幕間:彼に会うために必要なことは

 夜遅い街は相変わらず眩しい。

 ノイスは繁華街をテオと共に歩きながら、チカチカと光る看板に視線を上げる。


 この国に来る前から多少は勉強したし、滞在も長くなった。

 だから簡単な読み書きや、日常的な会話はできる。

 それでも、見上げた看板に書いてある言葉の意味は分からなかった。

 読めたとしてもそれが何を意味するのかは分からない。日本語という物はシンプルなように見えて複雑で、意味が多様で、おかしな位の情報をその中に秘めている。

 本当に理解するためにはもっと触れる必要があるに違いない。


「あれは……なんの看板なのかしら……」


 はて、と首を傾げて隣のテオに聞いてみようと振り返り、顔色の悪さに気がついた。

 普段から顔色が良い方ではないが、表情も不快そうに歪んでいる。


「テオ? どうしたの?」

「……いや、ちょっと……」


 彼は口を手で覆って言葉を濁す。そのままふらふらと道の端に寄り、適当なベンチに座り込んだ。呼吸も辛いのか、時折大きく息をつく。


「テオ? どこの具合が悪いの?」

「具合って言うか……うん。それより……」


 水かなにか、お願いして良いかな。という彼の頼みに、「分かったわ」と頷いて近くの自動販売機で水を買う。一足飛びに飛びたい気持ちを堪えながら、テオの元に駆け戻る。


「水、買ってきたわよ」

「ああ、ありが――」


 ノイスの声に顔を上げたテオは、何かに気付いたように動きを止めた。


「ねえ、テオ?」


 声をかける。聞こえてないようだ。行き交う人混みを見つめている。

 振り返ってみるけど、背の低いノイスには、テオと同じものは見えない。


「ねえってば」


 振り向かない。口を押さえていた手が宙に浮く。もう一度――と、口を開いた瞬間、彼の口元が動いた。


「見つ、けた」


 その顔は何かを耐えるように歪んでいたけど。

 確かにそう言った。


「テオ、どうしたの?」


 何か見つけたの? と水を頬に当てると、彼はようやく気付いた様子でこっちを見た。


「ああ。すまないね」

「もう、テオったらいつもそう。興味深い物を見つけたら周りが見えなくなっちゃうのよ」


 ただでさえ髪の毛で隠れてるのに、と頬を膨らますとテオは「そうだね」と弱々しく笑った。

 受け取った水を飲み、生き返ったように息をつく。

 ふらつきながらも立ち上がったテオを支えると、大きく固い手が頭をくしゃりと撫でた。


「もう立っても大丈夫なの?」

「ああ。今日はもう帰ろう」

「そうね。それがいいかも」


 時計を見ると、いつもより二時間ほど早いけど。ただでさえ健康的とは言い難いテオの顔色の方が心配だった。

 それじゃあ帰ろう、とテオがノイスの背を押す。

 そうして数歩歩くと、テオの手は背を離れた。

 

 □ ■ □

 

 宿に帰ってくると、テオはベッドの上で読書をし始めた。


「ちょっとテオ。寝てなくていいの?」

「ああ、もう大丈夫だよ」


 そう言われてみると、顔色もいくらか戻っているようだった。


「それにしても、さっきは一体何だったの?」


 テレビのチャンネルを回しながらノイスが問うと「うん、まあね」とテオは本から目を離さずに頷いた。


「やっと見つけたんだ」

「――え?」


 見つかったの!? と、思わずリモコンを放り投げ、テオのベッドへ飛び乗る。

 読んでいた本を取り上げ、その視線の下に潜り込む。


「見つけたって。ずっと探してた彼?」

「そう。ウィル。なんか体調悪そうだったけど、あの土に染みたような血の匂いは」


 間違いないよと頷いて「それにしても」と言葉を続けた。


「あの匂いだけはちょっとどうにかならないかな……。近寄りすぎると気分が悪くなる」

「ああ、それで具合が悪くなってたの?」

「そう。あれじゃあしばらく近付けなさそう」


 でも、こういう場合の対処法って何かあったかな……と、テオは呟く。


「じゃあ私がコンタクトしてみる?」

「そうだね……それが良いかな。まずは、あの匂いの原因を絶たないと」


 そうね。とノイスは考える。

 彼の言う匂いが、彼の血に起因するのなら。


「血を抜いてしまえば薄まるかしら?」

「ああ、それは良いかもね」


 テオはベッドに倒れ込んで言う。顔を覆っていた髪から、瞳が覗く。


「まずはウィルと話がしたい。でも、きっと彼は警戒するから――弱らせてからが良いな」


 うん、それがいい。とテオはくすくすと笑った。


「ただ」

「ただ?」

「この辺が行動範囲内なのは分かったけど、詳細な場所までは分からない。だから――もう少し、絞り込まないとね」

「そうね。計画は周到かつ繊細に。行動は盛大かつ大胆に」


 さっき放り投げたリモコンをふわりと浮かし、自分の手元へ勢いよく飛ばす。

 それをぱし、っと受け止めて、ノイスはにっこりと笑った。


「大丈夫。うまくいくわ」


 そうしてチャンネルを再び回しながら、ノイスは「そういえば」と話題を切り替える。


「この間、散歩でとっても素敵な教会を見つけたの。小さいけどお庭がとっても綺麗なの」

「へえ」

「ね。今度行ってきても良いかしら?」


 ノイスの声はとてもうきうきしていたのだろう。テオがくすりと笑ったのが聞こえた。


「ちょっと。そこは笑う所じゃないわ」

「いや、なんだか楽しそうなノイスは久しぶりだと思って」

「そうかしら?」

「そうだよ。日本に来て興味深そうな事は多かったけど、そんな声は久しぶりだ」


 まるで。と一旦言葉を切って。


「そうだな。まるで――どこにでも居る少女みたいだ」

「あら。私、その通りよ? 失礼しちゃうわね」


 頬を軽く膨らませると、「気を悪くしたらすまないね」という声だけが悪気なさそうに返ってきた。


「それで……教会だっけ。まあ。うん。良いんじゃないかな」


 行っておいでよ。と言うテオの声は少しだけ眠そうだった。

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