6:ボクはお兄さんを幸せにしたいから

 お兄さんは最近体調が悪いようです。

 気がついたのは梅雨に入る少し前でした。


 朝は前よりも起きる時間が早くなりました。

目覚まし時計の音を聞かないで「おはようございます」という日が増えてきました。

 けれども、夜は早めにお部屋に戻るようになりました。


 朝ご飯と晩ご飯は一緒に食べますが、お兄さんはボクを見ては、何か考えているようです。

「どうかしましたか?」

 そう聞けば。

「え? ううん、何でもないよ」

 こう返ってきます。


 ボクの質問には、いつも同じ答えです。

 心配しないで。大丈夫だよ。そう言ってお兄さんは笑います

 でも。その声と笑顔は、少しずつ少しずつ、削られていく鉛筆のように少なくなっているような、そんな気がしました。

 やっぱりボクの血が原因ですか?

 そう聞いても、答えはやっぱり同じでした。

 

 寝る前。

 ボクはノートにその日あったことや知ったことを書くようにしています。

 テレビで見た料理のこと。

 最近話題になっているもの。

 お兄さんに教えてもらった図書館の場所。

 読んだ本の題名と感想。

 その日にしたお話しのこと。思ったこと。

 書くことは沢山ありましたが、分厚いノートはまだまだ残っています。


 最近のノートには、ぽつぽつと「お兄さんの元気がありません」という言葉が増えていました。今日もそうでした。


「ボクに何かできることは……あるでしょうか」

 隣に転がるボールにぽつりと聞いてみます。が、返事などある訳がありません。

 これはただのボールです。昔一緒に居た家の女の子がくれた物。それだけです。

 ボクは座敷童です。だから、この家にはお兄さんが望む物がいずれやってくるはずです。


 でも、それはボクではありません。

 むしろ、呪いを持ち込んでしまったボクは、疫病神だと言われてしまっても、何も言えません。

 この血を飲ませてしまったことを、とても後悔しています。

 自分の血に混ざったものをすっかり忘れてしまっていたボクは、どれだけ愚かなのでしょう。


 母様。ボクは。

「……やっぱり。座敷童になんて、なれていません」

 ぽた、とノートから音がしました。

 それで初めて、涙に気が付きました。


 胸がなんだか苦しいです。

 けれども、ボクが泣いていてはいけません。ぐっと拭って、涙を止めます。


 ボクがこれまで居た家はどれもみんな幸せそうでした。けれども、みんなそこから転がり落ちるように居なくなってしまうのです。誰も帰ってこない家だけが残ります。


 次こそは。つぎこそは。

 そう思ってどれだけの家を転々としてきたのでしょう。

 どんなにみんなが笑顔でも。幸せそうになっても。最後は。みんな居なくなってしまうのです。


 ボールをくれた女の子が、言っていた言葉を思い出します。

「あのね。わたし遠くに引っ越すの。でも、しいちゃんはつれていけないんだって。ニセモノなんだって」

 だから、さようならだよ。とくれたのがこのボールでした。


 それ以来、ボクは誰かの家に住むことはやめました。

 あの日だって、公園で遊んでくれるだけでよかったのです。

 

 お兄さんも、そうなってしまうのでしょうか。

 ボクをニセモノだと言ったりするのでしょうか。

 それとも、ボクひとりだけ残ってしまうのでしょうか。


 考えなくて良いんだよ、というあの声を思い出します。


 いいえ、そういう訳にはいきません。

 ノートに今日最後の一行を書き込みます。

 

「ボクは、お兄さんを幸せにしたいです」


 ボクの居た家は、幸せから転がり落ちるように誰も居なくなってしまいます。

 今度もそうかもしれません。

 出て行った方が良いのかもしれません。

 その方が、お兄さんにとって幸せなのかもしれません。


 けれども。

 ボクは、あの夜遊んでくれたお兄さんを。

 幸せに、したいのです。


 さしでがましい、かもしれませんが。

 もう一度だけ、座敷童でありたいのです。

 ボクが原因ならば。せめてそれをどうにかしてから出て行かなくてはいけない。

 そう、思うのです。

 

