課題5:僕とボクの話

1:夕方のお客様

 お兄さんが部屋に入ってしまってから、三日が経ってしまいました。


 朝も、お昼も、夜も。ご飯も食べていません。きっとお水も飲んでいません。

 部屋からは物音もしません。

 誰も居ない。そんな感覚はありません。だから、お兄さんはちゃんと居ます。


 時々ドアの前に立って、こんこん、と叩いてみます。

 鍵がかかっているので入ることはできません。耳をドアに当てて中を伺います。返事はありません。もしかして、と最悪の状態もよぎりましたが、家の中の命が消える時はボクにも分かります。まだ、お兄さんは死んだりしていません。

 だから、ボクはずっと待っていました。

 

 帰ってきた時のお兄さんを思い出します。

 それより前から、いつもと違う様子でした。ずっと具合が悪そうでしたが、あの時は一層顔色が悪く見えました。

 今のボクに何ができるかは分かりません。

 ボクにできるのは、家の人の行動を良い事に繋げたり、良い物を呼び寄せたりする位です。家の人……お兄さんが動かない今は、この静かな部屋でこうして待つことしかできません。

 どれだけでも、待つつもりです。自の意志で力が使えないボクはとても無力だと思い知りながら、願うのです。それでも呼び寄せられる何かがやってくるのを、家の人が行動を起こすのを、待つのです。


 そして、今日もソファで膝を抱えて、後ろのドアが空くのを待っていると。

 

 ぴんぽーん

 

「!?」

 突然響いた音に、身体が小さく跳ねました。心臓がどきどきと音を立てています。胸に手を当てて、そっと音がした方を伺います。

 それは、チャイムの音でした。ボクがこの家に来てから、誰かが訪ねてきた事はほとんどありません。どなたでしょう。そっと足を床に着けて、玄関に向かいます。


 廊下の角から薄暗い玄関を覗いて、ドアの向こうを伺います。

 がさりと何かの音がしました。それからもう一度ぴんぽんとチャイムがなりました。

「……」

 お兄さんは「ドアを開ける時はちゃんと誰かを確認してね」と言っていました。外を確認する画面は台所にあります。急いで戻って光っているボタンを押すと、小さい画面に、兄さんと同じくらいの男の人が映りました。

 ざざ、っと小さな雑音に混じって、外の音も聞こえてきます。

「……留守か?」

「あ」

 思わず出てしまった声に気付いた男の人が画面を覗き込んできました。画面越しなのに、目が合いそうです。

「……須藤?」

「あ、あの」

「ん? 須藤じゃない……」

「あ、はい。その……」

 ボクがどう答えて良いのか分からずに居ると、その人は「あ、もしかして」とボクを指差しました。

「須藤の親戚の子?」

「は、はいっ。多分。そう、です」

 きっとお兄さんはボクの事をそう話しているのでしょう。

 姿が相手に見えていない事に気付かず、こくこくと頷きます。

「俺、あいつの同級生で柿原って言うんだ。見舞いに来たんだけど……」

「お見舞い、ですか」


 ふと、思いました。

 お兄さんが家に居なかった間、何をしていたかは分かりません。

 けれども、帰ってきてから倒れたことは誰も知らない……はずです。


 それなのにお見舞いだなんて。

 どういうことなのでしょう?


