第二話 邂逅

 石段を数段上った先の大きな門にも、威圧感のある重厚な扉にも、鍵は掛かっていなかった。やはりここに人は住んでいないのだろうか。そう考えながら重い扉をそっと押し開けたところに広がった光景に、アオイは目を丸くした。


 屋敷の玄関から中へ入るとそこにはちょっとしたホールのように開けた空間があり、高い天井には大きくてきらびやかなシャンデリアがぶら下がっている。つるつるとしたクリーム色の床には藍色の細い線で模様が描かれていて、照明を反射して輝いている。屋敷の外の様子からは考えつかないくらい綺麗だ。

 ぴかぴかに磨かれた床、灯された明かり、壁に掛けられた絵画。そのどれもがここに人が住んでいるということを示していた。

 あんなにぼろ屋敷に見えたのに、とアオイは思う。同時に、人様のお家に勝手に入ってしまったという焦りが襲ってきて、鼓動が嫌な音を立てて速くなる。職場のくたびれた制服姿とリボンタイで適当にまとめたぼさぼさの髪という出で立ちが、余計に不法侵入者らしさを助長していた。


 しかし、アオイの存在に気付いた住人がやって来る気配はない。

 それほど大きな音は立てていないし、ただ気付かれていないだけかもしれないが、何となく妙だな、と思いながらまた辺りを見回した。シャンデリアが綺麗なので、つい上を向いてしまう。

 そこでやっと、正面に階段があることに気付いた。赤い絨毯が敷かれ、これまた彫刻のように美しい装飾の施された、白い手すりが付いている階段だ。こんなに存在感があるのに他のきらびやかな物たちに気を取られていて目に入っていなかった。

 一通り見たところ、ここには花も無いようだし、上に行ってみようか。屋敷の主に遭遇してしまう可能性は無いでもないが、もとより自分は寝床と食料を求めてここに来たのだ。誰かに気付かれてしまったら事情を話して、せめて寝床だけでも貸してもらおう。腰を低くして頼み込めばきっと何とかなるはずだ。いざとなったら土下座だってしてみせる。


 知らない場所、恐らくは他人のテリトリーの中で、アオイはまた一歩足を踏み出す。そして出来るだけ息をひそめて階段を上り始めた。照明が点いている時点でここに人はいるのだろうし、不法侵入がばれるのも時間の問題だとは思うが、とりあえずは気配を薄くすることに努める。

 足を一歩ずつそっと動かしながらも、アオイの目は相変わらずきょろきょろと忙しない。花の有無に見落としがないかと視線を左右に振ってみるけれど、階段にも飾られてはいなかった。


 この街の自然破壊はとんでもないものだが、店に行けば花は普通に売っている。無論高級品ではあるが、だからこそ、お金持ちの家には飾ってあることも多いと聞く。これだけ豪華で(外はずいぶんとぼろいが)、恐らくインテリアにもこだわっているのだろうこの屋敷に、花瓶が一つも無いというのは不思議に思えた。




 それほど長くはない階段を上りきると、藍色を基調とした細やかな柄が描かれている絨毯の廊下が顔を出す。左右に続く廊下の左側に、開かれた白い扉が見えた。

 一階とはうって変わって、ほとんど明かりの点いていない薄暗い階段の陰からそちらを覗くと、かすかに、声が聞こえてくる。

 「しかし、……おいでくだ……んしゃして……」

 「僕も……と会え…をたのし……」

 「一度ゆっくりお話を……れしいわ!」

 不明瞭に聞こえてくる声からするに、部屋には三人の人間がいるらしい。一つは低い声、もう一つは若い女性のものだろう甲高い声。そしてもう一つは低いのか高いのかよく分からない、不思議な声。部屋から漏れる会話は、内容さえ聞き取れはしないが楽しげだ。この屋敷の主人たちだろうか。


 アオイが、時折響く笑い声を聞きながらそちらの様子をうかがっていると、ふいに、声が止んだ。慌てて乗り出していた上半身を戻し、また階段の陰に身をひそめる。

 部屋にいる人物が出てくることを想像したが、誰も出ては来ない。


 しばらく経って、また声が聞こえてきた。

「……こを片……いて……ス」

「……っ…よ…さん」

 聞こえてきた声は先程よりもずいぶん小さくて、さらに不明瞭だった。聞き耳を立てようにもほとんど何を言っているのか分からない。

 小さな声はやがて話すのをやめてしまったようで、辺りにはしんとした静寂が響いた。屋敷をまるごと包み込むかのような静けさの中で、アオイの存在だけが異質なものとして浮かび上がっていく気がした。まるで遊びは終わりだといって吹き消されたろうそくの火みたいに止んださっきの談笑は嘘であり、この静けさこそが屋敷の本来の姿であると誰からともなく認識させられているようだ。アオイは、内蔵が浮き上がるような感覚を覚えた。


 じっとりと汗ばんだ掌を握りしめて、階段の陰から廊下へと出る。息を殺して、足音を立てずに、そろり、そろりと進む。柔らかな絨毯は、音を立てないで歩くのが特別得意というわけでもないアオイの靴音も消してくれた。

 そうして件の部屋のすぐ横まで来る。ここを通り過ぎる、あるいは中にいる人間とどうにか話をつける。そう覚悟を決めて、開かれている扉の前へ足を踏み出す。

 そうして目に入ったその部屋の中の光景に、アオイは息を止めた。


 広い客間。真っ白な部屋だったから、薄暗い室内でもそれがよく目立った。


 部屋中にばら撒かれた、大量の赤が。


 一瞬、人の血と見間違えてしまいそうなそれは、花だった。

 たくさんの花々が、大きなだ円形のテーブルの上で咲き乱れている。そこだけでは飽き足らず床や椅子の上にまで零れ落ちて、一面が赤い。鮮やかで、それでいてどこまでも深い真紅。この世の美しさをぎゅっと凝縮したようなルビーレッド。時折混じる可憐な薄紅。

 テーブルの上の赤色の塊の中から、綺麗な色をした一輪がキスを落とすような静けさで絨毯の上へ落ちていって、小さく瑞々しい音を立てた。数枚の花弁も後に続いて舞う。流れる風に乗ってふわり、と香りがアオイのところまで届いた。むせ返りそうなほど濃く、甘い香り。アオイはふらふらと、ほとんど無意識にその香りに引き寄せられるように二歩、三歩と部屋の中へ足を踏み入れる。


 ぐぅ、と腹が鳴った。もちろん意図したものではない。


「「そこにいるのは誰? 」」

 二人分の声がした。

 はっとしてそちらを見る。

 しまった、と思うより先に声の主と、ばっちり目が合ってしまった。

 いっぱいの花に気を取られすぎて見えていなかったが、中には二人の少年がいた。部屋の奥でこちらに背を向けていたのであろう少年たちは、アオイの大きすぎる腹の音を聞いてその存在に気付き、こちらへやって来る。そして目の前に並んだ。

「今日はもう人が訪ねてくる予定は無かったはずだけど、僕に何かご用かな? 」

 二人のうちの一人が言った。柔らかな笑みを浮かべている彼の隣では、もう片方がアオイを睨んでいる。

「えっと……」

 しっかり不法侵入がばれてしまったからには、助けを乞うしかない。覚悟を決め、事情を話すことにした。

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