5:これ以上ないくらい安心できる気がして
「あれ?」
晩ご飯を作ろうと冷蔵庫を覗いた僕は、首を傾げた。
僕の記憶が確かなら。野菜、肉、魚、牛乳、卵。僕が買ってきた物がそのまま入っている。
それが何を示すか。なんて、考えるまでもない。
「しきちゃん、もしかして」
ごはんを食べずにいたのだろうか。そしてそれは、彼女の頷きによって肯定された。
「ボクは元々……ごはん、食べていませんでしたから」
それは「おはようございます」と同じ位、日常だと言わんばかりの声だった。
「しきちゃん」
「はい」
僕は彼女に背を向けたまま食材を取り出す。顔は上げない。
さっきまで見ることができたのは柿原が居たからか、寝起きで頭が回ってなかったからか。今はもう、彼女の顔を見る事はできなかった。
夕食の準備をする。
魚の下ごしらえをして、鍋に調味料を入れる。
「ご飯はね、ちゃんと食べないといけないよ。たとえ僕達の身体が食事を必要としなくても、心には必要だと思うんだ。
魚を鍋に並べる。火にかけながら独り言のように続ける。
「しきちゃんは僕……うちの座敷童だって、言ってくれたよね」
「はい」
「家に、幸運を運ぶと。言ってたね」
「……はい」
ちょっとだけ自信なさげなその声に、「それなら」と言葉を繋ぐ。
「僕は君に元気であって欲しい」
誰に向けた言葉なのだろう。そんな事をふと思う。
「この家を幸せにしたいなら、まずはしきちゃんが元気な事が条件。だから、僕が居なくてもちゃんとご飯は食べて」
そう、彼女が心身共に元気であってくれたら良い。これが僕の感情なのか、アイツの感情なのかは分からないけれども。
この言葉は本心でありたかった。
夢で笑ってた昔の友人が、何度言っても僕の世話を焼きに来ていた理由が、今更だけど分かった気がした。僕はどれだけ人を知らなかったのだろう。
今になって。この短期間で分かるなんて。これまで生きた長い長い時間をどれだけ無為にしてきたのかを思い知る。
ほら、ひとつを甘くみてはいけないよ。と嘲笑う言葉が聞こえた気がした。
久しぶりの夕食は穏やかだった。
会話はほとんどなかったけれど、ひとりで食べる外食よりも、夢の中の味気ない食事よりも、ずっとずっと充実していた。
食後の食器も片付けてしまうとやることはないけれど、僕もしきちゃんも、部屋には戻らず。二人揃ってソファに座り、ぼんやりとテレビを見ていた。
「お兄さん」
しきちゃんが、声だけで僕を呼ぶ。
「うん?」
僕も、声だけで答える。
二人ともテレビを見たまま。お互いを見ることなく、言葉だけを交わす。
「お外に居た間……ごはん。食べていましたか?」
「……うん」
「ちゃんと、眠れていましたか?」
「まあ……夢を見るから眠りは浅かったけど、それなりには、眠れてたかな」
しきちゃんは「そうですか」と小さく呟いて膝を抱えたようだった。
「お兄さん」
「うん?」
「ボクは、お兄さんにたくさん謝らなくてはいけません」
「しきちゃ――」
「でも」
彼女は珍しく、力強い声で僕の言葉を遮った。
思わず彼女の方へ視線を移す。
膝をぎゅっと抱えたまま。真っ直ぐ前を見て。彼女は言う。
「ボク。もう今回のことで、ごめんなさいと言いません」
「……」
「ボクは座敷童なんかじゃないって、そんなの嘘だって、体調が悪いのも、ボクの血を飲んだからだって。そう怒ってもいいです」
そんな事、言うつもりはない。
言うつもりはないけど、彼女はそんな反論も受け付けてくれなさそうなほど、真っ直ぐに前を見て。頑なに僕の方を見ることなく、言葉を続ける。
「お兄さんは、優しい人です。だから。ボクは、お兄さんの隣を離れません。できる限りの事をします」
「……」
「ボクは、座敷童は。家に幸せを運ぶ存在として在るはずです」
「うん」
「これまで居た家が、全部そうだったのかと言われると……そうでは。ないのですが……」
