目黒行人坂の大火 〜火消し八郎兵衛の場合〜

藍墨兄

全一話

 明和九年(一七七二年)二月。

 目黒行人坂めぐろぎょうじんざかからほど近い長屋に住む火消し、八郎兵衛とその弟分松吉は、火の元見廻りを終え、屋台で飲みご機嫌な様子であった。

 いずれも小袖の着流しで、八郎兵衛は帯に手拭いをはさんでいる。


「おぅい松の字、もう一軒行くかよおい?」

「いやいや、もう帰りやしょうよ。鬼の女房どのが待ってるんでしょう?」

「馬鹿野郎、だから言ってんじゃねえか。もうちょいとこう、深めに飲んでよう、あいつが何言ってもわかんねえってくらいに酔っちまえばよ、おっかねえことなんざぁ何もねえってなもんだ」

「しょうがねえなこの人ぁ……」


 そう言って松吉は深くため息をついた。

 普段は陽気な兄貴肌、いざ火が出たとなればいの一番に現場に駆けつけ、八面六臂の大活躍。

 火消しとしてまだまだ新人の松吉にとって、八郎兵衛は憧れてやまない大先輩であり、いつか肩を並べたいと思う目標である。

 だが、彼には大きな弱点があった。

 酒と女房である。

 好きなくせに決して強くはないお陰ですぐにへべれけになる。その度に松吉が連れて帰るのだが、そこには大恋愛の末に一緒になった恋女房、おりょうが仁王立ちで待ち構えている。

