4:この家を断ち切ろうと思って
ある夜。私は寝苦しさに目を覚ました。
体が重い。熱い。
布団をどかしても熱は冷めない。
風に当たれば少しはマシだろうか。と、靴を履いて外に出た。
夜風が頬に冷たい。月影はない。星だけが綺麗に瞬いている。
「まだ……朝も遠いか」
最近は眠ることすら身体への負担へとなっていた。起きていた方がいいのか寝たほうがいいのかも分からない。
私は、このままじわじわと死ぬのだろう。
細っていく月のように。いつかは夜空に溶けてしまうのだろう。
いや。月はまた日が巡れば姿を現す。
私は死ねばそれまでだ。
いや、座敷童として生きられるのだろうか?
そのような不確定なものに。
「……振り回されたくは、ない」
ふと、そう思った。
そうだ。逃げよう。
この家を断ち切って、出て行こう。
そう決めた私は。
そっと庭を後にして、母屋へと向かった。
□ ■ □
土間は静かだった。誰も居ない。火の気配もない。
置いてあった果物や日持ちする食事をいくつか袋に放り込んでいると、片隅にある祀り棚が視界に入った。
ふと、座敷童の少女の事が気に掛かった。
彼女は。ずっとここに在り続けるのだろうか。
私がその役目を放棄しても。
いや、放棄しなくても。
この家に縛り付けられ続るのではないだろうか。
この家がどうなっても構わない。
けれどもせめて。
せめて彼女だけはどうにかしてあげたい。
そんな気持ちが胸の底で熱を持った。
そうだ。
ならば。この家の血を絶やしてしまおう。
家が無くなれば。此処に縛られる理由は無い。
流しに置いてあった包丁を、そっと手に取ってみた。
ずしりと重いそれは、差し込む夜を鈍く反射する。
大丈夫。不安はなかった。
この家の誰もが居なくなれば。
きっと。
彼女を自由にできる。
□ ■ □
包丁を手にした私の行動は早かった。
寝息を立てる父と母。
まずは続けざまに喉を突いてやった。二人の悲鳴が喉をすり抜けていく。布団も枕も黒くなっていく。夜に慣れた目でも赤くは見えない。
何か言っているが、喉から溢れる血を泡立てもがくだけだ。このまま放っておいては可哀想だ。首も一緒に切ってやった。息が上がる。向き合うようにこと切れた二人の目はかっと見開いている。目の前の存在が恐ろしいからだろうか。いやいや、夫婦なのにそれは良くない。口元を整え、目蓋を閉じてやる。ついでに手も繋がせておいた。これで二人は黒く染まった布団でも仲良くできるだろう。
続く部屋は兄。まだ起きていたらしい。小さな明かりを灯して文机に向かう背中。物音に振り返り、私の姿に言葉を失ったようだった。何か言っているが、私には何ひとつ言葉として届かなかった。ただ体当たりをするように腹を刺した。刃を捻ると、私のズボンに温かな兄の腸が落ちる。
ああ、中身を零してしまうなど行儀が悪い。腹を出して風邪をひいてしまうのも良くない。
息も絶え絶えな彼をそのまま押し倒し、血に濡れたシャツを捲る。落ちた臓腑を丁寧に押し込んでやる。シャツを戻し、破れた部分には本を広げて置いてやった。立ち上がって見下ろすと、なんだか読書中の転寝に見えた。ならば布団は要らないだろう。その呼吸が止まった事を見届けて部屋を後にする。
弟は物音を聞きつけて目を覚ましていたらしい。廊下で震えていた。
私よりも二つか三つ小さな彼は、声も出せず腰もすっかり抜けていた。私の方がずっと身体も弱いはずなのに、とても小さく見えた。
そんなに怖いのならば、一気に。楽に送ってやろう。大丈夫と言い聞かせるように肩を抱き、一思いに背中を突く。骨が邪魔だったが、どうにかして捻り込む。家を震わすような叫び声を抱き留める。
起きているのは私と君の二人だけだと教えるが、答えは無かった。
抱きつくように崩れた身体を横たわらせ、首を横から突く。骨に当たったのか包丁が嫌な音を立てた。刃先が毀れたが仕方ない。十分保ってくれた方だと思う。
暫く虚ろな目をしていた弟の呼吸も細くなってきた。こんな廊下で逝くのは浮かばれないだろう。なんとか運んで兄の隣に寝かせてやった。兄同様本を持たせてやろうと思ったが、適当な物が無かった。
部屋を後にする。
夜は静かで静謐そのものであった。
私の心は何とも言いようのない晴れやかな色をしていた。
そうして戻ってきた土間に、見知らぬ子供を見た。
幼い女の子だ。上等な仕立ての赤い着物。背中まで伸びる長い髪は灰色。それを大きなリボンでまとめている。
頬をぽろぽろと転がる雫が見て取れた。
泣いている。
私に背を向けた彼女から、目が離せなかった。
私に気付いた彼女は、その涙を拭う事もなくこちらを振り向く。
涙を湛えた茶色の瞳が、私の姿を映した。
胸がずきりと痛んだような気がしたが、それよりも、彼女があの日記にあった子だという確信と、やっと会うことができたという想いが勝る。
灰色の髪は私以外に居ない。幼い女の子などこの家には居ない。
居るとするならば、あの日記にあった娘――柔らかく香る名を持つ座敷童だ。
「お兄、さん……」
彼女は小さな唇を開いて私をそう呼んだ。返事をするより先に、私の元へと近付き、包丁を持つ手にそっと触れてきた。
ひやりともしない。ぬくもりもない。
触れられた事も分からないが、彼女の小さな手は確かに私の手の上にあった。
「お兄さんが、この家を……壊してしまったのですか?」
「壊した?」
問い返すと彼女はこくりと頷いた。
私を見上げる大きな瞳から、また、雫がこぼれ落ちる。
「ボク……、ボクは、この家を」
言葉と視線が、涙を追うように足元へと落ちる。
「ああ、守らなくてはならないのだね」
彼女の肩が、揺れた。それから、こくりと頷いたのか髪が揺れた。
「すまないね。確かに壊してしまった。でも、君はもうこの家の座敷童などという役割は捨てても良いんだよ」
天井を見上げると、夜空以上に淀んだ闇が見えた。
嗚呼。彼女はこんな家に居たのだ。解放してあげなくてはならない。
きっと、これが私に出来る唯一の事だ。
「私は。君に聞きたかった事がある」
彼女は泣き腫らした目のまま私を見上げる。
潤むその目は、とても綺麗で。
できる事ならばその中に私を閉じ込めてしまいたくなった。
そのような事出来る訳無いと嘲笑し、思い直す。
そして、ひとつ。疑問を彼女に落とした。
「――この家は、良い家だと思うかい?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます