79 あんな幻覚を見せたというのに、なんで二人はさらに親密になるんだ。ミルはボクのモノにならないといけない。あんなゴミクズには相応しくない。

「ッ!?」


 耳元で聞こえてきた大きな声。

 その衝撃に、アルフは我に返る。

 まるで突然冷水を浴びせられたかのような衝撃に、目を丸くしてしまう。


 側には、リリーとダニエル。

 あの声は、リリーの声だった。


「え……? え、あ、えっ……な、なん、で……み、ミル、ミル、は……」


 だが、記憶は残っていた。

 幻覚、幻の世界、そこでアルフは、おぞましい光景を数多く見て、おぞましい行為をたくさんした。

 何より、洗脳されていたとはいえ、大好きなミルを自ら洗脳して、アインに差し出すという異常行為をしてしまった。


「ミル、ミルは、どこに!?」

「ちょっ、アルフさんどうしたんですか!? ミルちゃんなら無事です! そこ、そこで寝かせてます」

「……え? あ」


 ダニエルの指差す方向を見ると、そこには大量の汗をかきつつも眠るミルの姿があった。

 床にタオルを敷いて、その上でうなされている様子だ。


「よ、よかった……けど、なにが……なにが、起きたんだ……?」

「いや、こっちこそ。アルフさん、何を見たんですか? 明らかにおかしいです」

「う、うん。ミルちゃんも、アルフさんが正気に戻る数分前に悲鳴を上げて倒れちゃって……もしかして、あの赤い光が……」

「赤い光……あっ」


 ようやく、アルフは状況を理解してきた。

 発狂とまではいかないが、狂気に飲まれかけていた思考が、少しずつまとまってくる。


「そうか、赤い光……二人は、何か幻覚が見えたりは……」


 記憶が途切れる寸前に見えた、あの赤い光。

 それが何らかの影響を及ぼしたのではないかと、アルフは考えた。


「いや、幻覚は見えてないです。けど代わりに幻聴が……リリーは、アインの声だって言ってました」

「アイン……!」

「元々私の体内にはアインコアが埋め込まれてて、壊れるまでは、声も聞こえてきてたので、断言できます」


 どうやら、ダニエルとリリーは、幻聴を聞くだけに留まったようだ。

 自分ほど光を浴びることが無かったため、幻覚を見ることがなかったのだろうと、アルフは考えた。


 ダニエルもリリーも、アルフの“状態異常無効化”の影響を受けている。

 おそらく“状態異常無効化”の効果が無ければ、二人はアインに洗脳され、操り人形のようにされてしまっていたことだろう。

 そこは幸いと言うべきか。


「それで、何が聞こえてきたんだ?」

「……『リリーを燃やして殺せ』と。そう頭の中に聞こえてきた」

「私は、『ダニエル……パパを殺せ』って……」

「……胸糞悪い」


 大きく溜息を吐いて、アルフはボソリと言う。


「……俺は光に大きく当たったせいだろうけど、幻覚が見えた」

「まさか、アルフさんは……」

「ああ……アインに色々と命令をされたけど、最後には『ミルにアインコアを埋め込め』って。そして、ミル、は……ウッ…………」


 幻覚の中での出来事を、アルフは思い出す。

 思い出せば思い出すほど不快で、おぞましく、身体が拒否反応を出してくる。

 そしてついに限界に達したアルフは、口を押さえ、台所へ向かうと、シンク内に吐瀉物を撒き散らした。


「ウッ、ウォぇぇエエエエ……ッ! けほっ……ごほっ……」


 その様子を見ていたダニエルとリリーは、普段と比べたら明らかに異常なアルフを見て、驚いて目を丸くしていた。


「そんなに、なのか……」

「ということはミルちゃんも、もしかしたら酷い幻覚を……アルフさんと一緒に光を浴びてたし、悲鳴も、上げてたし……」


 同時に、光を浴びて、悲鳴を上げて気絶したミルのことも心配になってくる。

 彼女はアインとは違って、肉体的には強くない。

