62 生きたい、助けて
「ぇ……ご、ご主人、さま……」
ミルの目の前で、アルフだったものが倒れる。
大切な人が、目の前で腹を貫かれ、頭蓋を砕かれ脳を潰された。
だが彼女は、ひどく悲しむとか、泣き叫ぶとか、そういうことができなかった。
なぜならそれはあまりにも唐突で、かつ想像すらしていなかったことだから。
アルフがこんなにもあっさりとやられるとは、全くもって思っていなかった。
今回も、自分のことを守り切って、敵を倒してくれると、そう信じて疑わなかったから。
「ご主人様……」
呆然としていたミルは、ふと声を漏らす。
しかし、アルフは反応しない。
反応、するわけがない。
もう、アルフは死んでしまった。
そのことをようやく理解したミル。
彼女の瞳から、ポタポタと大粒の涙が、こぼれ落ちてくる。
涙が頬を伝い、足元に広がった血溜まりに落ちて、赤色へと変わっていく。
「な、んでぇ……ごしゅじん、さま……そ、そんなの……」
そして、遅れて嗚咽を漏らす。
大恩人というどころではない、それこそミルにとっては、かけがえのない人だ。
長く苦しく、虚しい人生を変えてくれた、幸せというもの教えてくれた、はじめての人。
この世界で唯一、何があろうと自分を守ってくれて、大切にしてくれた、そんなアルフに、ミルは救われたのだ。
身も心も、全て。
「ぅ、ぁ……あぁっ……」
そんな大切な人が、いや、大好きな人が、死んだ。
崩れ落ち、膝をつき、涙を流し、嗚咽を漏らす。
目の前にいる化物のことなんて忘れて、アルフの死体の前で涙を大声を上げ、彼女は泣いた。
「フフフ……これでようやく邪魔者は消えた。他の奴が束になろうが、僕に敵うのはいない」
そう、目の前の化物を忘れて。
化物、いやネモは、触腕の一つをゆっくりと、ミルへと伸ばす。
「ようやくだ、ようやく手に入る……! ミル、お前は僕のモノだ……! 今度は僕が、お前のことを永遠に守ってやろう……!」
そして、赤子を持ち上げるかのように慎重に、化物はミルを掴んだ。
ここでやっと、ミルは化物のことを思い出して、ハッとした。
アルフに言われたこと、望まれていること、それを思い出した。
「やっ……だ、だめっ! はなしっ、て……!」
化物の触腕の中で暴れ、ミルはなんとかして逃げ出そうとする。
が、今まで戦闘どころか、肉体労働すら行ったことのない、魔法も一切使えないミルが逃げ出すことなど、できるはずがなかった。
「クククッ……お前では僕から逃げられるはずがない! それに逃げたところで、もはやアルフレッドは死んだ!」
「やっ、やだっ……! はなし、てっ……! ごしゅじん、さまが……!」
ミルは、アルフの方へと手を伸ばそうとする。
もう死んでいるというのに、まだ希望に縋り付くかのように、そちらへ手をゆっくりと、伸ばす。
「さっきからご主人様ご主人様と……」
そう、アルフはもう死んだ。
ミルはもはや、何者の庇護も受けることができない、縋り付くこともできない。
だから、今度は自分が守ってやろうと言っているのに、それでもミルの心は、アルフから離れようとしない。
ネモは、苛立ちを覚えた。
あそこまで念入りに殺したというのに、まだミルはアルフレッドに執着している。
もう守ってくれやしないのに、それでもアルフレッドの元へ行こうとする。
そんな嫉妬心から来る苛立ちは、あっという間に怒りへと変わった。
「お前の言うご主人様はッ! もう僕なんだよッ!!」
「ぃああああッ!!」
ボキボキボキッ!
