幕間:彼女への感謝と、できるだけ頑張るべきこと

 あの少女を追い出してから。


「……あの。しきちゃん」

 しきちゃんは僕にしがみついて離れなかった。


 血だらけの部屋に座り込んだ、血だらけで冷たい僕に。

 血が少なくなって寒い身体には暖かい。けど、同時に非常に落ち着かない。

 あいつの気配は薄いのに、このそわそわした気持ちがそのまま残っているのは何故だろう。


「服。汚れるよ……?」

 それを言うのがやっとだったけど。彼女はこくりと頷いただけで動かなかった。

 その小さな身体と灰色の髪にこびりついた赤黒い塊を見ると、なんだか胸がぎゅっと痛む。

 空いた手で頭をそっと頭を撫でる。相変わらず彼女の髪はさらっとしていた。

 そのまま抱き寄せたい衝動を堪えて僕は言う。

「しきちゃん。ごめんね」

「……」

 彼女は答えない。ただ、僕の服を掴む手にぎゅっと力が入ったのが分かった。

「……した」

「?」

 たっぷりと沈黙してから、しきちゃんはぽつりと言った。

「謝らないって、言いました」

「え。あ……うん」

 それ。ここでも有効なんだ。と思いながら頷く。

「謝らなくてはならないのは、ボクの方です」

「……しきちゃんも、謝らないって言ってたのに」

「……いいえ。いいえ。これだけは、座敷童として。です」


 そして彼女はようやく僕から離れた。


 胸の傷を見て。腕を見て。血だらけになった服に、長いまつげを伏せて。

「ボクが謝らないと言ったのは、お兄さんに呪いを渡してしまったことです。今から謝るのは、お兄さんをこんな目にあわせてしまったこと、です」

 それは、僕が彼女に出会って初めて聞く、悔しそうな声だった。


「ボクは、座敷童になりたいんです」

 彼女の言葉は、僕の首を傾けさせた。

「しきちゃんは、座敷童だよね?」

 そう言うと、躊躇うような間の後、首を少しだけ横に振った。

「きっと、違います」

「違う……?」

「ボクは、確かに座敷童と言われてきました。そう在るように作られて、これまでたくさんの家を転々としてきました」

 けれども、と彼女は言う。


「ボク自身が見限って出て行った家は、ひとつもないんです」

「それは……」


 それは。座敷童が居なくなったから没落した家がないと言うこと。

 それは。家がなくなったから出て行かざるを得なかったと言うこと。


 僕の考えを肯定するように、彼女は頷く。

「ボクがいた家は、確かに幸せそうでした。でも、ボクがそう思うと、必ずみんな居なくなるんです」


 事故。事件。家庭事情の悪化。その他諸々。

 理由は色々あるけれど、最後は自分ひとりが残るのだと、彼女は言った。


「――だから、お兄さんが吸血鬼だって聞いた時、少し嬉しかったんです」

 彼女はぽつりぽつりと言う。

「吸血鬼なら。人でないなら。ボクのこの力も、なんとかなるんじゃないかって。思ってました」

 利用してごめんなさい、と。彼女はまた謝る。


 なるほど、彼女が思って以上にあっさりと僕の家に住むと決めたのは、そこが大きかったのだろう。

 勧めたのは僕だから良いんだけど、という言葉を挟む間もなく「なのに」と、しきちゃんの言葉は続く。


「今のお兄さんは傷だらけです」

 周囲に散らばる食器や調理器具に視線を落とした声は、悲しそうだった。

「まあ、傷は……もうほとんど塞がりそうだから大丈夫だよ」

「ごめんなさい……」

 ごめんなさい。と彼女は繰り返す。


「ボクは、お兄さんに幸せをあげたいです。平和で、平穏で、お兄さんの望むような穏やかな日常がここにあると、言って欲しいです。ボクが座敷童で良かったと。ごめんなさい。これはボクの、しきという座敷童の我が儘です」

 それなのに。と僕の腕に残った傷痕をそっと撫でて、言葉は続く。

「こんなに、呪いを渡して、傷だらけにしてしまって。これでは……これでは……」

 声に涙がにじむ。

「しきちゃん」

「これでは、ボクは……っ」

「しきちゃん」

 両手で頬を包み込んで顔を上げさせる。


 涙の溜まった赤い目が、僕を真っ直ぐ見上げる。

 こうして真っ直ぐ彼女の目を見るの久しぶりだ。なんて。

 どうでも良いけど、なんだかくすぐったくなるような気持ちが湧いた。


「しきちゃん。考えてみてよ」

「かん、がえ……?」

「僕は確かに平穏を望んでる。君に出会って、血をもらって、吸血鬼としての充足も得た。その代償は……ちょっと大きめだけど。今はね。少し楽なんだ」


 こうして君に触れられるくらいには、という言葉は飲み込んだ。

 夢の中で、アイツの姿が黒い影になっていたことを思い出す。


「多分、血を流しすぎて薄れたんだ」

 言ってしまえば、それだけの量の血が流れたと言う事なんだろう。酷く寒い気がするのは出血多量。そういう事だ。


「これだけの血を流すってのは、そう無いことだよ。その為には、きっとこの出来事は必要だった。そうすると……テオが日本に来てるってのも、君の力の一端なのかもしれない」


