第4話 自営業敷地内同居
私は自営業の家に嫁いで28年目になる。
家は敷地内同居で、通路でつながっているので自由に行き来できる。
割と義両親とは上手くやってきたと思う。
しかし葛藤がないわけではない。
義父は今年の3月に亡くなった。看取ったのは嫁である私である。
夫は前日より群馬にスノーボードに出かけていた最中であった。
朝早くに私の携帯がなった。病院からだ。「お父様の心臓が止まりそうです、早くきてください!」と担当の看護師さんから電話があった。
飛び起きたが、何をしたらいいのか一瞬わからず、ベッドの周りをウロウロしたのを覚えている。
義母はというと、朝早かったのでもちろん寝ていた。着替えさせるには時間がないと思い、とりあえず私だけ病院に駆けつけた。
駆けつけると義父の心臓は一度だけ弱く鼓動しそのまま眠るように亡くなった。
28年も義理とはいえ親子だったのだ。しかも義両親はとても優しく私を可愛がってくれた。
亡くなった瞬間、自然に涙が出て「お義父さん、お疲れ様でした…」と言って手を握った。
まだ温かく早く義母を連れてきてあげたかった。
看護師さんに「まだ温かいうちに義母に会わせてあげたいのですが」というと、色々処置や書類を揃えるのでいいですよとの事だった。
病院は家から車で5分のところにある。家に着くともう義母は支度をしてあった。
義母を連れて行くと、まだ温かいと義父に触れていた。
義両親はとても仲が良かった。
晩年は二人でよく国内旅行へ出掛けた。
しかし、義父は昨年の夏頃から認知症が酷くなり、心筋梗塞、脳梗塞と立て続けに患いほとんど寝たきりの状態だった。
何年も寝たきりは可哀そうである。長患いせずに逝ったのは良かったのかもしれないと義母と話をしていた。
義父は満88歳で亡くなった。
私の嫁いだ家は珍しい家かもしれない。
義父は国際交流が趣味で30代の頃からロータリー倶楽部という国際交流を主とした団体のメンバーであった。
その当時は好景気で家業も上手くいき、義父は交換留学生を預かるためにマイホームを建てた。
マイホームが出来上がると早速オーストラリアから16歳の少女を預かった。
義母は反対したらしいが、そんなことには耳を貸さず我が道をいく義父だったそうだ。
当時、留学生を預かるというのは医師か歯科医の家位だった。
ただの自営業の社長風情が預かるのかと陰口も言われたらしい。
義父は努力家で独学で英語を習得し、念願の留学生を預かった。
その時がきたときはさぞ嬉しかっただろう。
夫が保育園に通ってる頃、その留学生が迎えに来てくれたらしく、保育園の先生に「あなたを迎えに来たと言ってる外国の人がいるけど知ってる?」と聞くとうちにいる外国人だと答えたそうだ。
今だったらそんな事で園児を引き渡すことは絶対にないだろうが、良き昭和の時代ならではの話である。
一方で義母はその当時すっかり痩せて、周囲に心配されたそうだ。
全く日本語の喋れない少々の世話は実際は義母がするのだ。
さぞ大変だっただろうと容易に想像ができる。
何故かというと私も嫁いでから同じ思いをしているからだ。
そんな訳で、私の嫁いだ家は国際感覚豊かな家であった。
義父はアメリカに一ヶ月行ったり、義母は預かった留学生に連れられてヨーロッパ一ヶ月の旅をしたりしていた。
私達が敷地内同居した後は、うちの家の方に使ってない部屋があったので、そこをお客様のベッドルームとして使った。
嫁いで2年位経った頃、義母に癌が見つかり入院して手術を受けた。
義母が2週間の入院を無事に終え、迎えに行った義父が車の中で「明日、米国の大学教授が2人来ることになっている」と義母に伝え、車中で大喧嘩になったそうだ。
しかし、今更断れもしないので、来るべき人は予定通り到着した。
二人共年配の男性であったが、一人はスマートな体型の男性、一人はかなりの肥満体型である。
その訳が翌日の朝わかるのである。
うちの鍵はオートロックになっており解錠したままだとピーーっと大音量で家中で音がなるようになっている。
朝5時きっかりに毎朝なるようになった。
義父に聞くとスマートな体型の人は朝マラソンをするのが日課らしい。
そのために開けて出ていくのだが、システムを知らないため開けっ放しでいくのだ。
私達夫婦はそのたびにどちらかが起きて、解錠をリセットする。
そんな日が2週間続き、そのスマートな米国人のことを私たち夫婦はマラソンマンとあだ名をつけた。
無事にマラソンマン一行が帰国し、ホッとし忘れた頃にまた新たな外国人が止まりに来るという日常だった。
なぜそんなに外国人が来るのかというとロータリーの国際大会というのが1年に1度開催される。
毎年場所が変わるため、義父は色々な所を訪れただろう。
そこで知り合いになった人に今度うちへ泊まりに来ませんか?というのがお決まりの挨拶だったらしい。
私の結婚式はチャペル形式のウェディングだった。
今は珍しくもないが、当時は流行り始めた頃だった。皆珍しがり、式から参加してくれた。
その時に最初に預かったオーストラリア人の女性を呼ぶことになった。
そのオーストラリア人には7歳の娘がおり、ベールガールをやってくれるというのだ。
空港へ迎えに行くと、金髪で目の青いお人形さんのような子であった。
当日は緊張していたので気づかなかったのだが、後で写真を見返してみると、ヴァージンロードを歩いている花嫁の私を見ている友達は皆無だった。
友達の視線は皆その可愛いベールガールを見ていたのだ。