 二人まとめて正座させられ、夜中から明け方まで説教を食らったことは何度もあった。

 そのくせ最後は「あんた」「お前」などとべったりし始めるのだから始末に負えない。

 まだふたつの愛息子、八十吉やそきちが起きるまでそれが続くのだ。


 こればかりはいい加減にしてほしい、と独り者の松吉は思う。

 とはいえ八郎兵衛はすっかり次の店に行く気満々だ。

 仕方ない、少しだけ付き合って早々に送り返そうと諦めた、その時だった。


「……あれ?」

「どしたぁ? 銭でも落としたか?」

「いえ、あれ見てくださいほら、あの空」

「そら……?」


 松吉の言葉に、八郎兵衛は彼の指差す方を見た。

 その空には、雲とは明らかに違う煙が立ち上っている。


「! 松吉!」

「へい!」


 言うが早いか、八郎兵衛は煙に向かって一気に走り出した。


「松! わりぃが先行って寄り道すんぞ!! おめぇは現場急げ!」

「八っつぁん?」

「あっちにゃあ俺んちがあるんだ!」

「! わ、わかりましたっ!!」


 そう言って走る二人は、差し掛かった辻で別れ、それぞれ速度を上げる。


――無事でいろ。


 八郎兵衛の心中には、その想いばかりが駆け巡っていた。

 やがて八郎兵衛一家の住む長屋が見えてくる。辺りは既に黒い煙がもうもうと立ち込めていた。


「……くそったれっ」


 八郎兵衛は躊躇せず煙の只中へ突っ込んでいく。

 周りの家屋からはチロチロと炎が漏れ、窓の中はすでに赤黒く光っていた。

 辻を奥へと急ぐ。視界は狭くなり、焦げ臭さが濃くなってきた。

 彼が走る道の先には、妻であるおりょうがいつも使っている井戸端がある。そこは少し広くなっており、井戸に備わっているつるべ以外、燃えるものも特にない。

 八郎兵衛は、逃げ遅れた長屋の住人たち共々、井戸端に集まっているとふんでいた。


――大体がはしっこい・・・・・女じゃあねえ。それでなくても泣く坊を抱えて走れっこねえ。


 それに、八郎兵衛が普段口を酸っぱくして言っていた「火事の時は井戸端に逃げろ」という言いつけを忘れるわけがない、という確信めいたものもあった。


「――おりょう!」

「! あんた……!」


 井戸端に集まる長屋の住人達の中に女房の姿を見つけ、八郎兵衛は矢のような速さで駆け寄った。


「無事か……!」

「うん、でも……八十吉が」

「坊! そういやぁ坊はどこだ!」

「それが、手を引いてきたはずなんだけど、いつの間にかいなくなっちまったんだよ」

「……なんてこった」


 八郎兵衛はそう吐き捨て、激しく頭を振った。そんな様子を見たおりょうは、今にも泣き崩れそうな表情で彼を見つめる。

 その時、彼の後ろから声がした。


「八つぁん! 戻ったか!」

「ご隠居、無事で!」

「ああ、うちは大丈夫だ。八つぁん、やそ坊のことでおりょうさんを責めちゃいけねえ。いきなり外が明るくなったと思ったらこのけぶり・・・だ、誰だって動転すらぁ」

「ああ、分かってやす。おりょうすまねえ、俺ぁ怒ってるわけじゃあねえんだ」

「あんた……ごめん、ごめんねぇ」


 ついには泣きじゃくるおりょうの髪を軽く撫でた八郎兵衛は、ぎゅっと唇を引き結び、おもむろに帯を解き始める。

 見る間にふんどし一丁になった彼は、帯に挟んでいた手拭いを同じようにふんどしの腰に挟み込むと、周りの人間に向けて叫んだ。


「井戸の水を俺にぶっかけろ! 遠慮はいらねえ、早く!」

「お、おう! みんな、八つぁんに水を!」


 井戸端にいた長屋の住人達が一斉に八郎兵衛目掛けて井戸水を掛ける。

 頭からぼたぼたと滴る水を手の甲でぬぐい、八郎兵衛は長屋の自宅へと飛び込んだ。


「あんたっ!」

「すぐ連れてく!」


 中はもはや一寸の先も見えぬ程、煙に覆われている。


「坊! 無事か坊っ!!」


 火のついた木材を踏み、倒れてくる柱を腕で払う。そうしながらも彼は周囲に目を配り、少しの手がかりも見逃すまいとしていた。


 すると。


「……ちゃん」

「そこか! 坊!」


 玄関を入った小上がりの手前、飯炊き釜の中に八十吉はいた。普段火をくべる場所が、皮肉にも火除けになっていたのである。

 加えて、火事の際の煙は高いところに行く性質がある。この時はまだ足元までは煙が回っておらず、八十吉が小さく低い姿勢になっていたおかげで生き延びていたのだった。

 八郎兵衛は八十吉を引きずり出し、腰につけていた手ぬぐいを八十吉の口に当てて立ち上がる。


「ちゃぁん……」

「よーしよし、よく頑張った。もう父ちゃんがいるから心配すんな。お外に母ちゃんもいるからな、すぐに連れてくからな」

「……うん」


 返事をした八十吉は、力なく八郎兵衛の首にその細い腕を回した。だが、八郎兵衛は外に出ようと身体を振り向かせ、そこで立ちすくんでしまう。