 きょとん、とした彼女の涙が僕の指に触れて染みこむ。


「君の呪いが薄まって、僕に移って。それは彼女の……ノエルちゃん? だっけ。あの子の襲撃でこれだけ薄まった。つまり、僕と君にあった呪いは」

 完全に、とは言いがたいけど。

「もうちょっとで……例え解けなくても、きっと僕がなんとかできるくらいには薄まる」


 まさかこんな物理的に薄まるとは思っていなかったけど。


 ね、と彼女に言い聞かせると。しきちゃんはその言葉を懸命に飲み込もうとしているようで。頷くように、考え込むように、小さく首を動かしていた。

「あと、これは推測だけどさ」

 彼女の視線がこっちを向く。

「しきちゃんがこれまで居た家の出来事は、多分あいつのせいだと思うよ。その元凶が僕の中にあるって事は、君が恐れているような事態は、きっとない。……実を言うと僕は不死じゃないんだけど、まあ、人並み以上に生命力はあるから」


 それにね、と続けた言葉は、僕自身にも嬉しいものだったのだろう。

 自分で声が浮かれているのが分かった。


「百年ぶりに友人が訪ねてくるなんて、きっとしきちゃんが居なかったら実現しなかったよ」

「……は、はい……」

 しきちゃんの声は戸惑っていたけど。

 ね、ともう一度だけ念を押して手を離す。

「さて」

 ぽんぽんと頭を軽く撫でて、立ち上がる。


 部屋は散々たる有様だ。

 あちこちに調理器具とか食器の破片とかが散らばっていて。

 僕の血で床はべたべたに濡れていて。

 僕としきちゃんも同様に汚れてて。


「……後どれくらいで戻ってくるかは知らないけど、もてなしの準備をしよう」

「おもて、なし……ですか」

 不思議そうに繰り返された言葉を、うん、と頷いて返す。

「だから、まずはその血を流しておいで。その間にこの部屋は何とかしとくから」

「え。えっ……あの、お片付けは……」

「いいから」

 ほらほら、と彼女を立たせてお風呂場へ向けて背中を押す。

 彼女は少しだけ戸惑いながらも、僕の「行っておいで」という言葉にこくりと頷いて浴室へと姿を消した。

 

 □ ■ □


「さて、と……」

 どこから手を着けたものか。と悩むが。まずはまだ液体の状態をなんとか保ってるこの血溜まりからなんとかしてしまおう。

 

 台所から洗っておいてあったペットボトルを持ってくる。

 それからカーテンをぴったり閉める。

 真っ暗になった部屋に意識を集中する。

 ぴたりと足元の血に指を浸して。


「よい――しょっと!」


 勢いよく掬い上げ、ペットボトルの縁をその指で叩く。

 瞬間。ペットボトルの中の質量が腕を引いた。

 そのまま蓋をして、カーテンを開ける。

 振り返ると、部屋に血痕は残っていなかった。ただ、調理器具が散らばっているだけだ。

 上々、と頷いてペットボトルに視線を落とす。


「……うわ。これ2リットルなのに……」

 ペットボトルは9割方埋まっていた。

「そりゃあ血も薄くなる訳だ」

 しかし、人間ならこれは致死量だ。もちろん、自分だってこれだけの出血で動くには無理があるし、これは後々喉が渇くに違いない。

「血、どっかで調達できるかなあ」


 ぽつりと呟くと、あの甘くておいしかった味が思い出された。


「……いやいや」

 首を横に振る。

 頼めばきっと、彼女はいいと言うだろう。呪いも……染みついてはいるだろうけど、薄まっているだろうから、心配はしなくていいだろう。


 けど。何というか。ほら。色々とアウトのような気もして。


「うん……できるだけがんばろう」

 衝動に負けるかどうか。その時はその時だと、指に残った血を舐める。

「……」

 そしてちょっとだけ後悔する。


 血の味というのは、やみつきになる。

 おいしいのは特に。

 

 そして、女子供の血というのは、柔らかくて甘くておいしいというのが、相場なのだ。

 ああ。頑張れ僕。

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