら押し黙ってしまう。言葉が見つからない。下手な弁明は火に油を注ぐ。
「キミはボクのものなんだ。いい加減、その自覚を持ちなさい。キミはボクのためだけに小説を書いていればいい。それ以外のものに気を取られる必要はない」
「……」
「分かってる? 何か言えよ」
「……はい」
俺は、ぐっと手を握り締めて小さく声を零した。
鈴木円花には逆らえない。
俺から距離をとると、円花さんは口元だけを不気味に吊り上げた。
「……今回も許してあげる。ボクは心の広い女だからね。浮気はある程度は許してあげるよ。でもね、次また女と話しているのを聴いたら、そのときは容赦しないから」
「はい、わかりました」
「ボクの耳は学校までしか届かないからさ。外で他の女と喋ったり、ましてや会ったりしてないよね?」
「もちろんです。円花さんを裏切るような真似はしていません」
円花さんはしばらく俺を睨んで、首を傾げる。まるで首の取れかけた呪われた市松人形のごとく。
「信じるよ」
その一言が、水銀を流し込まれたみたいにとてつもなく胃を重たくする。
パソコンが立ち上がった。
「……さあ、戯言はこの辺にして、そろそろ書いてもらおうか。ボクとキミの物語を」
頬ずりするように傍に顔を寄せてくる円花さんは、魔性の小悪魔のごとく甘い毒を声に乗せる。
そのチョコレートの味がする毒に、俺は酔いしれながらキーを叩いた。
今日も彼女のために執筆する。
それを俺が望んでいるから。
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