3:僕の中が賑やかすぎて困る

「……誰?」


 零れたその一言で、彼女の目の色が変わった。

 驚いたような顔だったのは一瞬だけ。すぐに視線を逸らし、唇を尖らせた。

「あーあ。ダメだったかあ」


 拗ねるような声と共に全身を現す。フリルのついたスカートがかわいらしく揺れる。軽く頬を膨らませた彼女の手には、見慣れた調理器具。包丁があった。

 そのまま一歩、近寄ってくる。


「いや。待って。その包丁、危ないから――」

 しまっておいでよ、という言葉はあっさり先読みされ、遮られた。

「ん。大丈夫。今から使うから」


 今から使う。とは。

 ここにそんなもの使う対象なんてない。

 ないはずだ。


「ホントはもう少し丁寧にまざってくれたら良かったんだけど……」

 彼女の目がちら、と鏡を向く。

「急いじゃったのが良くなかったわ。なんか邪魔も入ったっぽいし。さっさとテオひとりにしちゃった方がいいわね」

 そして彼女は、ためらいなく包丁を振りかざす。


 刺される――と、思わず目をつぶったが、そんな衝撃はいつまでも来なかった。


 目を開ける。

 そこには、彼女の腕を掴む影があった。

 なんとなく覚えがあるけど、うすぼんやりとしていてよく分からない。


「全く」

 けほ、と影が小さく咳き込む。

「君は、色々と見失いすぎだよ」

「……」

「何よ! 何なの!? ちょっと離して!」

 じたばたと暴れる少女には目もくれず、影は言う。

「須藤――いや、ここはこう呼ばれていたね。テオ君」


 その名前に、僕の意識が小さな音を立てる。


「今自分が置かれている状況も分かっていないね。そのおかげで私もこの有様だ。もうちょっとだと思ったのに、君は血を流しすぎた」

「血を……」

「君、間抜けにも刺されたんだよ」

 影の視線が、腕を掴む少女に降りる。

「彼女にね。そして、血を飲まされた」

「……」

「私と同じさ。そして、その血には魂を補強するまじないが施してあった」

 私ほどの強さじゃないけどね、と彼は嘆息する。

「助けるつもりはなかったけど、ここで彼には退場してもらわないと色々差し障るからね――さあ、考えるといい。君の名前は?」

 答えてごらん、と影は言う。


 名前は?

 問われるままに考える。


 テオ……テオドール……いや、ウィリアム。違う。もっと。他の。

 さっき呼ばれたような気がする。頭がくらくらする。なんだか思考が窮屈だ。でも、考えを放棄する訳にはいかない。きっと、あの影が許してくれない。それだけはなんとなく分かる。


 考える。

 思いつく名前を追い出して。

 自分の中身を掘り返して。


 指先にこつんと当たった、その名前。

 僕の。名前。


「須藤……むつき」


 その名前を口にした瞬間、目が覚めたような気がした。

 思考も晴れたようにクリアだ。今ならあの影が誰かも、いや、名前は知らないけど。誰かも分かる。


「状況、分かったかい?」

 影は溜息をつく。

「多分……思い出した」


 ならいいや、と影は溶けるように消え失せた。

 掴んでいた手が消えて、たたらを踏んだ少女がばっと振り返る。

 自分の腕を掴んでいた影を見定めようとしたのだろう――が、彼はもうそこには居ない。

「え。何……今の、何なの……?」

 戸惑う彼女に僕が代わりに答えてやる。

「君より先に、僕の身体を狙ってたやつ」

「は?」

 少女は包丁と共に勢いよくこっちを向く。その勢いで、刃が僕の服をかすめる。

「おっと。危ないなあ」


 その手をちょっと叩いて、包丁を落とす。

 床で跳ねたそれを部屋の端まで蹴り飛ばし、少女の腕をそのままひねり上げる。

 端で傍観してるアイツに包丁が当たれば良かったんだけど、残念ながら彼は少し高い棚に悠々と座っていて足をかすめることもできなかった。

 代わりに、その下に倒れていたもう一つの影――黒髪の青年へ柄が当たった。


 アイツが僕の中に居ないだけでこんなに気分が晴れやかだったか、とここしばらく実感していなかった調子の良さを少しだけ噛み締める。

 噛み締めながら、この狭い部屋の人口密度に溜息をつく。


「……あのさ。僕の中、こんなに賑やかになられても困るんだけど」

「それは君が隙だらけなのが原因じゃないかい?」

「うるさいな」


 平和に生きたいだけなのに、どうしてこんなに集まってくるんだか。一人は自業自得としても。

 影はくすくすと笑っている。


「そんなことより、そろそろ君は目を覚ますべきではないかな」

 影は突然そんなことを言った。

 この状況を放って目を覚ませと言うのか。

「ここは君の夢の中。君に取り込まれた数多の命が彷徨う場所だ。その中で特に力や妄執の強い者だけがこうして姿を見せている。が、まあ。今は放っておいても構わないだろう?」

「……え。いや。お前が一番放っておいちゃいけない気がするんだけど」

「まあまあ。こうなってはできることも少ないからね。多少は大人しくしてるさ」

「……」

「ふふ、その目は信用していないね」

 音もなく棚から降りた彼は、落ちていた包丁を拾い上げる。

 その刃を指でなぞり、愛でるように首を傾けた。

「なに。心配はいらない」

「包丁持ったヤツというか、お前の何を信じろって?」

 つい、と視線がこちらを向いた気がした。影に目も何もないけど、とろっとした視線を感じる。

「――ああ、その目は嫌いじゃない。それに免じて、しばしここの番を買って出てやるだけさ。こんな所より、君が目を向けるべき場所があるだろう?」

 ほら、と彼が包丁で洗面所の外――リビングを指す。


 リビング。

 ここに居ない人物。

 倒れた時に見た、灰色の髪。


「――!」

 少女の手をふりほどくように離すと。彼女は青年の足元へ転がっていく。そんな光景を視界の隅にひっかけて、ばたばたと洗面所を後にした。

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