#’2 Fortes fortuna adjuvat 2/6


 #2、幕開けの日常アブノーマル、午前。




 雲を運ぶ風はさらさらとながれ、嘶く馬の蹄鉄が剥き出しの地面を抉り音を奏でている。

 そんな爽やかな空気の中…。



「ほら後輩!チンタラ走るんじゃないぞ!」

「「はい!」」

「こ、え、が……小さくないか。」

「…はぁ」


 ……なんだこのノリは。と、つい溜め息を吐いてしまった。


「……お前も苦手か?こう言うの」

「まぁね」


 声の方向を向かずに答えた。小さな溜め息のつもりだったが、隣を走るヤストキには聞こえていたようだ。

 少し空を見上げた。なんて事のない青空だ。兵舎の医務室のベッドで目覚め、温かい朝食も食べた。

 小うるさい監督役がいることを除けばいい午前だと思う。


 不思議だ。


 今、自分の身体は不自然なほど自然に、この世界の空気に適応してなじんでいる。その事への違和感や奇妙さを感じない。僕がこの世界にやって来たのはつい昨日の事だというのに…。



「よし、ちゃんと10周したな! 休んでいいぞー」


 暫定的な保護者であるヤクトが付けた監督役の指示が飛び、給水の為に僕らは木陰に置いた木製の水筒の元へ向かう。


 僕らが今いるこのグラウンドは、ヤクトが案内してくれた衛兵営舎の敷地内にある訓練施設の1つのようだ。僕らが走っている此処は走り込み用で、他には馬の騎乗や少数での試合い用の小狭い場所とあり、屋外から室内まで実に様々だ。


「朝からあっちいな」


 そう言うとヤストキは勢いよく水筒をあおった。よほど喉が渇いていたのか、小気味よい音を鳴らしている。

 対称に僕は、少しずつ水を口に含めて飲み、ヤスに言葉を返す。


「でも、聞くところでは訓練の方がキツいらしいね」

「まぁな。これにプラスして盾やら何やら持たされるからな。いい筋トレよ」


 彼…ヤストキとはこの世界に来る前からの友人だ。

 しかし『漂流者』のさだめか、元の世界の記憶はあらゆる部分が虫喰いであり、僕はここまでの仲になった経緯などは殆ど覚えていないかった。ヤスは僕のそれよりはましらしいが、そんな事を些事だと思わせる程、彼とは交流があったのだろう。この緊張感の無さが何よりの証明だ。


「ってか、なんで俺らこんな事やってんだ?」

「……全くね」


 僕らは苦笑する。

 そも、何故このような走り込みをやっているのかはちょっとした経緯がある。



 昨日のあの時、頭に強い衝撃を感じた僕は、営舎にある医務室へ運ばれた(ヤスは肩を貸してもらいつつ家に帰ったらしい)。その最中、意識朦朧とした中でも、僕はヤスを含む漂流者の先輩方に挨拶を決行したようで、支離滅裂ながらギリギリ自分の名前だけは伝わってるとのことだ。医務室のベッドに寝かせれて直ぐ、混乱による疲れもあってか泥のように眠ってしまった。

 これはその翌日(つまり今日だが)目が覚めたときにヤクトから教えてもらった事だ。


 朝食に、芯までよく煮込まれた野菜がたっぷり入った優しい塩味のスープを食べ終えると、ヤクトから今日の僕の日程を告げられた。

 まずはやはりこの世界……と、言うよりはこの村についてを道中説明してもらいつつ、この村の村長邸へ行くなる事になっている。その後は例の一軒家へ行き、改めて先人であるヤス達への挨拶となる。


 しかし、ヤクトは衛兵長と言う肩書きから多忙の身であり、只の1人にそこまで時間は使えない。予定は昼食後。と言うわけでそれまでの間は好きに過ごしてくれとの事だった。一晩眠ったからか昨日の不調が消えていた僕は「少し、体を動かしたいです」と打診し、「おう、いいぞ」と二つ返事で許可が出た。更に普段より衛兵見習いが着ている隊服に着替えさせられ、あれよあれよと準備が完了した。

