大空を征く
ヨシダケイ
前編
昭和21年1月15日。
一人の男が栄養失調で死んだ。
名を日野熊蔵という。
敗戦このかた焼け野原となった東京では、どこも食糧不足で仕方がなかったかもしれないが、かつて発明王と呼ばれた陸軍の英雄にしてはあまりにも寂しい死だったようだ。
今、日野の墓を前に
「彼を助けることができなかったか」
という考えがよぎったものの、そのような感傷に浸る権利が私には無いことに気づいた。
なぜなら日野がかつて陸軍を追われるように去り、今こうして困窮のうちに世を去ってしまったのは、他ならぬ私が原因だったのかもしれないのだから。
あれは今より35年前の明治43年4月のこと。
陸軍士官学校を第15期生として卒業し、
陸軍工兵科に配属されすでに7年が経過していた私は、ある日、上層部から呼び出された。
「徳川好敏大尉。貴官にフランス留学を命ずる。目的は飛行機操縦技術の習得だ」
1903年12月17日。
ライト兄弟による世界初の有人動力飛行は、世界を「空の時代」に突入させ、諸外国は飛行機技術を取り入れようと躍起になった。
当然、日本も例外ではなく、陸軍が、飛行機先進国フランスへ留学させようと選抜したのが、私、徳川好敏ともう一人の男、日野熊蔵であったのだ。
はじめて出会った日野は、屈強な身体を備えながら、その顔は愛嬌に満ちていて、ある種の爽やかさを感じさせる男であった。
「徳川大尉。よろしくばい」
満面の笑みで微笑んでくれた日野は、
当時既に数々の発明で、
広くその名を知られていた。
7歳年長の日野がしっかりと握手してきた熱い手の感触を今も覚えている。
数日後、私と日野は船で日本を出発。
一か月以上の航海を経てフランスへ到着し、
ファルマン飛行学校へ入校した。
入校後、日野は慣れぬ海外生活をものともせず、
精力的に飛行操縦技術を習得。
その勢いでドイツに向かい、
飛行機建造技術も学んだほどであった。
一方の私は大きな壁にぶち当たった。
それは訓練中、フランス人教官とともに飛行機で離陸したものの、私はその高さから吐き気と震えが止まらなくなってしまったのだ。
そう、私は高所恐怖症だったのだ。
「頑張らねば」
そのような思いとは裏腹に、高所恐怖症は思いのほか重く、手の震えで操縦桿を握れないほどであった。
だが、私には何が何でもこの留学を成功させなければならない使命があった。
それは私の苗字「徳川」にある。
実は私は、あの江戸幕府を開いた「徳川家康」の系譜、清水徳川家の末裔であったのだ。
明治維新後、廃藩置県により藩は消滅したが、我々大名の末裔は「華族」という特別な身分を認められ、その地位や名誉、金銭的な特権を保証された。
多くの華族は貴族さながらの生活を送ったものの、
私の少年時代は決して恵まれたものではなかった。
なぜなら物心がつきはじめのころに父、篤守の奢侈趣味が原因で家は没落。
15歳の時、華族の地位を返上しなければならなくなったのだ。
そして、没落した私たち家族に待っていたのは、
親族たちや華族による侮蔑の眼差しであった。
「徳川の面汚し」
「ご先祖様に悪いと思わないのか」
そのような中で私は、
「この屈辱を忘れまい。いつの日か必ず自分が家を再興させる」
と思うようになっていた。
だからこそ私は挫折するわけにはいかなかった。
私は高所恐怖症と闘いながらも何とかパイロットライセンスを獲得し家名復興のための一歩を踏み出したのだ。
その後、帰国した私と日野は陸軍上層部へ、
留学の成果「日本初の飛行」をお披露目することとなった。
時は明治43年12月14日。
場所は代々木練兵場。
私は思った。
「日本初の飛行を私が達成すれば、親族たちを見返すことができる!」
だがこの日、私の愛機アンリファルマン号は故障。
結局、日本初の飛行を成し遂げたのは、
グラーデ号で滑空した日野となったのだ。
高さ2メートル、距離100メートルのわずかな飛行だったとはいえ日本初であることに違いはなかった。
「おめでとうございます」
日野にかけた祝いの言葉とは違い、
おそらく私の顔は曇っていたに違いない。
続く12月19日。
この日は、私が飛行に成功。
14日とは違い、高さ70メートル、距離3キロメートルほどを飛ぶことができた。
だが初飛行を奪われた悔しさは拭えなかった。
そんな中、こだわりを捨てきれず苦い顔をする私に日野が語りかけてきた。
「徳川大尉。今度、完成する日本初の飛行場、所沢飛行場でのお披露目式こそが本番だ。所沢はこの代々木とは比較にならない観客が来るからな。気を引き締めんとな」
所沢飛行場!
そうか。
代々木では日野に先を越されたが、万客のいる所沢飛行場で私が一番飛行を成功させれば名を上げることができる!
私は気持ちを新たに訓練に取り掛かることとなった。
後編へ
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます