課題4:僕と**の夢

1:懐かしき霧の街と溜息

 ゆっくりと浮かび上がるように目を覚ました。

 そこは僕の部屋のように見えた。

 いや。見えただけだ。

 寝ぼけた頭は一瞬騙されたが、その部屋を満たす匂いの違いは逃さなかった。

 

 霧。油と煤。それから血の匂い。

 

 部屋に満ちているそれはとても懐かしい。

 けれどもできる事ならば思い出したくなかった街の景色を告げる。


 名はロンドン。

 彼の地が嫌いな訳ではない。今でも大切な僕の一部だ。


 ただ――しかし、でもいい。あの頃の僕は、正直頭を抱えたくなるような荒れ具合だった。いわゆる黒歴史だ。

 当時は太陽の光なんて嫌いだった。ただただ眩しくて、息苦しくて、邪魔で、居心地の悪くなるようなちくちくとした感覚が嫌だった。

 そんな僕にとって、この街は大変に居心地が良かった。蒸気と霧で覆われた街に届く太陽は、弱々しくて過ごしやすかった。


 そんな街角で僕は特に何をするでもなく、新しい技術だの、労働問題だの、日々の新聞や人々の話を聞き集めてぼんやりと過ごしていた。

 僕はこれまでの長い時間と、これからの長い長い時間の使い方を考えては、その先の見えなさにがっくりする夜を過ごしていた。


 本当、当時の僕に何か言えるなら「馬鹿者」と言いたい。

 まだまだ僕が世界を知らない、知ろうとする事すらしなかった。あの頃……いや、もっと昔から外の世界に興味を持っていれば。もう少し世界は明るく見えていたかもしれないと思うと、余計にだ。

 ……ああ、やだやだ。思い出すのやめよう。


 頭を掻いて現実を見ようと試みる。そして自分の服に気付く。

 指が髪に触れるより先に腕を下ろして手首を捻る。視線を落とす。

 袖口のカフス。そのままなぞるように、白いシャツ。髪色によく似た色のタイ。黒のベストと揃いのズボン。


「うっわあ……勘弁して欲しい」

 思わずそんな声が漏れた。


 抱えた頭から手を離すと、指先に伸びた髪が絡まってついてきた。予想が確信に変化する。何度か指に引っ掛けてその髪をといてやりながら、状況を把握する。


 これは夢だ。それはきっと正解。そして僕は今、とても苦い顔をしている。

 ここは僕の部屋だ。ただ、僕が閉じこもったあの部屋ではない。とても良く似た別の場所。

 現実の僕は、きっと床で寝こけているのだろう。


 違うのは僕の姿。

 顔は分からないけれども、そう変わりはないはず。見た限りでは当時よく着ていた服。


「部屋の中は変わりない……か」

 ベッド。本棚。床敷に机。少し片付いているような気がする、程度の違和感。特に妙な所はない。ただ一カ所。閉め切ったカーテンからは、夜明けとも夕暮れとも違う薄暗さが漏れていた。