 早速ヤクトに案内され早速外の修練場へと向かおう…と言うところで、時を同じく修練場へやって来た先人漂流者のヤストキと遭遇した。


「よう、1番乗りたぁ珍しいな。目当ては…コイツか?」


 ヤクトが後ろに立つ僕を親指で差す。ヤスは僕を一瞥し「おうよ。」と至って短く返す。……その光景が初見の為、礼儀的には平気なのだろうかと少し…引いた。

 そん心配などお構いナシに、ヤスは昨日とうって変わって気さくに笑みを向けて来た。


「よっ、狂犬! 頭ぁ平気か?」


 僕の顔を見るなりこれである。

 多少、誤解を招きかねない物言いだが、表情と声色を見るに、悪意の一切が無いのだろう。

 それよりも、僕は自身の容姿や言動を普通、いや、大人しい方だと自覚している。誰が言い始めたかそのあだ名は、なんだかむずむぞしてしまう。


「うん、ひと晩寝たらすっかり。午後からヤクトさんと行動するけど、それまで体を動かそうと思ってたとこ。…あと、恥ずかしいからその呼び方やめない?」

「あ? 狂犬は狂犬だろ。俺は忘れてねえぞ。てめェがそう呼ばれるようになったキッカケをなぁ」


 挑発する様に僕を睨み、両手で指の関節を鳴らす。


 僕は…思い出せなかった。昨日ヤスと流れで手合わせした時、そのあだ名で呼ばれていた事や彼と友人であった事は思い出してはいた。が、それ以外の記憶は変わらず黒く塗り潰されたまま、ふとすれば焦燥にが蠢き出しそうな不安が過ぎる。

 思わず黙りこくってしまった僕に、ヤスは頭をかきながらやや申し無さげに続けた。


「…悪ぃ。そだ、なんかすんだろ? 俺も付き合うわ。良いだろおっさん」


 漂流者は皆、ヤクトの預かりだ。ヤスはヤスで予定があったのかもしれない。……えっと、ヤスのおっさん呼びにまたどうもモヤぁ、としてしまう。


「お前ら元々知り合いみたいだったな。いいぞ。先輩としていろいろ教えてやってくれ」


 ヤクトはそのおっさん呼びにを特に咎める様子はなく許可を出した。


「っし、じゃ行こうぜ。昨日のお返しだ。歯ぁ何本か覚悟しろや、ニシコウの狂犬よぉ…!」


 許可が降りた事が嬉しかったのか、上機嫌で脅してきた。全く物騒である。しかし、やはりと言うべきか、自身の心象には1つの違和感も無く、やれやれとまるで聞いていた。


「病み上がりだからお手柔らかにね……」

「あ? 負けた時の言い訳ってやつか?」


 返答はすぐに響いたらしい。誤解されるどころか敵を作りやすいが、ある意味素直で単純シンプルな性格は嫌いでは無い。だから、元の世界でも友好関係にあったのだろう。

 僕は微笑み返す。


「やだな、病み上がりだから手加減できないって事。衛兵見習いなんでしょ? そんなヤスに怪我させたら、ね。」


 そのシンプルさは嫌いじゃない。むしろ、


「テメェ…。上等だ、捻り潰してやるよ」


 むしろ、わかりやすくて好きなほうだ。

 僕を見下ろし首を鳴らしながら彼は続ける。


1対1タイマン張んなら此処って場所がある。付いて来い」

「もちろん」


 昨日、僕がこの世界で覚醒したばかりの脳の混乱を鎮めるきっかけになった記憶の断片。父の言葉から察するに、何かしらの体技を教わっているのだろう。きっと体が覚えているのだ。きっと、それは自身にとって大切な事なのだ。