 精神面についても、態度的にはそこそこ強そうに見えるが、アルフに依存している節があるので、意外と強くはなく、不安ではある。


「ハァ、ハァ……とにかく、酷い光景だった。覚えてる限りだと、幻覚の世界では、殺し合いが起きてた。こっちでは、どんな風に……?」

「殺し合い!? いや、でも……かなり……不気味なくらい静かですよ? まだ日が沈んですぐくらいで、真夜中ってわけでもないのに」


 日が沈んではいるが、まだ真夜中と呼ぶには早すぎる時間帯。

 普段なら、人もそれなりに起きているし、外を歩いている人もいるので、騒がしいとまでは行かないが、静かというわけではない時間だ。

 なのに今は、ダニエルが言う通り、不気味なほどに静かだった。


「……確かに。外に死体の山ができてる、とか?」

「あ、それじゃあちょっと見てきます」


 そんな中、外の様子を確認しようと、リリーは廊下に向かい、玄関を開ける。

 そこから約十秒後、彼女は何事もなく戻ってきた。


「……特に何もなかったよ。あとは……やっぱり、私に見える範囲には、人がまったくいなかったです」

「怪しい」

「怪しいな……」


 その話を聞いて、アルフとダニエルは即座に警戒する。

 明らかに、誰か……おそらくアインが、何かを起こそうとしている。

 今はその機会を伺っているだけのような感じが、アルフ達にはしていた。


「ん、ぅ……」


 そんな話をして外への警戒度を上げたのとほぼ同時に、ミルがゆっくりと身体を起こした。


「ミル!」


 それにアルフが一番に反応して、駆け寄る。

 真正面から、ミルの様子を確認するアルフ。

 その身体に触れて、すぐに分かった。

 ミルは明らかに、異常なほどに震えている。


「えっ、えっ……ご、ごしゅじん、さま……?」

「ああ。俺はここにいるぞ」


 そうしてアルフのことを認識すると、ミルは鼻を鳴らし、ポタポタと、大粒の涙を落とし始める。


「ご、ごしゅじんさま……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」

「えっちょっ、ミル!?」

「殺してごめんなさい罵倒してごめんなさい死ねって言ってごめんなさいゴミって言ってごめんなさい嫌いっていってごめんなさい――」


 そして、息をつく間もなくひたすらに謝りだす。

 その顔には絶望と、後悔と、恐怖と……その他様々な、重い負の感情が混ざりあったものが表出していた。


 きっと自分と同じで、いやそれどころか、自分よりも恐ろしい幻覚を見たのだろう。

 それにより混乱した結果、幻覚と現実の区別がつかなくなっているのだろう。

 少し前まで恐ろしい幻覚を見ていたアルフは、すぐに彼女に起きていることを、そのように理解した。


「ミル!」


 そして、ミルを強く抱きしめる。


「大丈夫、大丈夫だから……ミルのことを嫌いになるなんてない……だから、安心して」

「ご、ごしゅじんさま……わたし、わたし、は……ごしゅじんさまに、酷い、ことを……包丁で刺して、ころして、ぅ、ぅああ……!」


 なんとか慰めようとした、けど無意味だった。

 ミルはまた泣き出し、謝罪を無限に続けるようになる。

 もはやここまで来ると、混乱どころか、狂気に陥っていると言ってもいいかもしれない。


 アルフももはや、何をどうすればいいのか分からずにいたのだが、


「あの、アルフさん……」


 小さく、リリーが声をかけてくる。

 そして耳元に口を寄せると、彼女はこっそりと、アルフにだけ聞こえるように、とある提案をしてきた。


「え……」


 その提案を聞き、アルフは思わず固まってしまった。

 まさかそういう提案が、リリーから出てくるとは、予想すらしていなかったから。


「え? いや、リリー、どこで、そんなことを?」

