第17話 母との別れ

今年の2月、母が急死した。

突然の別れで呆然としていた2月であった。


認知が昨年から顕著になり、お金の管理も限界に来ていたところであったが、まだまだ元気に過ごしていけると思っていた矢先の事であった。


母は70代であったが、後期高齢者の為に昨秋に免許の更新の講習を受けた。

ところが結果は認知症のために運転免許の強制停止というハガキが11月頃に届いていた。


びっくりした弟と2人でこれからの事を考え、役割分担をしていたところでもある。


ちょうど1月に念の為に、母の資産状況の確認をした。

とりあえず、急を用する事はなかったが、引き落としの通帳が無くなっていた。


母に問いただすと、「わからない」というだけ。

そろそろお金の管理も限界か…と思い、介護認定を受ける事になった。


ところが、認知症の受診が多いのだろう、

最も早い初診予約でも2月中旬との事だった。


だが、母はその初診予約日を待たずに突然に逝った。

逝ったその日はとてもきれいな青空であった。


確か4年前に父が亡くなった日も綺麗な青空であったのを覚えている。

父の鼓動が無くなり、父の死を確認したあと、病院の窓から見える空は雲一つない綺麗な青空であった。


私の中でこんな綺麗な青空の日に旅立ったのだなと思いながら、涙顔で見たのを昨日の様に覚えていた。


そういえば、母の認知症が顕著になってきた頃、父が夢枕に立ったのだ。

父が亡くなってからずっと、会いたいから夢にでも出てきてくれないかと思いながら過ごしていたのだが、全然出てこない。


親孝行もろくにせずにいた娘のところには来たくないのかと思ったほどだ。


だが、父は突然、夢枕に現れた。

スーツをビシッと来て一言

「俺がなんとかする」と言って歩いて行ってしまった。

ちょうど母の認知が顕著になってきた頃だった。


私はその頃、弟とよく電話をしていたので、その夢枕に立った事を弟に話しておいたのだ。


実は父の死にもちょっとしたエピソードがある。

父と母は生前よく喧嘩をしていた。


これは母がフルタイムで働き、父と同じ額を稼いでいたせいもある。

今では当たり前だが、母の時代は違う。


母はまだ女性管理職という言葉がない頃、

祖母がいたせいか、フルタイムで40年公務員として勤め、管理職になった。


母もそのプライドがあったのだろう。

そして父が婿ということも関係していたかもしれない。


口喧嘩が絶えず、子供達はなんで離婚しないのだろう?と不思議であった。


まだ離婚という選択肢が珍しい時代でもあったが、こんなに仲が悪いのだから、子供心に別居でもしたほうがいいのではないかと思ったものだ。


だが、夫婦とは不思議なもので、父が倒れる前日に母は父に「お父さん、私、とっても幸せ。ありがとう」と言ったそうだ。


父は恥ずかしながら「おう!」と言い会社へ向かったらしい。

父は会社からの帰りに、夕飯にと上等な寿司折りをお土産に1つ買ってきたそうだ。


それを食べきれないからと2人で仲良く分けて食べたという。


実はこの話を聞いたのは、父の葬儀の準備をしていた時だった。

母が「お父さんとこんな話をしたのよ〜」とどこか懐かしそうな顔しながら、呑気に話をした。


周りはいつも小競り合いをしていた夫婦だと判っていたので、その場にいた皆が「お母さんがそんな事を言うから逝っちゃったんじゃないの??」と言うと、母が困ったような顔で笑っていたのを覚えている。


父は脳梗塞で亡くなった。

前日まで元気で、自分の起業した会社に会長として現役で勤めていた。


が、寿司折りを仲良く食べた次の日の朝に朝起きると父が倒れていて、母が慌てて救急車を呼んだが、倒れた時にはもう手遅れの状態であった。

退院後は施設でほぼ寝たきりとの話であった。


母だけでは世話をしきれないと思っていたので、子供達は介護に突入するのかと覚悟を決めた。


が、父はその2日後に穏やかに逝った。

私はギリギリ父の死に目にあうことができ、手を握り父を看取った。


72歳の若さであったが、子供の世話にならず逝ってしまった父の死をあっぱれ!とも思ったものだ。

父自身も動き回るのが常である人だったため、寝たきりは辛いだろうと思っていた矢先の父の死だった。

母もその頃は大病し、少し体が弱っている時期であった。

父は誰の手もわずらわせずに逝ったのだ。

まるでもう足手まといなら逝くといわんばかりに…


母の死も父の時と似ている気がした。

母が認知になり、車も運転ができない。

子供達は仕事をしていて、自分が足手まといにならないうちにという逝ってしまったという感覚が私の中にあった。


ちょうど資産状況も伝え、1人で暮らすことが困難になる前に旅立ってしまった。


もう一つこんな風に思ってしまう辻褄がある。


実は私の夫が遠方の他県にスノーボードに連泊していた時であった。

夫婦で自営で会社を営んでいるが、2月は仕事が割と暇な時期である。


夫が何日までとは決めず、ゲレンデのコンディションで帰る日を決めるとの事であった。


ちょうど夫が5日ぶりに帰ってきたその晩に電話が鳴った。

母の死を告げる電話であった。


母は私が1人の時ではなく、ちゃんと夫が帰ってくる時を待っていたのかもしれないと思った。


その母の思惑?どおり、私が取り乱しているのを、夫はずっと寄り添ってくれたのである。


父から受け継いだ弟の会社も弟が不在になっても大丈夫な時であった。


この時期だけ姉弟が割と時間のある時期であった。


母の葬儀を皆で話あっていた時に、弟がポツリと言った。

「そういえば、オヤジが夢枕にたったって言ってなかった??」


私は弟に言われるまで、その事をすっかり忘れていた。


そして母の葬儀の2日前に母が夢枕に立ったのだ。

その顔はいつもの優しい母の笑顔で私に一言、「あとはよろしくね」とニコニコして言った。


霊感などは全くないが、夢枕にたった父と母は子供に伝えたい事は言ったのではないかと思う。


母も生前は認知がいい具合に入り、私が大丈夫?と電話すると、「大丈夫!お母さん今幸せなの」とよく言っていた。


私は突然の母との別れに後悔ばかりが頭によぎったが、親戚のおばさんに「あなたが幸せなの知ってたから、お母さん幸せだったわよ!」と言われ、ああ、親とはそういうものかもと我に返ったのを覚えている。


私も子供がいる身。

確かに親がどんなにお金があろうが、栄誉があろうが、子供が幸せでなかったら親は幸せではないのかもしれないと思った。


子供が幸せでいることが、親にとっては最大の幸せなのだ。

その気づきが親を亡くした悲しみから救いあげてくれるような気がした。


親は先に逝くもの、悲しいが時薬という言葉があるように、時間が癒やしてくれるだろう。


親孝行は自分自身がきちんと生きるということであると思う。

泣きたい時は素直に泣いてもいいと思う。

でも泣いたあとは顔をあげて、やはり生きていかねばならない。


親の死は、最後まで子供に生きるという事を教える為にあるのかもしれないと思う桜の開花した3月の日であった。

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