 必要な事は、きっと思い出す。


 ヤスを先頭にそこへ行こうと足を…踏み出す前に、ヤスの肩は掴まれた。

 出鼻を挫いたのはヤクトだ。


「あ? んだよおっさん」

「そう急くな。」


 睨む彼をやはり気に留めずそこそこにあしらい、


「おーい、ギラ!居るかー?」


 営舎の奥へ向かって誰かを呼んだ。

 すると、1人の若者(とは言え僕らよりは上だろう)がもごもごとさせた口を隠しつつ、ヤクトが声を掛けた方と反対側から慌ただしくやって来た。


「なn…んぐ。なんの御用でしょう、兵長!」


 背筋をのばし、キリッと言う擬音が聞こえて来そうなほどに至って平然としているが、彼は何一つ誤魔化せていない。なんなら口もとにジャムらしき赤色が付いている。

 ふん、と鼻を鳴らし腕組みをしたヤクトのこめかみが、微かにピクリと動いたのを僕は見逃さなかった。


「…ギラ」

「はっ!」

「今日もエラい元気だな」

「はっ! ぐっすり眠れましたので!」

「そうか。」

「はっ!」

朝食あさげの時間は過ぎてるはずだが?」

「はっ!……あ。」

「今月で何回目だ? なぁ寝坊助」

「は、…はい」


 元気満載だったの彼の表情は見る見るうちにシュン…としていった。

 対象にヤクトは笑顔だ。こめかみはいよいよピクピクしている。


「例の漂流者こうはいの前だが、何か言う事はあるかな? ん?」

「……すみませんでしトァッ!」


 ベチッ、と音が鳴る。

 謝罪虚しく、ヤクトのデコピンによって彼の語尾が奇妙な鳴き声に変わった。そのままヤクトの説教タイムと思われたが、デコピンした手を引き、大きなため息を1つ吐くに止まった。

 痛みに悶絶する声を余所に、ヤクトは彼の事を教えてくれる。


「こいつはギラ。見ての通りこんなんだが、次期副兵長候補に名前が上がっとる。寝坊癖が治ればいいんだがなぁ…。」


 ギラ……という方は相変わらず悶絶している。『次期副兵長候補』という肩書きがどれほどのものかはわからないが…口をもごもごしたままの登場と相変わらず額を抑え蹲る様子や先ほどのシュンとした顔は、言い方は悪いが『わんこ』を連想させてきた。


「…いつもの事だぞ、このやり取り。」


 唖然と見ていた僕にヤスが耳打ちする。


「変な奴には変わりねぇけどよ、結構エラいし、それに強ェぞ」


 記憶のピースがまた1つ。

 ヤスを中心に複数人が取り巻いている絵が頭に浮かんだ。その人達は皆、彼の腕に惚れ込んだ人達だった。人に強さを認められていたヤスの言う『強い』は、僕にとって充分有益な情報だ。


 さて、そうであればヤクトは何故そんな人を呼んだのだろう?

 結論から言えば、僕らの未熟さ故に、だ。


「…って事でお前ら、今日のとこは2人行動は禁止。こいつ…ギラを目付けにつける。」

「あぁ? んでだよ!」


 ヤスがノータイムで食って掛かる。

 しかし、ヤクトは冷静にそれを諭した。


「やり過ぎられちゃぁ、困るからだ。昨日のアレでさえ周りから見りゃ普通の喧嘩にゃとても見えん。何より、俺にはお前ら…特にシューユだが……お前らただの素人じゃねぇだろう。

 ヤストキ、お前さん魔力操作の訓練はどれくらいだ?」

「…別に、なんでもいいだろ」

「駄目だ。中途半端に訓練積んだ奴が、なんらかの拍子に魔力を暴発させる事なんざ珍しくねェだろう?」


 ヤクトの言葉には重い何かが乗っていた。きっと、大人としての責任と言うやつだ。


「昨日 お前さんも身を以て体感しただろう?ホノカの平手に魔力が偶然乗っちまって、お前さんはふらふら、シューユは医務室行きだ。」


(魔力…)

 そう言えば頭を打たれたとき、視界の端に幾つもの星が見えていた。それは目眩の類いかと思っていたが、実際は違ったようだ。むしろその輝きは、寄り危険なものだったのかもしれない。

 ヤスも魔力の訓練を触ってはいるだろう。彼は喧嘩っ早く負けず嫌い。もし仮に、このまま2人だけで組手なんかをすれば、ヤクトの言う『魔力の暴発』が起き得る可能性があることを見越して、お目付役を呼んだのだ。