「塞がってやがる……」


 玄関口の周りには燃え上がった柱や木材が倒れ込み、もはや出られる隙間もない状態になっていた。

 一瞬絶望にかられた八郎兵衛だったが、左腕に抱えた八十吉を意識した途端、沸々と怒りがわいてきた。


「……俺の坊が生きる邪魔しやがって。上等だ馬鹿野郎、意地でも坊は助けてやらあ!」


 叫んだ八郎兵衛は、前を塞ぐ燃えた柱に蹴りを打ち込む。二回、三回と続けると、柱はぐらり、と向こう側に倒れた。

 その時ぽっかりと空いた隙間を、彼は見逃さなかった。


「うらああああっ!!」


 八十吉を庇うように身体を丸め、弾丸のように突っ込む。八郎兵衛の肩、背中、腕や脚に炎の刃が突き刺さるが、彼はそれを気にも止めず、強引に外へと飛び出した。


「八つぁんが出てきたぞ!」

「やそ坊も一緒だ!」

「あんたぁっ!!」

「はぁ、はぁ、おう……坊頼まぁ」


 そう言って八郎兵衛はおりょうに八十吉を抱き渡す。

 八郎兵衛の身体は、あちこちから黒い煙が細く立ち上っており、肉の焼け焦げた臭いが漂っていた。

 その様子を見た住人達が、慌てて井戸の水を叩きつけるようにぶっかける。

 じゅう、と音がして、黒かった煙は白くなり、やがて消えた。


「すまねえ、さすがにきっついや」

「いやよく連れ戻してくれた、さすがは火消しの八郎兵衛だ」


 長屋の家の子はみんなの子。

 それを地で行くこの長屋のご隠居から声をかけられると、八郎兵衛は照れたような笑みを浮かべる。


「ったりめえだよご隠居。坊のためなら俺の薄汚え命なんざ大したことねえや。……と、話し込んでる場合じゃねえ、おりょう!」


 呼ばれたおりょうは八十吉を抱きしめてまま嗚咽が止まらない様子だったが、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を八郎兵衛に無言で向けた。


「おりょう、おめぇはいい女だ。俺と一緒になってくれたことにゃあ感謝しかねえ。その上、坊なんて可愛い子供も産んでくれた。ありがとうな」

「あん、た……」

「俺ぁこのまま、火ぃ止めてくらぁ。坊には水飲ませてやってくれ。その前に背中軽く叩いてやれば、身体ん中の煙も出てくんだろ」

「あんた、まさか……」


 おりょうがそこまで言った時、八郎兵衛は優しく笑って目を閉じた。少し俯き深い呼吸を一つすると、彼は長屋の住人達に向かって叫んだ。


「みんな! もう足りねえやつぁいねえか!? ガキも老いぼれも犬も猫も大丈夫だな!?」

「おう! でぇじょうぶだ、あとはみんなで風上に逃げらぁ!」

「上等だ、うちのおりょうと坊も頼むぜ!」

「……八つぁんは行くのかい」

「ご隠居……。ああ、行くさ。俺の仕事だ。あとは頼むぜ!!」

「火の手は大円寺から上がったらしい。この風だ、火の手の回りが随分早い」

「わかった、大円寺だな! ちくしょう、火付けだか不始末だか知らねえが、八百屋お七じゃあるめえし……!」


 かつて同じく大円寺から出た火災の原因になった女の名を挙げ、ひとしきり悪態をつくと、八郎兵衛はおりょうと八十吉の頭をぐりっと乱暴に撫でた。


「行ってくら。戻ったら二人目だ、いいな?」

「……うん、必ず、ね」

「おう」


 そう答えて駆け出す八郎兵衛を、おりょう始め住人達が見送る。


――戻って来られるだろうか。


 誰もがそう思いながら、誰もがそう言うことは出来なかった。



――――



 明和九年二月二十九日(旧暦、現四月一日)。

 後に「目黒行人坂の大火」と呼ばれる火災は、熊谷無宿真秀某という男が盗みのために寺の庫裡くり(厨房)に火をつけたことから端を発する。おりからの風に煽られた炎は町数にして九百三十四町を焼き、一万五千人弱の死者を出したと言われている。

 下手人の真秀は後に捕らえられ、火炙りの刑に処された。



――――



 それから二年。

 ようやく立て直すことが出来た長屋では、元気な子供の声が響いていた。


「かーちゃん、おそとであちょんでくる!」

「はいよ、お昼には戻っておいで」

「うん!」

「あ、やそ坊。とーちゃんにもいってきますしてね?」

「あ、わちゅれてた!」


 母親に言われ、小さな机の前に座る男の子。その身体には小さな火傷の跡がいくつかついている。


「とーちゃん、いてきまちゅ! いっちょにごはんたべよーね!」


 そう言ってぱん、ぱんと二回手を合わせ、男の子は外に飛び出していった。


 机の上には、端が焼け焦げた手拭いが一本、男の子に応えるかの様に、そよ風にふわりと揺られていた。

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