4:何よりも気付きたくなかったものがそこにある

「あいたた……全く、なんなのよもう……」

 ぶつけたところをさする。生身じゃないから痛くはないけど、文句は出る。

 頬を膨らましていると、とん、と軽い音を立てて影が目の前にたった。


 ああ、この影がさっき私の邪魔をしたんだわ。

 そう思うとちょっと腹が立ってきた。


「ちょっと。貴方も一体なんなのよ」

「私かい?」

 影はふわりと笑った。ように見えた。


 髪の色も。目の色も。輪郭も。何も分からない。全てがぼんやりとした影だった。声も湖畔の岸に寄せる波紋のようにゆらゆらしている。

 私より力が弱いのかしらと考えたけど、他人の意識の中であれだけ動けるし、私の腕を掴んだ感触はまだ残っている。これだけ干渉できるんだから、油断はしちゃいけないと、感覚が告げる。


 影はくす、と小さく笑った。

「君と同じさ。彼の身体を利用しようと残っていた亡霊」

 だが、と影は包丁を持った手が黒く染まっているのを見て溜息をつく。

「私もここまでぼやけてしまっては、そう力は出せないし」

 する、とその手から包丁が抜け落ち、とすん、と足元に真っ直ぐ落ちてきた。

「――っ!」

 膝ギリギリに刃先が刺さる。スカートが床に縫い付けられる。

「まあ、しばらく待とうじゃないか」

 影は穏やかに文句を封じた。

「私も、君も。きっと彼がどうにか片付けてくれるさ」

「私は……っ、譲らない、わよ」

「うん。私もさ――でも」

 影の指がすっと後ろを差す。

「彼は、そろそろ保たないんじゃないかな」

「……え」


 振り返る。テオが倒れている。いつもより色が悪く見える指先は、影に浸蝕されているようにじわじわと黒く染まっていた。

 駆け寄ろうとした。包丁がスカートに刺さっている。抜いて、投げ捨てて、駆け寄る。

「……っ、テオ! テオ!?」

 駆け寄って揺さぶってみても、目を覚ます様子はない。

 ただ、煤のように影が散る。


「急ぎすぎたんじゃないかい? 奇襲も結構だが、内側から少しずつ少しずつ崩していくのも大事だって覚えておくと良い――と、ここで君に言っても無駄か」

 しかしまあ、と影は溜息をついた。

「これも全て、彼女の力……なのかもしれないな」


 彼女。

 その単語に振り返る。


「何言ってるのよ。あの子がなんなの?」

「私が誰よりも大事にしている少女だよ」

「……?」

 あの少女には、強い力を感じなかった。ただの人間だと思ってた。髪や目の色は不思議だったけど、人間じゃないと知ったって、どこにでもいる子供同然に見えるのは変わらない。

「あの子に何があるって言うの?」

 影はふふっと笑い、呆れたような嘆くような、そんな風に息をつく。

「何って、彼女は座敷童だからね」


 その単語は聞いた覚えがある。

 テオの血を飲ませる前、あの吸血鬼が言っていた。

 けど、そんなの聞いたことない。幽霊ゴーストでも化物アンデッドでも、妖精フェアリーでもない。日本固有の存在なのだろうけど、分からない。


「……その、ざしきわらし、ってなんなの」

 影は短く笑った。馬鹿にされたような気がしたけど、文句が出るより先に教えてくれた。

「座敷童というのはね。家に住み着き、幸運を運び込む存在さ。彼女は少々変わっているが……それでも座敷童には変わりない。彼女は必ず、その家にとって望ましい結果を連れてくる」

