3:座敷童を作る家

 そこには、青年がひとり立っていた。

 白い木綿のシャツに黒いズボンというシンプルな服装。

 姿も声にも覚えはない。

 穏やかな茶色の眼はこの空間――家によく似合う。


 ひとつ引っかかるものがあるとすれば、短く整えられた灰色の髪。

 部屋の暗さも相まって曇天のようにも見えるけど。その色には覚えがあるような気がした。


 そんな彼は僕に向けて緩やかに「やあ」と微笑む。


「はじめまして、と言った方が良いだろうか」

「言った方が、も何も。僕はあなたを知らないんですが……」

 僕の言葉に、彼は気を悪くした様子もなく「そうだね」とくすくす笑った。

「私の名前は……まあ良いや、知らなくても困らないから」

「いや、困らないって言われても……」

「ああ。困らないさ。だって私はいずれ君になるのだからね」

 ええと、とわずかに思考を巡らすような仕草を見せる。

 それもすぐに消え。

「……ウィリアム君? それとも須藤君、と呼んだ方が良いのかな?」

 穏やかに微笑んだまま僕の名を呼んだ。


 後者は兎も角、前者は聞き逃せないものだった。


「何でその名前を……!」

 思わず声を上げる。が、彼の表情は変わらない。

「何故と問われてもだね。んー……そうだな。君が私になるための準備が進んでいる証拠、とでも言えば良いのだろうか」

「は……?」


 ぞわ、と胸がざわついた。

 けど、その正体が分からない。


 そんな僕の前に、彼はしゃがみ込んで視線を合わせる。

「君は感じたことないかい? 私の声。存在。感情――どれでも良いさ。私の欠片は」

 とん、と彼の指が僕の胸を軽く指す。


「もう此処にあるのだよ」


 彼の笑顔が、変わった。

 穏やかさがどろりと落ちて、指先から僕に染み込んでくる。表情が一緒に溶けて分からなくなる。

 泥でぺったりと作った仮面のようだ。

 くすくすと笑う声に、背中がぞくりと冷えた。

 

 それで僕は、ようやく――やっと、気付いた。


 その声。存在。感情。夢の中。

 目の前の青年が、鏡で見たあの眼の主である事。夢に現れては僕の姿を真似て囁いてくる正体である事。


 胸騒ぎ。歓喜。哀しみ。色んなものがないまぜになったようで気持ちが悪い。


「彼女はね。私の宝物と言っても過言ではない。ずっとずっと、私は彼女と共に在った」

 でも、と彼は眩む声で言う。

「共に在るには、彼女の身体は小さすぎる。私の存在は薄すぎる。だから、いつかは消えてしまうと思っていた」

「なら……どうして大人しく消えないのさ」

 重くなってきた身体で、僕は問う。彼は「そうだね」と自嘲気味な声で答えた。

「彼女の一部となって消えてしまうならば、それも良いと思っていたのだけれど」

 

 未練かな。 

 と、彼は読めない表情でぽつりと言った。


「未練……だって?」

「ああ。そうだね。未練だ。消えるという辛い別れを惜しんだのさ。そうしてささやかに足掻き続けた結果が今だ」

「……」

「まさか吸血鬼の身体が手に入るなんて思ってもみなかった。彼女を拾ってくれた事、礼を言わなくてはならないね」

 だから、と彼は笑った。気がした。

「礼と言っては何だけども、君にも見せよう」

「何、を」

「なに、そんなに身構える事はないよ。私が君の過去を見たように、今度は君に私の過去を見せてあげるだけさ」

 ほら。ゆっくりお休みよ。

 そんな声が聞こえるより先に、僕の胸にずしりと染み込み、根を張った何かが僕の身体と意識を奪っていった。

 

 □ ■ □

 