「おっさんよォ…!俺らをガキかなんかだ───」

「ヤス。」


 なおも食って掛かろうとしているヤスを呼び止め、かぶりを振った。


「今回は…僕のリハビリみたいなものだし、また今度にしよう」

「……わーたよ。お前を無理させる訳にゃいかねぇか」


 僕らのやり取りを黙って見ていたヤクトは1つ頷くと「じゃ、後は任せたぞ。」と額に赤みが残るギラにそう言い、足早に何処かへ行ってしまった。


 ……しかし、ヤスと僕はどの様な関係だったのだろうか。ヤクトの肩書きは伊達ではない筈だ。だが、彼の制止には食って掛かり、僕の言葉では素直に引いてくれた。

 ヤスとは友人である。しかし、現状 塗り潰された記憶では、その真を確かめる事は叶わない。単に大人に反抗し、友人だから尊重した、そう言ってしまえばそうなのだが……。


『また僕の1勝だね』


 自然と僕の口から出た言葉。



 覚えて無い。からっぽ虚ろ。


 いまの

 ぼくには、

 なにも

 ない?


 ……違う、そうではない筈だ。


 でも、元の世界で彼と何があったかなど、覚えていない。





「大丈夫か?」


 ヤスの声にはっとし、思考を中断させた。


「…ちょっと、考え事」

「あぁ…記憶か?」

「……」

「みんなそうらしいぜ。俺も、他の奴も。なんか知らねェけど、思い出せる事とそうじゃねェのがごちゃごちゃしてんだ」


 そっか……彼らも同じだ。同じだった。突然見知らぬ世界で突然目覚め、右も左も知らぬ顔、知らぬ草木、知らぬ空。ヤクトは彼らが此処へ来て10日と言っていた。まだ、10日。


「最初は俺だってパニクってた。ヒロコって奴なんかちょっと前まで、あれだ、情緒不安定だったしな。」


 言い終わるや、どッ…!と音の鳴る強さで僕の背中を叩くと、咽せる僕にヤスは笑い掛けた。


「ま、安心しろや。同じアレの穴っていうだろ?成るようにしか成んらねェよ。」

「『同じ穴のむじな』ね。でも……成るようにしか成らない、か。」

「あぁそれ受け売りな。これ言った奴イサミっつうんだけど、アイツ剣がスゲェな。キレってのか? 模擬戦やった時なんかよぉ、素手でならいけんだけど剣は違ぇわ。コツがあるとか知んねぇよってな」


 そう語る顔は変わらず笑顔だ。不安など無い。そして無邪気な…まるでこれからの事が楽しみで仕方ないかの様だ。とは言え僕は違うかと言われれば、全くそんな事はないとは言い切れない。


「なんか…楽しそうだね」

「性に合ってんだから当たり前だろ? 怠ぃ世の中なんかつまんねぇ。シューユもなんかテキトーな魔物でもブチのめしゃわかるぜ? あの頃の比じゃねェ喧嘩どころじゃねェあのビリビリ…! マジでキマんぞ?」

「うん…そうかなぁ?」


 少々、不謹慎気味な気もするが、爛々としたヤスの目は文字通り『キマって』いるようだ。…そうか、そう言えば彼の性分はこうだった。なんと言うか狂犬のあだ名はむしろ彼がふさわしいと思うが……。

 僕の返事は微妙な間と疑問符を含んでいたが、ヤスは気にせずに水をまたあおった。


「そろそろ行こうぜ。次ぁ素振りだとよ」


 ヤスが立ち上がる。彼の目線の先に人数分の木剣を携えたギラを見つけ、僕も立ち上がった。


「…直剣、三尺。苦手だな」


 僕は無意識にそう言った。




       *




「……大丈夫か?」


 腕をプルプルさせながらパンを齧る僕に、テーブルを挟んで向かい側に座るヤクトが言った。


「あ〜…筋肉痛、です」

「だろうなぁ…」


 今は昼食を頂いているのだが、午前中にギラ監督の元行った素振りがまぁ効いている。

 ギラが持ち出した木剣は皆が想像する様な『剣』であったが、何の素材で製られていたのか自身の重量とは程遠い重さだった。

 なんでも「対獣用大剣に勝るとも劣らない」のだとか。


 それの素振りを百回、をワンセットとして三回やらされた。

 、身体を動かしたかったのだが……少しの基準は人それぞれだ。確かに僕が意図をちゃんと伝わる様に言わなかった事に落ち度はあろう。

 しかしだ。これはヤスも言っていたが、


「効率悪くね?」


 はい、全く同意。

 だってこれじゃ筋トレじゃないですか!そもそもでないと、筋トレとて身体を傷めるだけになってしまう。それが得物ともなれば尚更だ。持ち方から構えと順繰りにやるべきでは……!?