「……私はあの吸血鬼を刺したわ。それも、望ましい結果だっていうの?」

「それは……まあ、結果的にはそうなるだろうね。彼女は無意識にその力を使うから制御ができないこともあるが、その効力は確かだ」

「……」


 それは、とても難しい力だ。確かに持っているのに、自分の意思で使えない。それは……ううん。私があの子のことを考えてあげる理由はない。


「彼女の意にそぐわぬ結末を迎えることも多かったが……」

 もしかしたら、と影は言う。

「私も君も、今となっては幸福を呼ぶ一手に利用されているのかもしれない」

 信じられない話だった。ぶんぶんと首を横に振る。

「信じない。信じないわそんなの」

 何もかもあの子の手のひらの上のような言い方。

 気に入らない。気に入らなくてイライラする。とげとげした気持ちが滲み出て、その部屋にあるもの全てがふわりと浮き上がり――がしゃん! と床に崩れ落ちた。

「!?」

 能力の発動をキャンセルされたことに目を瞬かせると、影はすっと包丁を拾い上げた。

「させはしないよ」

 影のはずなのに、とろりとした目が私を見て笑った気がした。

 背中にぞく、っと寒気が走る。

「何……あなた、一体何なのよ……」

「私? さっきも言ったがただの亡霊さ。ただ、ここを新参者に渡すつもりもないだけ。君達はここで淘汰されるのさ」


 分かったかい、と。穏やかに語る影の声。

 それは、溶けたキャンディのように、身体にまとわりついて自由を奪う。

 それは私の意識も、視界も重たく塞いでいく。

 身体を起こしていられない。テオの上に折り重なるように、倒れ込む。


「テオ……」

 

 テオは答えない。

 私の意識も。そこまでだった。


 □ ■ □


「う……」

 ボクは床で寝ていたのでしょうか。

 目を覚まして、そんな事を思いました。

 違う、とすぐに教えてくれたのは痛む頭です。

 さわってみると、何かがべちゃりと手につきました。髪が固く濡れています。

 なんだろうと手を見ると、それは乾きかけの、赤い何か……血でした。


 それでボクは思い出しました。

 朝。チャイムが鳴ったこと。

 それでお兄さんを起こしに行こうとしたこと。

 それから……。


「!」

 慌てて起きあがると、目の前に女の子が居ました。

 朝に訪ねてきた、あの女の子です。

 緑色のスカートに金色の髪がとても綺麗なその人は、ボクに背を向けて座っています。

 そして。その向こうに倒れているのは――。


 お兄さんです。

 その子は、倒れているお兄さんの前に座っていました。


「お兄……さん?」

「あれ。目、覚めちゃったの……?」

 ボクの声で女の子がゆっくりと振り向きました。緑色のきれいな目が瞬きをしてボクに向きます。でも、その目はなんだか残念そうでした。


 ボクには今、分からないことがたくさんありました。

 聞きたいことが溢れてきます。


 あなたは誰ですか?

 どうしてお兄さんが倒れているのですか?

 近くに転がっている、赤黒く汚れた瓶は何ですか?

 でも。

 それは、何よりも気付きたくなかった物を見て、全部どこかへ行ってしまいました。


 お兄さんは、赤黒く塗られたような床に倒れていました。

 顔も服も血だらけでした。

 服はあちこち破れていて。色んな物が刺さっていました。


「――っ!」


 頭が痛みます。

 頬が熱いです。

 喉に何かが詰まってるみたいに。息ができなくて。考えられなくて。

 

 苦しくて。

 

「どうし……て」

「うん? なあに? 聞こえない」

 女の子は首を傾げます。


 てのひらに指がぐっと埋まりそうなくらい。奥歯が音を立てそうなくらい。ボクは自分の中の何かを堪えていました。


 形かは様々ですが、家に誰も居なくなる。

 何度も見てきたはずの光景なのに。

 こんなに苦しいのは、どうしてでしょう。

 

 ボクが居た家は、みんな幸せそうに笑っていました。

 確かに、幸せがそこにありました。

 でも、それは必ず終わってしまうのです。


 長い時間をかけて、みんな死んでしまったり。

 旅行に出かけて、誰も帰ってこなくなったり。

 おうちの子供と庭で遊んでいる間に、家のみんなが死んでしまっていたり。

 いつもいつも、そうでした。

 ぱたぱたと居なくなって、家だけが残るのです。


 次の家は。

 次の家こそは。


 でも、いつだってそうでした。

 何度も何度も繰り返して、もう誰かの家に居るのはやめようと思って。

 でも、ひとりで外に居るのはとても寂しくて。

 寂しくて寂しくて。どうしようもなかった夜。

 そんな時に出会ったのがお兄さんでした。


 吸血鬼だと聞いて、ちょっとだけ安心した自分も居ました。

 死なないのなら。人じゃないのなら。

 それなら大丈夫かもしれないと、信じてみました。


 けれども。

 やっぱり、ダメなのでしょうか?

 自身の呪いを忘れていたようなボクは、何もできないのでしょうか?


 座敷童で在りたいと。

 お兄さんを幸せにしたいと。

 思ったのに。

 叶わない。

 

 今回も、叶わない?

 

 そんなの。

 嫌です。

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