 少しだけ躊躇って、一気に開ける。

 窓の向こうから飛び込んできた景色は静かな住宅地ではなかった。


 薄暗くて霧と蒸気が立ちこめる石造りの街。

 薄暗い空と見覚えのある石畳は、とても懐かしい。


 そう。僕はこの町でひっそりと毎日……毎晩を過ごしていた。

 当時の空気を感じた瞬間、頭が眩んだ。途端に感覚が、視界が、過去へと引きずられていく。水に落としたインクのように、僕は深い過去へと落ちていく。

 意識も。感覚も。記憶も。


 ――。


「またか……」

 薄暗くなってきた窓の外に背を向け、新聞を眺めながら僕は溜息をついた。新

 聞の見出しには、新たな死体を知らせるニュースがでかでかと載っていた。

「そう言うニュースは多いけど最近は頓に物騒だねえ」

 はい、と切り分けたパンをテーブルに置きながら背の高い影が笑う。背中で束ねた黒い髪が揺れている。

「んー……にしてもこれはなんというか。惨いよなあ」

「それは君の言えた台詞じゃないよ、ウィル」

 その言葉にむむ、と言葉が詰まる。全く正論すぎて言葉もない。

「僕は……生活のためなんだよ」

「うん。生活のためね」

「そうだよ。だいたい、君こそ僕の話聞いてる? こんな物騒な時に、夜の街を躊躇いなく歩くなって言ってんの」

 分かってる? とたたみ掛けるように視線を向けても、影は笑うばかりだ。

「あはは、そうだね。気をつけるよ」

 本当に分かってるのかとため息が出た。


 今、僕が住んでいる街では、一つの事件が世間を騒がせている。

 週末。月末。あるいはその近辺になると、無残に斬り裂かれた遺体が見つかる。


 犯人は分からない。というか、これだけ被害者が見つかっているというのに進展がない所を見るに、警察はうまく動けていないのだろう。

 もしかしたら、死体や殺人があまりに日常的すぎた挙げ句、事件を追うほどの興味がないのかもしれない。医療関係者だなんだのと、様々な人物が噂に挙がるから迂闊に手が出せないのかもしれない。

 挑発的な手紙や書き残しも、いたずらに紛れて相手にされてないのだろう。

 

 新聞を畳んでテーブルに放り投げる。食べたパンは口の中でまだパサパサと存在感を主張する。それを流すべく口にしたコーヒーは濃く苦い。

「……」

 思わず舌打ちする。気分転換になるものがない。外に出ても、煙と炭の匂いがつきまとう。闇は煤と血が混ざり合い、どろどろとしていて肌に気持ち悪い。


 僕はこんな街に嫌気が差し始めていた。

 最新鋭の技術だとか、労働問題だとか、格差だとか。華やかな発展の影にあった問題が取り上げられ、人々に織り積もっていた薄暗さを浮かび上がらせていく。

 闇夜に紛れた事件だって、そんな世の中や世界に対して積もっていく鬱憤を晴らす為の物だとしか思えない。起きて当たり前だ。

 こんなにも居心地の悪い世界、それがストレスになっているのか「喉が渇く」日がとても多い。

 僕もある意味この街にお似合いなのかもしれない。


 だらだらと外へ出る準備をしながら溜息をつくと、影が声をかけてきた。

「あれ。今夜も出掛けるの?」

「ああ。君は気にせず帰って寝てくれ」

 分かったよ、という声がコートを羽織る音に重なる。

 それ以上何も言わず、僕は外へ出た。

 

 息が白い。そろそろ冬だ。

 澄み渡る空、とはいかない。空は煙に覆われて星はよく見えない。


なんだかんだ文句を言っても、事件が良い隠れ蓑になっている、と言う点では犯人に感謝しなくてはいけないのかもしれない。

 僕は週に二、三度というかつてない頻度で夜を適当に歩き、誰かを見つけては血を得ていた。バレてはいないはずだ。

 たとえ僕の知らない所で話題になっていたとしても、事件で霞んでしまっている。問題ない。


「随分と……寒くなってきたな」

 着込んだコートの前を合わせ、僕はいつものように夜の街を歩いていた。

 夜も随分と深まっていた。事件の影響もあるのだろう。喧騒も人の気配も薄い。

 血なまぐさい事件が起きているとはいえ、僕は夜の眷属だ。ちょっとやそっとじゃ死なない、命の王の一員だ。人間など怖いはずはなかった。


 だから、何の警戒もなしに街をうろつく僕は、耳にしてしまった。

 そして、足を止めてしまった。

 僕の耳に僅かに届いた、掠れた悲鳴と、喉が思わず鳴るように香る血の匂いに。


 僕の何かがやめておけと制するが、そんなの知ったことかと振り切る。匂いに惹かれるまま、路地を、影を一足飛びに駆けてその場所へと向かった。


 訳もなく取る食事は味気なく、日々は単調。

 世間は物騒で、苛々する。僕が奪ってきた血液は欲を満たすには足りなかった。

 僕だって疑われるような事はしたくないけれども。結局は飢えているのだ。

 浴びるほど、血を飲みたかったのだ。自分の服が、身体が、汚れることなんてお構いなしに、血を飲む理由。


 ――夜を騒がす殺人鬼の成敗。

 僕はこれを欲していたのだろう。


 正義の名の下に? 街の平和のために? そんなの知らないけど、消えてもいいやつなら遠慮はいらないだろう、なんて。

 言い訳のような理由を手にしていたかったのだろう。


 そうして現場に遭遇した僕は、振り返った影の表情が固まったのを見た。

 膝をついて、息も絶え絶えで空を見ている女性。喉を深く切り裂いたナイフを握りしめてこっちを凝視する影。その眼に映る、その目に映った僕は。

 

 一体どんな顔をしていただろう?

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