第四話 花屋敷

 「僕たちも、君と同じ花食者なんだ」


 ダリアからそう告げられたアオイは、信じられない心持ちで二人を見上げた。

 今まで母以外の花食者に会ったことは無かった。アオイはその存在すら半ば疑っていて、自分は同じ種の者に会わないまま一生を終えるだろうと思っていた。

 それなのに、目の前の二人の少年は自分と同じ花食者だと言う。

 初めて同族に出会った驚き、喜び、戸惑いがアオイの胸の中でないまぜになる。咄嗟に何を言ったらいいか分からなかった。

「君は、自分以外の花食者に会うのは初めて? 」

 何とも言い難い表情をしていたアオイに少しだけ眉を下げてダリアが訊く。

「はい……まさか、会えるだなんて思ってもいませんでした」

 答えた声に戸惑いを色濃く滲ませてしまったアオイに、ダリアはまた微笑みかける。今度のは人好きのする笑顔で、安心して、と言われているようだった。

「僕も兄さんも、この街に来てからは一人も花食者を見ていなかった。貴方が初めてだ」

 会えて嬉しい、とコリウスは続けた。ずっと敵意をむき出しにしていた彼からのそんな言葉に驚いたが、いたって本心らしかった。笑顔は無いものの、その表情は先程よりもいくらか和らいでいる。

 そんな、兄弟から向けられた歓迎の意図にアオイもやっと強張った表情筋を緩めることができた。

「本当に驚きました……だけど、出会えて良かったです」

 これも何かの縁だ。この人たちはきっと自分に良くしてくれるだろう。だって同族なのだから。


 そう確信に近いものを得たせいで、今まで意識がいっていなかった部屋の全体にも目を向ける余裕が出てきた。

 改めて見ると、すごく綺麗な部屋だ。絢爛さはそこまで無いけれど、金の猫足が付いた白いテーブルも、靴音を全て吸収する真っ白な絨毯も、棚に飾ってあるよく分からない装飾品も、審美眼の無いアオイにも高級なものだということが分かる。壁には部屋をぐるりと囲むように燭台が点在しているが、明かりは灯されていない。天井にある照明も消されている。部屋の奥の壁は一面が窓になっていたが、曇りの日、日の光も弱い夕方の部屋は薄暗かった。真っ白い部屋の中で、相変わらずそこにあり続ける赤い花々は異様な空気を放っている。


 だから、何気なく訊いた。


 「それにしても、こんなにたくさんの花、どうしたんですか? 花屋に行ってもこんな量なかなか手に入らないんじゃないですか」

 言いながらアオイは部屋の奥で咲き乱れている花を近くで見ようと、一歩前に出る。

「ああ、ごめんね、今片付けるから。あとで一緒に食べようか」

 ダリアがやんわりと言う。何となく、部屋の奥へ踏み入れてほしくないという空気を感じて、アオイは出した足を元に戻そうとした。

 その時、急にめまいが襲ってきて、視界が一瞬揺れた。その拍子にぐらりと上体が傾き、バランスを取るために出した足がもつれ、アオイは床の上に尻もちをついてしまう。

「大丈夫? 」

「すみませ……」

 疲労と空腹に加えて、先程の緊張から解放された気の緩みで体の力が抜けてしまっているのかもしれない。

 差し出されたダリアの手を掴もうとしたとき、ふとあるものが目に入った。

 体勢が低くなったことで部屋の奥の床と目線が同じくらいの高さになり、向こうがよく見える。兄弟の靴の向こう側、花に紛れて女性ものの洋服が落ちているような気がした。

「あれって……」

 そういえば、階段を上って二階に来た時、部屋から聞こえてきた声は三人分ではなかったか。うち二人はダリアとコリウスで間違いないが、あと一人はどこへ行ったのだろう?


 何かを感じて、アオイは動いた。

 二人の脚の間をすり抜け、低い体勢のままで床を蹴って奥へと進む。花で埋め尽くされた中に、先程見えた洋服を見つけた。白いフリルの付いたブラウスとピンク色のフレアスカートは、まるで魂が抜けたかのように崩れ落ちていて、袖には通されるはずの腕の代わりに周りにも広がっているあの赤い花たちが詰まっている。そしてその少し離れたところには、ワインか何かが注がれていたのだろうか、表面に赤い液体がわずかに残るグラスが無造作に転がっていた。


 異変を強く感じたアオイは、後ろのダリアとコリウスを振り返る。

 瞬間、こちらを見下ろす二人が纏う空気は、色を変えていた。

 コリウスがはっと息を飲み、兄の顔を見る。ダリアはその目を少し見張っただけだったが、全身から発される空気はピリリと音がしそうに鋭い。

 少しでも動いたら破れてしまいそうな緊張感が部屋の中を漂う。

「君は……」

 ダリアが何かを言いかけた時、それに被せてコリウスが叫んだ。



「だめだよ兄さん! 一日に二人もなんて! 」



 花に変える?


 コリウスの言っていることの意味が咄嗟に理解できず、アオイの脳内は混乱で満ちる。

 彼は、ダリアが人間を花に変えたと言っているのか?


 部屋に散らばった真っ赤な花。

 抜け殻のような服。

 姿の見えない三人目。

 そして、コリウスの言葉。

 点が線で繋がっていくように、思考は一つの事実を形作った。


 この花は、ここに来る途中で聞こえたあの高い声の女性だということ。


 床に尻をつけたまま、アオイは思わず後ずさった。この二人は危険かもしれないと、本能が告げている。

「……コリウス」

 弟の名を呼ぶダリアの声は低く、血が凍るほどに冷たくて、先程までの柔和な微笑みや態度からは想像もつかないものだった。

 睨まれたコリウスはびくりと肩を揺らすも、毅然と兄の目を見返す。

 一瞬の睨み合いの後、ダリアはため息をついた。心底不機嫌です、というようなため息。

「僕の可愛い弟は余計なことをするなぁ」

 言いながらダリアは、ナイフのように鋭利な空気を発してアオイが下がった分だけ、距離を詰めてくる。表情はまた今までのような笑顔に戻っていたが、目の奥からわずかに滲む感情を、アオイは感じ取った。

「あなた達は、一体何者なんですか」

「僕らは花食者だ。ただし、ただの花食者じゃない。僕は人間を花に変えることができるんだ。そうやって生きている、花食者」

 ダリアの微笑みが、今はぞっとするほど恐ろしいものに見える。薄暗い部屋の中で、彼の瞳は闇夜に浮かぶ紅い月のように怪しく、深い色をしていた。

「僕らと取引をしよう」

 アオイの後ろに回り込んだダリアが、耳元でそっとささやく。

「僕が人を花に変えられる能力を持っていることを誰にも言わないなら、君がこれから生きていくために必要なものを全部あげる。でも、僕らの行いが非人道だとでも言ってどうこうしようっていうのなら、僕は今すぐにでも君を花にすることが出来るよ。そして君はさっきまでここにいた彼女と同じ運命をたどることになるだろうね」

「なぜそんなことをするの」

「もちろん、生きるためだよ。全ての生き物は皆、食べるものが無ければ生きていけないでしょう。人間が生きていくために動物の肉を食べるのと同じだよ」


 アオイは必死になって考えた。

 ダリアとコリウスは自分と同じ花食者だが、彼らは言うなれば人を殺めて生きている。しかも、ダリアの口ぶりからするにそれを悪だとも思っていないみたいだ。自分の常識とのあまりの違いに、思考はぐるぐると回っている。花食者は希少な種。人に迷惑をかけないように、ひっそりと、慎ましやかに生きていく。周りの人には優しくする。そうすれば自分が困った時に助けてもらえる。

 頭に刻まれた母の声は、あの教えは、絶対に守るべき大切なこと。それなのに目の前の彼らはアオイとは正反対の生き方をしているように見える。

 あり得ない、分からない。そう思っているのに、恐ろしいと確かに感じるのに。


 アオイの中に、共感が生まれていた。


 食べるものがなければ誰だって生きていけない。空腹は辛いし、何日も食べない日が続いた時は考え事をするのさえ億劫だった。清く正しく、母の教えに背かずに生きることは何より大事だけど、そんな綺麗ごとを謳いながら生きていけるほど世界は甘くない。そう思ってしまった時は深く考えずとも思い出すことの出来る、刻み込まれた言葉だけをそっと抱きしめて、何とか日々を耐え忍んでいた。


