花屋敷

彩月水

第一話 花食者の少女

 ある日の夕方、もう日も暮れようという時刻のことである。


 人通りの少ない街を、少女がひとり、歩いていた。

 春先だというのに街路には緑一つ無い。それは、この街が近年甚大な環境破壊に悩まされているせいであって、花はおろか、枯れた木すらも珍しく貴重な存在に成り上がる、廃れた景観が出来上がっていた。

 少女は先程からこの何も無い道を歩いているが、特別行く当てがあるわけでもない。とある事情から職を失ってしまい、ふらふらと街を彷徨っているのだ。社員寮に住んでいたので今は家も無く、おまけに無一文。行く当てもこれから先を生きる術も持ち合わせていない少女は、今にも泣きだしそうな空の下で、途方に暮れていた。


 これからどうしよう、と彼女—アオイは呆然となりながら考えた。

 家もない、家族もいない、頼れる知り合いも友人もいない。ただ一人、同僚であり友人でもあった、心を許している子がいたが、騒ぎを起こして職場から逃げ出したので、あれからどうしているかも分からない。自分を慕ってくれていた彼女のことが気がかりだった。愛想の悪いアオイと唯一仲良くしてくれた彼女とは、もう二度と会えないのかもしれない。どうか無事でいてほしいが、そんなことを願う資格がないのも分かっていた。人に迷惑をかけないよう、なるべく人の役に立つよう、そう心掛けて生きてきたのに。あの夜、理性はアオイの奥深くに沈み、ようやく目を覚ましたのは全てが手遅れになった後だった。アオイはどうすることも出来ずに、目を背けて逃げた。全ては生きるためだった。

 自らの手で安寧を壊してしまった今、新しく生きる場所を見つけなければいけない。ここで野垂れ死ぬわけにはいかない。例えひとりになったって、絶対に生き抜かなければならない。


 希少な種である、花食者かしょくしゃとして。


 アオイは、この世界にごくわずかに存在する花食者という種族の少女だった。花食者の生態は人間とほぼ同じだが、花のみを食べて生活しているという点だけが異なる。だから一目見ただけでは花食者と普通の人間との区別はつかない。世界中に点在している彼らは人間に紛れてひっそりと暮らしている。数の少なさや目立たないように暮らすという性質も相まって、アオイは今までに自分と母以外の花食者に出会ったことが無かった。

 少数派は迫害されるのが社会の常。亡くなったアオイの母はいつもそれを恐れていて、自分と娘が平穏な暮らしを送っていけるように細心の注意を払っていた。


 ―「私たち花食者は世界の中でも数少ない種だから、慎ましやかに生きていくのがいいわ。人はね、自分とは違う者を仲間外れにする生き物だから、私たちが花食者ということはなるべく隠した方がいい。私たちが人間に害を与えることは無いけれど、違う文化を持つ者を人は簡単には受け入れてくれない。だから隠すの。そうすれば私たちは傷つくこと無く、幸せに暮らしていくことが出来るわ」


 それが母の考えだった。その言葉通りに、母はなるべく目立たないよう、いつだって「人間の普通」を心掛けていた。


 母の教えはもう一つあった。


―「それと、周りの人には優しくすること。もし何かの理由で花食者ということがばれてしまっても、あなた自身を分かってくれている人ならば、きっといじめたりしないわ。それに、いつも優しく在れば、アオイが困っている時にはきっと助けてもらえる。何より、優しい心で行動するのは気持ちがいいでしょう? 」


 アオイはきっとそれが出来る子だよ。

 母はそう言って幼いアオイに笑いかけた。

 母の教えが正しいのかどうかは分からない。人間には良い人も悪い人もいて、自分が善い行いをしたからといって必ずしも相手に良くしてもらえるというわけではないことを、十九のアオイはもう知っている。

 けれど母が自分に遺した言葉は、正しいか正しくないかとは別にアオイにとって絶対的なものであり、生きるための指標であった。


 そんな母の教えを破り、人としての社会の掟も破ったが、それでも当然にアオイは生きていきたかった。そもそもこんなことになったのも、生きていきたいが故だった。

 だから、こんなところでは止まれない。

 下を向いて、途方に暮れていたってどうしようもない状況は変わらない。それなら今は、生き延びるため、僕に出来ることを一つ残らず探して、実行していかなくちゃ。

そう自分に言い聞かせて、アオイは泣きそうになっていた心を奮い立たせて顔を上げた。母の笑顔を思い出し、生きてみせるよ、と決意を新たにする。そしてほんの少しだけ、口角を上げた。母が亡くなってからめったに笑わなくなっていたことに、その時気付いた。母はいつも、アオイの笑った顔が好きだと言っていた。


 よし。きっと大丈夫。

 形だけでも笑顔を作ったら、ほんの少しだけ気持ちが上を向いた。

 アオイは切り替わった気持ちで、これからやるべきことを考える。

 まずは今日、夜を明かせる場所を探そう。職場から逃げ出すことになったのが昨日の夜遅く。それからずっと歩き通して隣町まで逃げてきて、今はもう夕方だ。既に体力は限界を超えていて、どこか暖かい所でゆっくり眠りたかった。それにお腹も空いている。昼間に通った商店街に花屋はあったが、手持ちの小銭では何も買えず。かといって盗みを働こうにも度胸が無く、いつの間にかずいぶん閑散としている所まで来てしまった。万引きが出来るかどうかはさておき、辺りにめぼしい店も無い。自分の行き場の無さを実感し改めて現状に絶望しながらも、とりあえず歩を進める。雨が降らないことを祈り、空をにらんでいると、ふと、ある建物が目に入った。


 古い屋敷だ。それほど大きくなく、見たところ二階建て。装飾が施された鉄製の門からは来客を拒むような、そんな空気を感じる。深いブラウンの壁には枯れた蔦が這うように張り付いているが、花は付いていない。屋根のワインレッド色が、曇り空に不気味に浮かんでいる。屋敷の右側は塔のように円柱形になっていて、そこだけ外壁がクリーム色で屋根はチョコレートブラウン、窓枠は薄い黄緑色だった。後から増築されたような、もしくは誰かのわがままが通されたように、そこは全体から少し浮いていた。

 ここなら雨風をしのげるし、眠れる場所もありそうだ。こんなに古い所に人が住んでいるとは思えないが、もしかしたら誰かが育てた花が一輪くらい残っているかもしれない。


 そう思うと目の前のぼろ屋敷が楽園のように見えてきて、アオイは喜び勇んで中へと足を踏み入れていった。

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