「とりあえず、須藤の顔だけ見たら帰ろうと思ってるんだけど……会える?」

「は、はい!」

 この人は大丈夫だ。直感ですが、そんな気がして。思わず頷いてしまいました。


 少々お待ちください、と台所から玄関へ移動して、鍵を開けます。

 外はもう夕方でした。

 お昼の抜けるような空は、夕焼けが混じってゆらゆらした色になっていました。


 黒い髪に身軽な服装をした柿原さんは、ボクを見て少し不思議そうな顔をしましたが、すぐに笑顔で「はじめまして」と挨拶をしてくれました。

「は、はい。初めまして……」

「君が須藤の親戚の子か」

 親戚の子。さっきもそう言っていました。

 こくん、と頷くと。そっか、とその人――柿原さんも頷きます。

「前にあいつが、親戚の子とケンカしちゃってどうしよう、って困ってる話を聞いててさ。仲直りできた?」

「……けんか……」

 ケンカをしたことはありません。けれども、お兄さんを困らせてしまったのは……きっと、ボクが血を吸われた時の事でしょう。

 はい、と頷くと「そっか。良かった良かった」と大きな手で頭を撫でられました。


 ふと。お兄さんに頭を撫でられた時の事を思い出しました。

 全体的に力を制限しているというお兄さんの手は、優しく髪を梳くような感じでした。

 柿原さんの手はは強くて暖かく、お兄さんの細くてひんやりとした手とは違います。

 パソコンを使ってたり料理をしてる手を思い出してみると、柿原さんの方が指にも力強さがあるように見えました。


 お兄さんに撫でられたのは、もう随分と前のような気がして。

 ――また、撫でてもらえるでしょうか。

 ちょっとだけ、そんな事を思いました。でも、ちょっとだけです。どうしてかは分かりません。


「あ。もしかして触られるの嫌いだった……!?」

 何も言わないボクに、柿原さんは慌てた様子で尋ねてきます。

「えっ。いえ。……えっと、ごめんなさい。あの、慣れていなくて」

 ボクがふるりと首を横に振ると、柿原さんは「そっかあー」と安心したように笑いました。からっとした笑顔に、ボクの気持ちも少しだけ落ち着いた気がしました。

「もし、触られたりとか嫌だったらきっぱり断らないとダメだからなー。須藤にもその辺は……」

 と、柿原さんの言葉が止まりました。


「あ。そうだ須藤は」

「そうです、お兄さんが!」


 二人の声が同時に上がります。この後は何となく分かります。ぴたりと止まって、お互いの言葉を待つのです。

 この沈黙はボクが破っていい物か今でもよく分かりません。でも、このまま二人で止まっていては何も進みません。


「ええと……柿原さん」

 そっと柿原さんに話を差し出すと「ああ。うん」と頷いてくれました。

「須藤が何日も学校来ないから気になってさ。確かに朝は弱い奴だけど学校を連絡も無しにサボるなんてなかったから」

「お兄さん、お勉強好きですから」

「だよなあ。学校でもパソコン室とか図書室とかばっかでさ……」


 外に居るお兄さんは、ボクが家で見ているお兄さんとあまり変わらないようでした。

 テーブルの上に置きっぱなしになっている分厚い本は、お兄さんが時々難しそうな顔をして読んでいた物です。部屋にはたくさんの本やパソコンもあります。


 お兄さんの部屋。

 ちらりと部屋の奥を見ます。リビングにあるドアは全て閉まっています。奥がお兄さんの部屋。手前がボクの部屋です。

 奥の部屋は今、物音一つしません。お兄さんは居るはずなのに、誰も居ないみたいに静かです。


「それで」

「!」


 リビングを見ていたボクは、不意にかけられた柿原さんの言葉で反射的に背筋をぴっと伸ばしました。

「あ。ごめん、なさい」

「気にしないで気にしないで。……で、須藤の顔だけでも見ておきたいんだけど」

 この人を家に上げてもいいものか、少し考えます。


 柿原さんがお兄さんを心配する様子に、嘘はなさそうです。悪い人でもないと思います。

 それに、もしかしたら。

 もしかしたら、あのドアを開けてくれるかもしれません。

 なんとなくですが、そんな気がしました。


「その。お兄さんは、最近具合が悪そうで……」

「やっぱりバテたか」

 仕方ねえな、と柿原さんはため息を付きました。でも、そこに嫌な感じはありません。ちょっとだけ安心しました。

「だから。もしかしたら寝ているかもしれませんが……」

「ん。良い良い。出てこなかったらこれだけ置いて帰るよ」

 そう言って、さっきからがさがさと音を立てているビニール袋を掲げて柿原さんは笑いました。

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