「えっと、物語とかでは、そういうことをすると、お姫様が目覚めたりするから……」

「あー……」


 これは比較的メジャーな話だ。

 魔王に呪われて眠ってしまったお姫様に、ミルの言った行為をすることで、目覚めさせる。

 もちろん、この話はアルフも知ってはいる。


 フィクションの話だし、呪いではなく狂気っぽいから効かないだろうと、アルフは感じていたが、それでもこの状況だ、手段は選んでられない。

 知り合いに見られながらというのも恥ずかしいものだが、やらなければならない。


「ミル」


 声をかける。

 それからミルの顎をクイッと、軽く上へ持ち上げ、


「っ……!?」


 唇を、重ね合わせる。

 あまりに突然の、意識の外側からの出来事に、ミルは目を白黒させる。


「ミル、好きだ、大好きだ。これからずっと一緒にいよう」

「えっ、あ、え……な、んで?」


 狂気が驚きにより一時的に吹き飛んだのか、困惑、混乱している様子のミル。


「私は、ご主人様を、殺した、のに……なのに……」

「それは悪い夢だよ。ほら、どこを刺したのかは分からないけど……」


 アルフはミルから少し離れ、彼女の右腕をそっと掴むと、自分の腹部や胸部、首に当てる。

 当然、幻覚世界での話だから、この現実では何も傷は無い。


「な、ない……傷が、ない……?」

「うん。ミルは、悪い夢を見てたんだ」

「でも、私はご主人様に、たくさん酷いことを言って……嫌われて……」


 しかし驚きは薄れ、狂気が少しずつ戻ってきているような、そんな気がした。

 少しずつ発言が、思考が、ネガティブなものへ寄ってきている。


「それも悪い夢だよ。それに、ミルに何をされたとしても、何を言われたとしても……ミルのことを嫌いになんてならない。絶対に」

「……ご主人様」


 疑心暗鬼は、止まらない。

 ミルの身体の震えは、再び大きくなっていく。

 涙も、大きくなって、目に溜まっていく。


「……嫌い」


 ポツリと、言った。


「嫌い、大嫌い、死んでほしい、消えて」


 さらに続けて、アルフに向けてミルは言う。

 その声は震え、涙がポロポロと落ちてくる。


「ゴミ! しねっ! きもちわるいっ! どっか、いって! だいっきらい!」


 大きな声で、大好きなアルフに向けて、涙を流し、顔をぐしゃぐしゃにしながら罵倒を続けるミル。

 アルフの胸を何度も何度もポコポコとたたき、苦しそうに、涙を落とす。


 一瞬驚いたアルフではあったが、すぐに、彼は真剣な目でミルを見つめ、


「あっ――」


 もう一度抱き寄せ、キスをした。


「大丈夫、ミル」


 そして、前回より強く、抱きしめる。


「ミルに何されても、嫌いになんてならないから」

「ぁ……」


 ゆっくりと、頭を撫でられ、ミルの涙は、さらに大きくなる。


「大好きだよ、ミル」


 酷いことをした。

 それなのにご主人様は、アルフは、受け止めて、愛してくれるの言ってくれた。


「ぅあ、ああぁ……」


 そしてついに、ミルの心は決壊し、泣き叫ぶ。


「ああああぁぁああぁあ――!」


 今までの感情を爆発させるかのように、苦しみから解放されるように。




◆◇◆◇




 それから約十分、ミルは泣き続けていたが、ようやくある程度の落ち着きを取り戻した。


「……あの、ご主人様」


 抱きしめられているミル。

 彼女は少しだけアルフから身体を離し、アルフの顔を、瞳を見つめる。


「大嫌いなんて、言って、ごめんなさい……」


 アルフは何も言わず、静かに頷く。

 そこから「でも」とミルは続け、


「大好きです、ご主人様……」


 今度はミルの方から、唇を重ねた。

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