化物の触腕の中で、ミルの骨が砕ける音がする。
怒りのままに、ネモはミルの骨を砕いていく。
もちろん、死なせないように手加減はして、四肢を折る程度に留めている。
そんな昔を思い出すような苦痛を受けても、ミルは手を伸ばそうとするのをやめない。
未だに、ミルはアルフに執着している。
「……もう、いい」
それを見た化物は、一言そう言うと、ミルを放り投げた。
勢い良く投げ飛ばすというわけではなく、本当に軽く、目の前に投げたのだ。
そして、複数の腕をミルの方へ向ける。
「お前は必ず殺す! 塵一つ残さず消してやる!」
嫉妬に狂ったネモは、未だにアルフに依存するミルに怒りを通り越して、殺意を抱いた。
そして、ネモの口が、触腕が、赤く赤熱化し、攻撃準備が始まった。
だが、消えかけの意識の中、ミルはずっと、アルフの方へと、折れた腕を伸ばそうとしていた。
◆◇◆◇
私の人生は、虚しいものでした。
私の人生は、苦しいものでした。
私の人生には、何もありませんでした。
物心付いた頃にはもう奴隷で、私は誰かに従う以外のことを知りませんでした。
毎日のように暴力をふるってくるご主人様もいました。
食事をほとんど食べさせてくれないご主人様もいました。
好きなことは、ありませんでした。
なぜなら、何もさせてもらえないから。
ひどい環境で家事をさせられて、働かされて、それ以外はさせてもらえませんでした。
窓から見える景色を見ていただけで、全身にアザができるまで殴られたこともありました。
私は、何も知りませんでした。
買われては売られ、また買われ。
その繰り返しの末に、私は誰からも買われなくなりました。
その時の私は、肌が紫に変色していて、病気していたように見えて、醜かったからだと思います。
やがて私は、殺されることになりました。
そこで私は、ある人と出会いました。
その人も私と同じ奴隷でした。
でも私が今まで見てきた奴隷とは、まったく違いました。
とても目が綺麗で、身体もしっかりしていて、やつれていたりとか、汚れていたりとかしない、まるで貴族のような、そんな人に見えました。
そして私は、その人に助け出されました。
その人はアルフと名乗り、私はその人をご主人様として、仕えることになりました。
ですが、ご主人様はとても優しかったです。
今までのご主人様とは違って、暴力を振るったりはしないし、食事を抜いたりもしない。
それどころか、私なんかのことを気遣ってくれたりもしました。
私は、少しだけ不思議に思いました。
なんで、こんなことをするんだろうと。
あと、その時はまだ、今のご主人様のことを信じていませんでした。
その内、本性をむき出しにすると思って。
でも、そんなことはありませんでした。
それどころか、ご主人様は本当に私のことを大切にしてくれました。
たとえどんな時でも、ご主人様は私のことを助けてくれました。
どんなに危険なことがあっても、ご主人様は私のために戦ってくれました。
ご主人様は、私に色々なことをしてくれました。
色々なものを、見せてくれました。
色々なものを、食べさせてもらいました。
そして気付いた時には、ご主人様がいないと、不安で不安でしかたなくなってしまうようになっていました。
でもご主人様といると安心して、心が満たされて、今まで感じたことのない……多分、シアワセという気持ちになります。
友達に聞いたら、それは『好き』という気持ちだと教えてくれました。
ご主人様が、私に生きる意味を教えてくれた。
ご主人様が、私に幸せを教えてくれた。
もう、死にたいだなんて思わない。
この世界で、生きたい。
生きたい、もう、死にたくない……!
ご主人様と一緒にいたい……!
だから、どうかご主人様……。
私のことを、また、助けて……!