 □ ■ □

 

 お兄さんの具合が悪そうな日は、どんどん増えていきました。


 お弁当をお腹に優しい物にしたり、できるだけ荷物を持つようにしたり、ボクができる限りの事はするようにしています。

 お兄さんは「気にしないで」と言いますが、お兄さんには元気になって欲しいのです。

 幸せであるためには、まず元気でなければいけません。


 ボクは、そのために居るのです。

 

 そんなある日。

 いつものように玄関の音がしたのでお迎えに出ると、お兄さんは靴を脱いでいる途中でした。

「おかえり、なさい」

 お兄さんは小さく頷きました。背中が揺れています。

 やっぱり具合が悪いのでしょうか。とても疲れているように見えました。それでも「ただいま」という言葉は返ってきました。

 その声も、とても疲れているようでした。溜息も、とても重そうです。


「お兄さん……やっぱり具合悪いですか?」

「……ん」


 立ち上がってボクの方を振り向いたお兄さんは、笑おうとしたのでしょう。でも、その表情はとても辛そうでした。ボクは人の心を悟る事は出来ません。けれども、笑顔でもそれが辛いのだというのは分かります。


 小さな声がして、お兄さんが立ち上がりました。ボクを見下ろすその顔は、なんだか怖いものでした。怒ってるような、悲しそうな。そんなとても辛そうな顔です。

「あ……あの」

 ボクは何かいけないことをしてしまったのでしょうか。それとも、ここしばらくの体調不良のせいでしょうか。


 それを聞こうとすると、お兄さんは顔を手で覆っていました。視線は外されて、顔も横を向いています。それから、少しだけ口を動かしたのが見えました。

 お兄さんの手が顔から外れると、しゃがんでボクと目の高さを合わせてくれました。お兄さんはボクに何か言いたい事がある時は目の高さを合わせてくれます。だから、ボクもその目を真直ぐに見ます。


 一瞬だけ茶色く見えたのは、光のせいでしょうか。

 じっと見るお兄さんの目は、とてもきれいで、泣きそうな青色をしていました。


「ごめん。体調……心配させて。その、ね」

 そう言ったお兄さんの目は足元に落ちて右左に揺れます。瞬きの瞬間だけボクと目が合いますが、すぐに足元へ落ちていきます。落としてしまった言葉を探しているようにも見えます。

 お兄さんは、何を探しているのでしょう。体調が悪くないのならば、何か不安な事があるのでしょうか。

「季節の変わり目だから、かな……疲れが、取れなくて」


 見えない言葉の山から拾い上げられたのは、嘘でした。


 人が嘘をつくときの気持ちは、それぞれです。悪い人ならば信じませんが、ボクはたくさんの家や人を見てきました。お兄さんは、悪い人ではありません。

 ならば。何か理由があるのでしょう。誰にだって、そういう物はあります。だから。


「――そう、ですか」

 ボクに言えるのは、それだけでした。


 それがお兄さんのために。この家の幸せになるのならば、ボクはこれ以上何もできません。

 ボクの言葉に小さく頷いて立ち上がったお兄さんは、視線をずらしたまま「だから」と呟くように言いました。

「夕飯は……いいや。食べてて。僕、もう寝るよ」

「はい」


 ボクの返事には、何も返ってきません。置いていた鞄と買い物袋を取って、ボクの横を通り過ぎていきます。

 ごはんはいい、と言いましたが、その買い物袋には晩ご飯やお弁当のおかずが入っているようでした。


 そうだ、お弁当。明日は一体どうするのでしょうか?