 ……と言う思いいかりを胸に三百回の素振りを僕らはやりきった。


 やりきった、結果がこの痺れ震える両の腕だ。


「…今朝の八つ当たり、じゃないですよね冗談です……」


 プルプルとしながらパンを口に運ぶ。……さすが運動後の食事は、何も付けていない素朴なパンをも甘味に変える。


 ヤクトは、


「ちとやり過ぎたみたいだな。ったくアイツ…」とため息混じりに言い、おもむろに

「腕、出してみろ」

 と言った。


 齧っていたパンを皿に置き、食器を避け、両腕をヤクトの前に晒した。その腕をヤクトがむんずと掴む。

(…やばい、か?)

 大凡おおよそこの状態から予想されるは、マッサージと言う名の激痛だ。

 しかし、その心配は杞憂に終わる。


集い、与えよアセン・エルソワン


 聞いた事のない文言をヤクトが発すると、彼の手の平が淡い翡翠色に光り、それは僕の腕を包んだ。


「……あったかい。」

「詫びって訳じゃないが、簡易的な治療魔術だ。ちったぁマシになる」


 そう言うとヤクトは掴んでいた腕を離した。

 包んでいた光が消えじんわりとした温かさが残る。血行が良くなったのか血管が少し太くなり、筋肉痛特有の痺れるようないかんとも言えない痛みは和らでいた。


(……これが『魔術』か)

 初めて体感したその現象に、僕はただただ感心する他ない。


「魔術を見るのは初めてだったな。これは簡単なもんだが、高位の魔術を扱える奴は魔術士って呼ばれ、国によっちゃちとばかり特別扱いされとる。…こんな田舎じゃそこまで崇高なモンは居らんがな」


 ヤクトは淡々と説明した。その事が、僕のいる此処は僕の知らない世界である事を再び認識させる。


「マシになったんなら早く食っちまえ。村長んとこまでは馬を借りてある」


 痺れの引いた腕を見つめる僕にヤクトはそう言うや席を立ち、からになった皿と器を持った。


「先準備しとくぞ。食い終わったら正面入り口な。食器、下げるの忘れるなよ。」

「はい。」


 ヤクトは僕の返事を聞くと直ぐに立ち去った。


 ようやくく正規の予定に移るのだ。

 つまりは此処で、この世界で生きる事への一歩を踏み出す事になる。……いや、目が覚めた時から、この世界との関わりは始まっているか。

『成る様にしか成らない。』ヤスが言っていた事を心の中で反芻はんすうし、素朴な味のパンを塩味の効いた薄い肉と苦味のある葉物と共に食べ合わせ、完食した。





 昼過ぎの空は、午前中に比べると少し雲の量は増え、流れる雲により日差しが不規則に入れ替わる。


 正面入り口…昨日4人が出てきた扉の前にいると、体感数分も経たず逞しい体躯の馬に乗ったヤクトがやって来た。競走馬と云うより農耕馬の様なそれは、ヒト2人が乗ったところで何ら問題なく地を歩むだろう。

 そして、肩に皮製のベルトを通し担いでいるモノ…。

 紛れもない。

 鞘に収まった『剣』だ。


「おう、思ったより早かったな。で、坊主、乗馬の経験は?」

「乗るだけでしたら」

「じゃ、問題無いな。コイツの扱いは心配するな。乗り方がわかればいい」


 そう言うとヤクトは手を伸ばした。その手を掴み、左足をあぶみに掛けて、右足で軽く地面をはじく。


「お前っ、軽いなぁ……」


 僕を引き上げながらヤクトが呟いた。……自身の体幹あっての事だと、言いたかったが、営舎ですれ違った人たちを見ていると、やっぱり何も言えないか…。

 ともあれ無事に馬の背に乗り、僕の位置としてはヤクトと手綱の間に収まった。

(宜しくお願いします)心の中でそう言い、立派なたてがみの生えた首を撫でた。


『ブルル…』

 馬の機嫌の良さそうな声を聞き、いよいよヤクトが合図を出した。


「ヤァッ!」


 短く逞しい号令に、馬はその豪脚を以て軽快に歩みだした。


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