だけど、と彼女は少しだけ間を置いて呟いた。
「ボクは、この家の座敷童で在りたいです。だから、お兄さんが幸せになれる何かが来るよう、できることはやります」
彼女は少しだけ強い声でそう言った。
それから、ソファの上に正座をして。僕の方に指をついて。
あの日の。初めて会ったあの日のように。
深々と頭を下げた。
「ボクを、それまでここに居させてください。胸を張ってこの家の座敷童だって、言えるまで。お兄さんが、幸せになるまで。ボクは絶対に」
離れません。
その言葉に。
僕は。
無意識に、手を伸ばしていた。
「わ……」
小さな身体はいとも軽く抱き寄せられる。
彼女の顔はどうしても見れないから。
僕は彼女をしっかりと腕の中に閉じ込めた。
そこにあるのは、どうしようもない安心感だった。
見た目だけではなく、小さく頼りないその身体のどこに、それだけの力強さがあるのか分からない。
けれども、僕には見つけられなかった決意を確かに持っていて。
それがとても、とても胸に痛くて、心強かった。
「ごめん。謝るのは僕の方だ」
彼女を腕に埋めたまま、僕は呟く。
「何を、って言うと……八つ当たりだったりとか、辛い話聞いちゃったりとか……」
視線を落とすと、白い首筋が髪の隙間から見えた。
ぐ、っとわき上がる衝動を堪える。腕に食い込む爪が少し痛い。
「そう……血を、もらい過ぎちゃったことも。なんか、うん……」
たくさん。
腕の中で、彼女が小さく首を横に振った。
「お兄さんは、なんにも悪くありません。吸血鬼ならば、血が欲しいのは当たり前です」
それで辛い思いをさせてしまっていますが、と彼女は悲しげに呟いたけど、聞かなかったことにした。
「だからもう、謝らないでください」
「……うん」
それからしばらくして。僕ははっと我に返った。
「あ。えっと……!」
慌てて彼女を抱きしめていた腕を放す。
乱れた髪を、そっと。指先で少し整えてから距離を取る。
「その……うん。ごめ……じゃない。えーっと……」
苦しくなかったか。力を入れすぎてなかったか。というか、ずっと抱きしめていて。ごめん、とか。そんなのしか思い浮かばなくて。何と言えば良いのか分からなくて。ぎくしゃくとテレビの方へ向く。
「その、大丈夫? 苦しく……なかった?」
「はい、大丈夫、です」
「そっか……」
なんだか僕ひとり気まずい感じがする。
テレビではそんな僕の気も知らずに、今日のニュースや天気予報の画面をぱたぱたと切り替えている。
どうやら明日も晴れらしい。
特に何をする予定もないんだけど。ここしばらくは疲れすぎた。
まだ、彼女と一緒に居るのが楽かと言われると分からないけど。
明日になればまた、部屋に引き籠もってしまうかもしれないけど。
今なら。今のうちならば。
話せるような気がした。
彼女は話してくれたんだ。
僕も、話しておかなきゃいけない気がした。
「しきちゃん」
「……はい」
「少しだけ、僕の話をしてもいいかな」
昔話だし、うまく話せないけど。
そんな前置きに、彼女は「はい」と頷いてくれた。
柿原が言っていた言葉が、なんとなく思い出される。
昔の持ち物とか、思い出とか。
そういうのを大事にして、繋ぎ留めておく。
物はほとんど残っていない。思い出も経験も、明るく笑って共有できるような物は多くない。
けれど。
そんな過去でも、誰かに。しきちゃんに共有しておけば。
これ以上ないくらい安心できるんじゃないかって。
そんな事を思ってしまった。
ずっと僕ひとりで持ってたはずなのに、持ち続けることに不安を覚えて。
牙も爪も、すっかり丸くなったな、なんて自嘲もして。
「僕は、最初に話したとおり、吸血鬼で。イギリスで生まれた。日本に来たのは――」
そうして、僕は少しだけ、思い出話を始めた。
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