「あの」

 思わずかけた声に、お兄さんの足音が止まりました。

「……何?」

 さっきよりも低いその声は、とても静かです。

 海の底のような。何かを圧し付けているような深くて静かな声です。


「明日の、お弁当は」

「イラナイ」

 暗くて強いその言葉に、ボクの喉が詰まりました。喉が渇いて、言葉が貼り付いて。うまく出てきません。少しだけ口を動かしてみました。

「あの……お兄さんの体調、やっぱり、ボクの――」

「違うから!」

「……」

「ごめん。ちょっと……、いや、しばらく。ほっといて……」


 ぽつ、と小さく聴こえたのは、夕立の降り始めのような声でした。

 ボクが言えたのは「はい」という返事だけでした。


「あの、ボク……リビングに居ますから。何かあったら、呼んでください」

 ぱたん、と閉じたドアの音に重なった声はお兄さんに届いたでしょうか。


 それは分かりません。少しだけ静かなドアと向かい合ってみました。

 ノックをする勇気はありませんでした。


 ボクはリビングのソファに座って待つ事にしました。

 

 しばらくするとドアの向こうから、かたん、と物音がしました。

「お兄さん……?」

 ドアの前で呼んでみます。返事はありません。

 少しだけ、耳を当ててみます。小さく何かの擦れる音がしました。


 静かな。静かなこの家。

 ボクが、ひとりの時に感じる部屋の広さ。

 今、それと同じ感覚がします。

 お兄さんの気配がしません。


 ベランダに居る訳でもない。きっと、外に行ってしまったのでしょう。

 ボクに会わないために。窓から出て行ったのでしょう。


 追いかける。ううん、そう言う訳にはいきません。

 お兄さんは「放っておいて」と言いました。

 ボクは、それに「はい」と答えました。


 だから、ボクは待つしかできません。

 座敷童に、それ以上の力はないのです。

 

 けれどもボクは。気付くと外に出ていました。

 家の周りを、ちょっとだけ。ちょっとだけ……見て回りました。

 けれども、夕方も過ぎて夜になってしまった街で、お兄さんは見つかりませんでした。

 お兄さんは吸血鬼です。夜の中では、きっと誰にも負けません。

 

 帰ってきたボクは、リビングのソファで待つことにしました。

 ここならお兄さんがいつ帰ってきても分かります。


「大丈夫。ボクは、座敷童です。きっと……なんとか。なんとかなります」


 言い聞かせるようにして膝を抱えました。ひとりの時は、よくこうして座っていた事を思い出します。

 でも、どうしたら良いのかは分かりません。ボクという座敷童は、その人にとって良い物を呼び寄せるだけなのです。

 ならば、いつかはやってくるはずです。お兄さんにとっての幸せになるものが。

 ボクがここに。この家に居る限り。

 

 そうしてボクは、待ちました。夜が更けて、朝が来て。また夜が来て。

 じっと、じっと待ちました。

 

 □ ■ □

 

 ばたん! と玄関のドアが慌ただしく開いたのは突然でした。

 慌ててソファから立ち上がると、そこにはお兄さんが立っていました。


 大きなバッグを抱えて。真っ青な顔で。

 ボクを見て、それから目をそらして。

 何か言いたそうに口を開いて。くしゃくしゃと頭を掻いて。

 そのまま、何一つ言葉を交わす事もなく。

 お兄さんはまた、部屋に駆け込んでいきます。


「おにいさ……!」

 ばたん! とドアが目の前で閉まりました。


 一体何があったのでしょう。迷っているようにも。怖がっているようにも見えました。

 ボクには、何も分かりません。


「お兄さん」

 ドアに向かって、呼びかけてみます。返事はありません。


「……ごはん、食べていましたか?」

「ちゃんと、眠れていましたか?」


 聞きたい事はたくさんあります。


「お兄さん、きっと。困らせてしまっているのはボクのせいですね」

 ごめんなさい。とたくさん謝りたいですが、謝りきれるものではありません。

「座敷童なんて嘘だと言ってくれても構いません」

「ボクの呪いのせいだと怒ってもいいです」

「でも」

 ボクにできるのは。

「絶対、ここを離れません。できる限りのことをします」


「お兄さんが幸せになるまで。絶対に」

 きっと。これだけです。

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