 水に突き落とされ、沈むような感覚。

 息苦しい。空気を求めて口を開ければ、ごぼりと黒い何かが口の中に入ってくる。それは僕の意識を、呼吸を、僕自身を奪っていく。

 浮かぶ事も叶わずに、僕はただただ、沈んでいく。


 そして気付けば僕は――私は、小さな部屋で布団に横になっていた。


 十の半ばを幾つか超えた身体は熱っぽい。

 寝巻きと髪は汗に湿っていて不快だ。寝返りを打つ事すら怠くて、溜息すら付けない。

 ただ。ああ、朝が来たのだと布団の中で思う。

 布団の外に感じるのは、嫌悪感だろうか。此処から出たくはない。


 私はこの家が好きではない。

 時間が止まればいいのに、朝など来なければ良いのにと心の底に何かが澱む。


 起き上がるにも体力を使う。なんとか身を起こしても呼吸が整わない。

 そういえば先日熱が出たばかりだったと思い出した。


 身体が弱いと言われた私は、兄や弟とは異なり幼い頃から離れでひとりだった。

 家族と顔を合わせるのは週に数回。食事も私はひとりで取っていた。

 昔はよく抜け出しては怒られたものだが、いつしかそのような体力もなくなってしまった。


 そう。昔はまだ身体も弱くはなかった。


 いつからかは忘れたけれども、熱や発疹で苦しんできた。

 吐き下し、魘され、何日も生死の境を彷徨ったりもした。

 それは全て、私の身体が弱いからだと思っていた。

 食事を受け付けない身体なのかもしれないと、次第に食事の量が減っていった。

 だが、食事を残すと家の誰かが心配したように飛んできて、無理に食べさせる。

 そして苦しみ、食事を拒否し、心配される。


 それが嫌で、裏庭に現れる野良猫に食事を与えて誤魔化した。

 しばらくすると猫は来なくなった。

 次は小鳥に。

 鯉に。


 ……。


 それらは全て、いつの間にか居なくなっていた。

 

 身の回りに生き物が居なくなってようやく、自分が食事に毒を盛られ続けていたのではないかと気付いた。

 どうもそれは不定期のようだったが、そうなると物を食事も苦痛になる。食べなければ体力などつかないのに、食べれば体力を、命を削る。

 繰り返した結果は此処にある。


 息が整ったところで、ようやく布団を抜け出す。この身体に朝の冷えた空気は堪える。上着を羽織り、廊下に用意してある食事を取りに行く。

 膳を手に部屋へ戻る。匂いをかぎ、色を見て、食べていいものかどうか一度思案する。

 思案せども、弱った体は栄養を欲している。空いた腹は食事を求めている。

 仕方なく箸をつける。


 こうして一人で食事をしていると、ふと疑問が去来する事がある。

 私はなぜ一人でここに居るのだろうか? じわじわと殺されようとしているのだろうか?


 いつからそんな疑問を抱いたのかは覚えていないが。その理由については自分なりにあれこれ考えていた。

 不要な存在なら物心つく前に殺してしまえばいいだけだ。なのに、私をここまで育てた上で、弱らせて殺そうとしたことには何か理由があるはずだ。


 心当たりがあるとすれば。

 兄と弟。父に母。誰とも似ていない灰色の髪のせいではないだろうか。

 そこに、私を外へ出せない何かがあるのではないだろうか。


 外から聞こえる笑い声を耳にし、――家族と呼べるかどうか分からないが――彼らの姿を思い出し、こうしてひとりで過ごしている時。訳もなく思い出す。

 父も母も。祖父も。小さい頃に亡くなった祖母も。皆が私を腫れ物のように扱っているようだった事を。


 私はどうして、ここにひとりで居るのだろう。

 誰かに聞こうとはしなかった。その発想がなかった。

 

「……今日は何をしようかな」

 ずっと住んでいる狭い家だ。もう探検をして回ることもなくなった。

 まだ難しい本も多いが、古い本でも読もうかと書棚の前に立つ。何度も読んできたもの、誰かが残したもの。最近手に入れたもの。多くは既に読み尽くした。ならば少々難しいかもしれないが昔の物でも……と、しゃがんで書棚の隅を覗き込む。

「うん?」


 本の奥。押し込まれたように隠れている一冊を見つけた。


 前を塞ぐ本をどかして取り出してみる。

 いつの物かは分からない。ぱらぱらとめくってみる。誰かの日記のようだった。所々滲んだり貼り付いたり、紙が古くて読めない部分もあったが、幸いにも虫は食っていない。

 そのままぺらりとページをめくり、読んでいく。


 この日記を書いたのは女性らしい。筆跡の柔らかさが彼女の人となりを伝える。

 日付は飛び飛びで、思い出した時か、節目の日に書いているようだった。


 読んでいて分かるのは、その人に子供が居た事。子供を幼くして亡くした事。

 表向きは幼い頃から病に弱く、身体が耐えられなかったとあるが、実際は家に座敷童を住まわせる為の人柱であった事。

 腹を痛めて生んだ子供なのに、家の主に逆らえず、育てる事が出来なくて申し訳ない。許されるならもう一目でいい、夢でもいいから会いたい。会って、抱きしめて、謝りたい。

 そんな、悲しみと後悔に満ちた内容だった。


 子供の名前はカノ。

 柔らかく香るような名の、灰髪の女の子だとあった。

 

 同じ髪を持つという少女に覚えたのは淡い淡い親近感だった。

「もしかして……」

 頁を捲っていた指で、自分の髪をそっとつまむ。

 曇天のような灰色の髪。

 この日記に書かれている座敷童の少女と同じ色かは分からないが。私も同じ道を辿ろうとしているのではないだろうか。

 私が殺されそうだというのは知っていた。けれども。その先に何が待っていたのかには気付いていなかった。


 この日記で、ようやく繋がった気がした。

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