◆◇◆◇
「くっ、アアアアアアアアッッ!!」
地面へと落ちていくミル。
彼女が叫ぶと同時に、光を発する。
だがその光は強くとも、太陽のような
「なっ……!?」
その中心にいるミルは、光を発すると同時に、その場に停滞する。
そして、光の中でミルは、背から翼らしきものを生やし、大きく広げる。
異変に驚いた化物、ネモは、攻撃を止める。
「まさか、覚醒か!?」
覚醒、つまりは古代魔法の発現。
ミルがそうなったとして、何が起きるのか、起きているのか。
化物はそれを確認するため、周囲を見渡す。
しかし、見た目上は何も無い。
そしてミル本人に関しても、光を発しているだけで、何かをしてくる様子は無い。
自身の身体にも、特段異変は感じない。
そして発光が始まってから十秒で、まるで電球が切れるかのように、光が消える。
そして、背に生えていた翼がバラバラに消滅しながら、ミルは再び地面へと落ちていく。
「……些事か。ならば今度こそ!」
古代魔法は不発に終わった。
ネモはそう判断し、再び口を赤熱化させ、ミルを消し飛ばす準備を始めた。
そうして数秒で喉元が赤く染まり、攻撃の準備が整ったその時、
「グルォぉオオオッ!?」
その喉元が、爆発する。
籠もったような爆音が響き、同時に頭部が弾け、爆散する。
何が起きたのか、一体どこから攻撃を受けたのか。
そもそもまともにダメージを与えられる人などもういないはずではないか。
ネモはパニックになりかけながらも、頭を再生させ、何が起きたのかを確認する。
「……ッ!?」
そこにいたのは、アルフだった。
心臓を貫き、頭を潰し、確実に殺したはずの彼が、ミルのことを抱え、ゆっくりと地面に着地するその姿を、ネモは確かにその目で目の当たりにした。
当然のように、その身体は完全に治っており、腹に空いた穴は塞がり、潰れた頭は元通り。
そしてミルの折れた四肢に青い炎が集まり、元通りになっていくのも見えた。
そして何より、彼の装備が徐々に変化していた。
形状自体は変わっていないが、特に異なるのは、その色だ。
赤と黄色を基調とした、黄金にも近いような煌びやかな輝きは、白銀と青を基調としたものへと変わっていく。
赤から橙へ、橙から黄色へ、黄色から白へ、白から青へ……それはまるで炎がさらに熱を帯び、色を変えるかのように。
「どういうことだ……! 何故、お前は生きている!!」
封印されても抜け出し、殺しても蘇り、立ち塞がるアルフに、ネモは叫ぶ。
アルフはそちらを見ると、ミルを降ろして、彼女の頭をポンと撫でながら答える。
「ミルの古代魔法が、俺の古代魔法をさらに強化したんだよ。それこそ、頭と心臓を潰されても甦れるほどにな」
アルフという個体は、確かに死んだ。
しかし彼を構成する細胞全てが死滅したかといえばそうではなく、まだ死んでいないものもあった。
ミルにより強化された古代魔法は、まだ生きている細胞から、アルフを蘇らせたのだ。
それは本当に、通常ではありえない、究極の奇跡だった。
ミルの生きたいという想い、それを叶えるために、彼女は古代魔法を発現させた。
しかも、それで外敵を倒すほどの能力を得るわけでもなく、無敵になれるような能力を得るのでもなく、あろうことか、アルフだけをピンポイントで強化するだけの、そんな古代魔法を得たのだ。
「……とは言っても、完璧な状態ではない。今の俺は確実に強くなっているけど、この力が保つのは大体六分か七分か、それくらいだ」
どうやら古代魔法は、ミルの身体には負荷が大きかったらしく、自らの肉体を守るため、途中で古代魔法が強制解除されてしまったのだ。
故にアルフの強化は不完全な状態になっている。
能力的にも完全な強化を受けたとは言えないし、この中途半端な強化についても、六分か七分しか保たないだろう。
「ご主人様……」
自分が完璧に古代魔法を発動できていなかったことを、ミルは謝ろうとする。
が、それを見越してアルフは彼女の頭をポンとたたく。
「大丈夫だ」
落着とした様子で、アルフは化物を、ネモの方を向き直って言う。
「ありがとう、ミル。ミルのおかげで、こいつを倒せる力が手に入った」
「……!」
「だからあとは、俺がなんとかするよ」
そこに、緊張などは一切無い。
自分が勝つことを最初から知っているかのような、そんな余裕すら感じられるほどだ。
身体からは余分な力が抜け、完璧と言える状態で、再び化物と対峙する。
そしてその後ろでは、ミルが青い炎に包まれる。
おそらくは、アルフが作り出したと思われる防壁のようなものだろう。
「さて……」
アルフは一瞬、地中のとある四点に意識を向ける。
ミルの古代魔法により強化されたアルフは、この世の全てを知った。
未来に何が起きるのか、過去に何があったのか、そして今、この世界で何が起きているのか、その全てを。
そしてアルフは同時に、化物のコアが、地下に埋まった四本の触腕の先端に一つずつあることを察知していた。
しかし、とある理由からすぐには破壊はしない。
「来るといい、ネモ」
アルフはそう言って、軽く挑発を行う。
そんなナメた態度に、化物は、ネモは歯ぎしりをし、怒りを露にする。
「ッ……ならば、一撃で殺してやるッ! アルフレッド!」
そうして、再び化物は喉を赤熱化され、触腕全てをアルフの方へ向け、最大威力の破壊光線を、彼に向けて放った。
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