2:早くに目を覚ました■■は。

 目を覚ました。

 なんだか良い匂いがした。

 カーテンの隙間からは朝日。ドアの向こうからは、誰かが動く気配がする。

 目覚ましは鳴る前。まだ頭は寝ぼけてる。


「あ、れ……?」

 なんだかお腹が痛いような気がする。さすってみたけど何もない。筋肉のつかない腹をさすっていると、匂いに釣られた身体が空腹感を訴える。

 枕元の目覚まし時計を手探りで取って、時間を確認する。

「……6時半、か」


 不思議な夢を見たような気がした。

 内容はうまく思い出せない。


 誰かが笑ってるような。ずっと誰かを探してるような。

 なんだか痛くて。苦しくて。寒くて。寂しいような。

 縁だけ残ったような、空っぽの何かがもやもやと残る夢。


 しかし、思い出せないものは仕方ない。

 夢は記憶の整理だとも言う。きっと、記憶の何かが片付けられたのだろう。

 いいや、起きよう。


 ベッドから抜け出すと、思ったよりも身体は軽かった。ダルさはあるけれど、今日一日のんびりするには問題ない。

 少しなら散歩に行ってもいいな、なんて思いながら着替えてドアを開ける。

 と、そこには。

「あ。おはよう! ご飯できてるよ」

 聞き慣れない元気な少女の……。 


 ――。

 

 いつもと変わらない元気さで、台所から彼女が声をかけてきた。

「あ。ああ……おはよう。今日も元気だね……」

 金色の髪を背中に揺らした、エプロンドレスの少女。


 漂うのはパンが焼ける匂い。ドアの向こうに居た時は何か違うものだった気がするけれど――きっと気のせいだ。

 どうやら頭はまだまだ寝ぼけているらしい。失敗してるぞ記憶の整理。


 彼女はこっちのリアクションにも機嫌よさげにしている。

「調子はどう? 疲れてない? 今朝はピザトーストにしてみたの」

「うん。調子は……」

いつも通り、だと思う。何か引っかかるけど、楽だと思う。

 が、答えはあくびでふわふわとした言葉になっただけだった。


「あー、また昨日夜更かししてたでしょ。ダメよ? 太陽に慣れないと」

 台所を通り越して洗面所へ向かおうとすると、いつもの小言が飛んできた。

「分かってる。昨夜はちょっとレポート残ってて――」

「まったく。お勉強もいいけど、身体、大事にしてよね?」

「うん……分かってる」

 そんな言葉を残して洗面所へ。


 顔を洗って。

 顔を上げて。

 

 鏡に映った自分に違和感を覚えた。

 

 ――あれ?

 俺は、こんな青い瞳だったっけ。

 僕は。こんな黒い髪だっけ。

 俺は。……こんな、顔だったっけ?

 

 いや。

 

 そもそも。■■は――誰だっけ。

 

「いや、いやいやいや……」

 タオルで顔を拭いて、鏡の自分と向かい合う。

 寝ぼけてるにも程がある。いつもと変わらない顔じゃないか。


 長くなってきた黒い髪。

 前髪から覗く、少し垂れた青い瞳。

 日に焼けにくい白い肌。


 ほら、いつもと変わらない。

 けど。さっきのなんだかもやっとした気持ちが、少しだけ形を持ったような気もした。

 目が霞む。水が入ったのか。

 もう一度顔を洗ってタオルで拭くと、鏡に映ったその姿が変化した。

 

 髪は灰色で。赤くて。黒くて。

 目は髪に隠れて見えなくて。青くて。深い茶色で。

 肌は不健康そうに青白く。日焼けとは縁遠い白さ――。


 ああ。頭がくらくらする。情報が頭の中でかき混ぜられる。

 誰かの生い立ち。知ってる場所、夢で見た家、煤の匂い。パンの香り。食堂のお弁当。友人。石畳。学校。教会の庭。星空。冴えた夜……。

 スライドのように現れては消え、視界をかすめて去っていく。


 それはとても。

 そう、とても、不快。

 不快で仕方なくて。

 思わず鏡を殴りつけた。

 

「――嗚呼。まったく滑稽だね」

 顔をあげると、鏡の中の自分が笑っていた。

 声も表情も、自分のものではない。

 拳は鏡越しに添えられた手に止められている。ヒビひとつ入っていない。

「……は?」

 困惑したまま瞬きをすると、鏡の中の自分は姿を変えた。


 灰色の髪の青年が居た。

 深い茶色の瞳にある感情は呆れ。哀れみ――いや、軽蔑だろうか。

 そんな感情を隠しもしない目を伏せ、彼はため息をつく。


「君。私の想いにあれだけ同調して啖呵を切っておいて。こうもあっさり閉じ込められるなんて。情けないとは思わないのかい?」

「……?」

「おっと。その表情。本当に忘れてしまっているようだね」


 忘れた? 何を。


 口に出さずとも、その疑問は彼に届くらしい。「何を、とは」と、呆れたような呟きが漏れた。

「本当に情けないな。一瞬でも様子を見ようと思った私が馬鹿だったのかもしれないな」

 はあ、と彼は小さく溜息をつく。

「覚えているはずだけどね。君は。私を。彼女を。君自身を――」

「何を……」

 彼が片目だけでこちらを見る。

「そうか……分からないか。ならばそれでも結構だ。私は忠告もしたし、二度と言うつもりも無いからね」


 彼の指先が、己の右目に触れる。

 自分の濡れた指も、同じように動いていた。


「やはり初志貫徹というのは大事だね。うん。さあ、目を閉じて」

 言われるままに瞼が重くなる。眠気に抗えないように、瞼が落ちそうになる。

「君は本当に油断しすぎた。私の言葉だけでなく己の言葉すら忘れるとは」


 瞼が落ちて、声だけが頭の中に響く。

 水に酔うような。涼しげだけれども、人を惑わす。自信を惑わすそんな声。

 立っていられない。


「もう思い出さなくていい。目も覚まさなくていい。万が一目を覚ましたとしても――もう君は、君じゃない」


 声が染み渡る。

 思わず床に座り込み、眩む意識に抵抗する。

 

 僕は。俺は。なんだっけ。


 霧と霞の街。

 誰も居ない離れ。


 不機嫌そうに新聞を読む横顔。

 タイを引かれて間近に見た恐怖。


 それは、それは――。

 

 ぐちゃぐちゃとした意識が、すうっと平らになっていく気がする。

 そのまま――。


「ねー。テオ。まさかそこで寝てるの? ごはんさめちゃうわよ?」

「――!」

 遠くから飛んできたその言葉で、僕の意識が一気に戻ってきた。


 そうそう。そうだよ。何を忘れてるのさ。

 ノイスと二人で日本に来て、長く暮らしてるというのに忘れるなんて。


「――わす、れる?」


 まだ、大切な何かを忘れてるような気がする。そっと、お腹に手を当てる。

 痛みも何もないけれど、そこに何かがあるような気がする。いや、何もない。ならば、一体何を……。


「もー。テオったら!」

 突然、場違いな声がひょこりと洗面所に顔を出した。

 さらっと流れる長い金髪。緑の瞳。薔薇色の頬。

 彼女は――。


 名前が、出てこなかった。

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