2:無理に話せとは言わないけど

「こちら、です」

 お兄さんの部屋のドアを教えると、柿原さんはそこに立ってドアをまじまじとみていました。ノブに手をかけますが、鍵がかかっていて動きません。

「……ちっ。おーい。須藤ー? 生きてるかー?」


 ドアの向こうのお兄さんに問いかけます。返事はありません。


「こりゃ本格的にダウンしてるか……? 苦手なのは分かるけど、やっぱ日に当たらなさすぎなんだよな。夜型人間め」

 ぶつぶつと聞こえる言葉は、文句のようでいてやっぱり心配なのだとよく分かります。良いお友達なんだと、なんだか嬉しくなります。

 今の言葉に少し気になる事もあるのですが、それを気にしている場合ではありません。

「須藤ー。授業のノートコピー持ってきたぞ」


 こんこんこん、とノック。もちろん返事はありません。


「んー……静かだな」

 ごんごん、とさっきより強めの音で叩きます。

「あ、あの。お兄さんはこの間帰ってきてから、ずっとそうで……」

「えー引きこもってんの? 確かに具合悪そうだったけど……」

 ううむ、と柿原さんはドアに向かってぶつぶつ言っています。そして突然。

「おいこら須藤! 具合悪くても良いからさっさと起きて、顔出せ!」

 さっきよりも更に力強く、どんどんとドアを叩きだしました。このまま力が強くなっていけば、ドアが壊れてしまうかもしれません。

「か、かきはらさ……」


 かちゃり。


「お?」

 ボクが止めに入ろうとした時、小さな音がして。

 叩くのを止めた柿原さんの前で、ドアが少し開きました。


 薄暗い、電気もついていない部屋。そこから光るような青い目が見えました。

 綺麗な青い目は、ボクを見てぱちぱちと瞬き。それから辿る様に上を見て――ドアがぱたんと閉じました。


「あっ」

 柿原さんが声を上げてドアノブに手をかけるのとどちらが早かったでしょうか。すぐにドアが開きました。

 お兄さんはとても疲れた顔で、柿原さんをじっと見ています。

「……柿原、なんで……居るの……」

「いや、連絡もなく学校来ないとか心配で?」

 柿原さんはちょこんと首を傾げて、手にしていた袋をお兄さんに突きつけました。反対の手はしっかりとドアノブを握っていて、受け取るまで離さないつもりのようです。

「ほら、とりあえずこの栄養ドリンクとスポーツドリンクを飲め。そして講義のノートコピーをありがたく思え。試験も近いぞ」

 目の前にぶら下がる白い袋、胸を張った柿原さんの顔。それからボクを見て。お兄さんは大きく息をつきました。それから白い袋をがさりと受け取って。

「はい。ありがとう……」

 疲れたような声でお礼を言ったお兄さんの視線が「それと」と、ボクの方を向きました。

「?」

 なんだろうと思っていると、お兄さんの頭がふらりと揺れました。

「!」

 一瞬倒れたのかと思いましたが、そうじゃありませんでした。お兄さんの目とボクの目の高さが揃います。

 久しぶりに見た気がするお兄さんの青い目は、少し陰って寂しそうな色をしていました。


「ごめんね。後で、改めて謝るから」

 それは、とても悲しそうな声でした。


 そんな、お兄さんが後悔するような事なんてありません。

 ボクは、この家を幸せにするのが役割なのです。お兄さんの顔を曇らせるような事、あってはいけません。

「え、と。あの。ボク……」

 どう答えたら良いのか分からなくなったボクの頭に、ぽん、と大きな手が乗せられました。柿原さんの手です。その手に視線を向けたお兄さんが、眉を寄せた気がしました。

 柿原さんは気付いていないのでしょう。はあ、と溜息をついてお兄さんに言い放ちます。

「須藤ったらこんな小さい子を困らせてたの? ダメな男め」


 □ ■ □

 

 柿原をとりあえずソファに座らせ、服を着替えてリビングに戻る。

 お茶を淹れようと台所に向かうと。

「ボクが、やります」

 しきちゃんに制されてしまった。

「お兄さん、体調が良くないのですから。座っていてください」

「……うん」

 素直に頷いてソファに向かうと、柿原は勝手知ったる様子で、しっかりくつろいでいた。


 しゅんしゅんとお湯が沸く音がする。

 とてもとても長い夢から覚めたこの部屋は、思った以上に居心地が良かった。


 お茶を待つ間に、ノートのコピーが詰まったクリアファイルを指で軽く捲る。

 その日付に僕は頭がくらくらして、思わずがっくりと肩を落とした。

 ノートの日付は水曜から金曜までが記されていた。シャーペンの画一的な線でも分かる、そこそこ整った字が嫌でも目についた。

「今、何曜日……?」

「曜日感覚も失せてるとは相当だな。今日は金曜だぞ」

「えー……もう週末とか……何日経ってんの……」

 耳に届く自分の声は、やはりというかなんと言うか。酷く疲れていた。

「知らないけど、欠席は三日目だ」

「分かってるようるさい」

 えー、と文句をあげる柿原の文句は無視して、本題を切り出す。

「それで?」

「うん?」

「僕が数日学校に来なかったからって、なんで家まで来たの?」


 単に心配なだけならメールや電話でも寄越せば良いだけだ。着替た時にチェックした携帯にはそんな履歴ひとつも残っていなかった。

 試験もレポートも、近いとはいえもう少し先。講義の一コマ程度なら欠席でも問題ない。ノートなら学校に来た時でも良かったはずだ。


 なのにわざわざこいつは「講義のノート」を口実に家までやってきたのか。


 僕の問いの裏を柿原はしっかり読んでくれたらしい。彼は「そりゃあさ」とソファの背に埋まりながら答えた。

「お前ずっと具合悪そうだったから、心配だったのと」

「うん……」

「お前を起こしにいかなきゃいけないっていう使命感に目覚めたのと」

「ええ……」

「あとは、勘だな」

「勘……?」

 そう、と柿原がにやりと歯を見せて笑う。

 

「無理に話せとは言わないけどさ。お前が何か誤魔化してる事に気付けない程鈍くないって言うのは覚えておけ?」

 

「――っ!?」

 思わず言葉が詰まった。


 にやりと笑う彼のその指は、唇の端ををこつこつと示していた。

 その動きが何を示すかなんて問いはしない。


 そこにあるのは犬歯。僕の牙。

 普段は少し鋭い犬歯程度にしか見えないそれの意味を示す指。


「覚えてた?」

「……覚えてる」


 思わず溜息をつく。一体僕は、いつどこで何をしくじったのだろう。


「で。正直聞きたくないけど……“正体それ”はいつから?」

「んー、半年くらい前? まあ、今はそんな話置いとこうぜ」

「そうだね。そこは後でじっくりと話してもらうとして」

 どうして気付かれたのかは僕にとって死活問題のような気がするが、彼の言う通り、今はそれがメインではない。


 きっと彼は気付いているんだ。他にも色々。

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