今でも良き思い出?である。
ある時、義父が国際ロータリー大会で英国に行くことになった。
私はショートブレッドが大好きな為、義父に沢山買ってきてと頼んだ。
向こうで買うと安いらしいのだ。
夫は頼んでる私を見て、「親父は絶対に言ったものは買ってこないよ」というのである。
昔から米国に行くなら自分の好きなミュージシャンのレコードを買ってきてくれとよく頼んでいたらしい。
だがレコードはレコードなのだが全然知らない歌手のレコードを買ってきたという。
そんな事が何回かあり頼まなくなったという。
それを聞いて、私は毎日のように「お義父さん、ショートブレッドだよ。絶対に忘れないでね」と暗示をかけるかのように出発の日まで言い続けたのである。
その効果は絶大であった。
トランクいっぱいにWalkerのショートブレッドが沢山入っていた。
喜ぶ私を余所に義母が「おとうさん、紅茶は?」と聞くと「あっ!忘れた!!」と叫んでいた。
どうやらショートブレッドで頭がいっぱいになり、そちらは忘れたらしい。
少し申し訳なく思った嫁であった。
そしてとうとう外国人のお守りの代替わりする時がきたのである。
そのベールガールが16歳になり、日本へ2ヶ月来たいと義父へメールが来たという。
義母は 「もう私は歳をとってるから無理、ママなら英語も慣れているしどう?」と言われた。
義母は私が高校入試で英語で満点を取ったことを知っており、歳も近いからということで、お願いされた。
まだ大変さをわからない私は、好奇心のほうが勝り引き受けたのである。
その好奇心は3日で後悔へと変わった。
日本語を学びたいという割には全く日本語を喋ろうとせず、私が辞書を片手に持ち、英語を喋る日々が続いた。
しかもかなりの偏食で肉料理の気に入ったメニューか白米しか食べない。
毎晩食事の支度に苦労をした。
毎朝、高校へ送っていき、仕事へ行き、小学生の娘の習い事や公文の送り迎えもした。
2週間もするとヘトヘトだった。
彼女はとうとうほとんど日本語を話さず2ヶ月の滞在を終えて帰国した。
おかげで私は高校入試以来の英語の勘を取り戻し、日本にいながら英会話を取得したのである。
ちょうど入れ替わるように、ニューヨークから米国人の夫婦が来た。
この人たちは完全に義父のロータリー関係のお客様なので、お世話は義両親がした。
当時小学生だった娘のことも可愛がってくれ、とても感じの良いご夫婦だった。
娘もその夫妻が帰国する時には自分で描いた絵を渡した。
それが2011年の日本大震災の時に、ニューヨークでこの夫妻が中心となり、「この絵を描いた少女が日本で被災しています。」と募金を募ったのである。
その募金はロータリー財団を通じて、被災者へ送られた。
本当に物事というのはどういうふうに繋がり、動くかわからない。
その他にもオーストラリアの友人がこちらへ避難してこいとも行ってくれた。
国は違えど、皆温かい心を持っている。
心あたたまるエピソードである。
普段は夫と従業員が外回りをし。義両親と私は会社で経理や事務をしている。
それが終わるとおしゃべりタイムになるのだが、若いうちは仲の良い義両親だったので苦にはならなかった。
40代に入った頃からであろうか?
ゆらぎ期に突入する頃、義母とのおしゃべりがとても苦痛になった。
たまにならいいが、毎日何時間もとなると家に帰り家事をするエネルギーが残っていない。
義母に「交代で会社に来ないか?」ということを提案したり、私が出かけたりしてなんとか良好な関係を保っていた。
だが、義父が亡くなると義母は寂しいのだろう。
何かあるとすぐ私に報告し、会社でもずっと一緒におり、義母の話を聞く日が続いた。
もう限界であった。
ただでさえ体調が悪く、義父も見送りほっとする時期に突入するはずである。
娘はとうに成人し大学をでて、社会人としてバリバリ働いている。
私は若くして結婚したので、子育てが終わったら自分の時間を楽しみにしていた。
そんな時にゆらぎ期特有の体調が安定しない日々で義母の話し相手をしていると、もう自分の中にあるエネルギーはすっからかんになるのである。
私は意を決して義母に言った。「お義母さん、毎日毎日話をするのはしんどいの。お義母さんの事は好きだよ。でも私は一人の時間も欲しいの。だから少し会社に来るのは遠慮してくれる?私は仲がいいと言っても嫁だからやはり少しは気を使ってしまう。申し訳ないけど、でもそうじゃないと爆発しそうなの!」と言った。
義母はショックを受けていたようだが、私も自分を守らなくてもいけない。
良い嫁すぎるのは自分を追い詰める。
意を決して話をしたのだ。
それから義母は全く会社に来なくなった。
家でもほとんど会わず、ちょっと心配にもなったが夫が散歩をしている義母を見たという。
それを聞いて少し安心した。
しばらくすると私から母屋に行き、お彼岸の話をした。
義母は「ママ、ごめんね・・・ネットで見るとママはよく我慢してくれていたのね。でもたまーに会社に行ってもいい?」と言われた。
「うん、いいよ。」と私も答えた。
今は付かず離れずの良好な関係だ。
この間は東京の老舗洋菓子店のケーキをお土産に買って渡したら、とても喜んでくれた。
この先、また色々あるかもしれない。
でも今回の事でなんとかやっていけるというほのかな自信が私の中に芽生えたのである。
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