 本当はずっと前から、母の声は聞こえなくなっていたのだろう。

 慎ましやかに、常に周囲に気を配って生きていても腹は膨れない。人に優しくあるよう心掛けても、自分が本当に困った時、助けてくれる人は誰もいなかった。

 それでも耳をふさいではいけないと、聞こえなくなりつつある声を聴くことをやめてはいけないと、必死で脳内再生を繰り返していた。今も頭に響く母の声は自分が作り出したまがい物で、昨晩のあの瞬間よりもずっと前から、僕は母がくれた言葉を何一つ大切に出来てなどいなかったのかもしれない、とアオイは唐突に気が付いた。


 暗く、不明瞭な視界の中で兄弟の瞳はやはり妖しく輝いている。花食者であり、今まで出会ったどんな人よりも自分と近しい存在のはずの彼ら。だけどアオイには、二人は自分と全く違う生き物のようにも思えたし、やはり同じだという感覚も拭えなかった。

「僕との取引は、君にとっても良い条件でしょう? 」

 何も言えずにいたアオイに、ダリアはさらに言葉を重ねる。

「自分が生きていくための行動だもの、何も悪いことじゃない」


 ダリアとコリウスは、一体どんな人なのだろう。

 大きな窓の側に立つダリア。ガラスの向こうでは、いつの間にか降り出していた雨が通りを煙らせていた。もうじき、日が完全に沈んで街には夜が訪れる。

 コリウスがどこから取り出したのか、ろうそくを手にして部屋中の燭台に火を点けてまわっている。伏せられたその目からは感情ひとつ読み取れず、彼の機械的な動作で、部屋はぼんやりとした明かりで満ちていく。ひとつ、またひとつと火が灯されるごとに、散らばる花々は彩度を落として空間に馴染む。それとは裏腹に甘い香りはアオイの鼻を慣らすことなく、より誘惑の色を強める。

 花の香りに誘われて、アオイの中に潜む欲望がそっと頭を持ち上げた。


 僕は生きたい。餓死なんてしたくない。お腹いっぱい食べることが出来て、生活を保証してくれるなら、それでいいじゃないか。

 そう思うと同時に、また母の声が頭をよぎる。

 ダリアに頼って生きるということはつまり、誰かを殺して自分が生きるということだ。人に優しくあれという母の教えに、それはあまりにも反している。ここで持ちかけられた取引にうんと言ってしまえば、今まで頑張ってきたことは全て無駄になるのではないか。


 だけど、それでも生きたい。

 ここで母の教えに従順になって、それで一生が終わるなんて、そんなのあんまりだ。まだ楽しいことも嬉しいことも、アオイは少ししか体験していないのだ。もっと見ることの出来る景色があるはずだと、少女は信じて疑わなかった。

「あなたと一緒なら、私は生きていける?本当に?」

「うん、約束しよう。君の生活は守られるよ」


 この世界では、己が生きたければ他者を犠牲にするよりほかに道は無いのだ。

 二人の異質な花食者は、再びアオイの前に揃う。ダリアが微笑みとともに手を差し出した。


 自分にひどく嫌悪感を抱きながら、それでも、これでいいとアオイは信じる。差し出された手を取って立ち上がり、真っすぐに二人の目を見て宣言する。


「僕は生きたい」


 眼差しに力を込めると、ダリアは美しく、けれど獰猛な獣のように瞳を細めた。

 コリウスが、握られたアオイとダリアの手の上に自分の手を重ねる。

 窓の外で雨は止み、大きく紅い月が雲の隙間から顔を出す。闇は世界に渦巻く数多の色を取り込んで美しく、空を彩り始めるのだ。


「花屋敷へようこそ。歓迎するよ」

 アオイは闇のような世界で、生きていく。

 花が溢れる屋敷の中、三人の少年少女の瞳は、窓の外に輝く月の様に赤い光を宿していた。

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