5:恐怖に溺れて愚かさで沈んで

 答えは見えないまま、時間は刻々と過ぎていく。

 眠れば夢のあいつが、考えなくて良いのにと言い聞かせてくる。うるさいと押さえ付ける。向き合うなんてできなかった。聞く姿勢を見せれば感情に飲まれる。一方的に語り、一方的に黙らせる。その繰り返し。


 目を覚まして、学校へ行って。そのまま夜の街に姿を消して。

 何日くらいそういう生活をしただろう。

 疲れは一向に取れない。彼の言葉が強く残って仕方ない。

 感情が、声が。身体に染みついて、香るような気すらする。

 目の色が変わっていないか、不安になる。


 彼女はどうしてるだろうか。会って何か言える気もしないけど、やっぱり気になる。

 手は伸ばせない。触れたらきっと、掴んで離さなくなってしまう。

 あるいは、また自分の手で失ってしまうかもしれない。


 何でだろう。平穏な日々を求めていた僕の何かがそう問いかける。

 僕は。平穏に過ごすと決めた時から、その努力だけは怠らないようにしてきたつもりなのに。

 

 何で、こんな事になってるんだろう?

 何で、こうして逃げてるんだろう?


 自問自答は、終わらない。


 向かい合う勇気がない? うん。

 どうして? どうしてだろう。

 彼女が愛おしいから? それは、座敷童の力あってこその感情だ。

 あの血が美味しかったから? それは事実だけど、違う。

 夢に感化された? 違う。というか嫌だ。

 意志が弱かったから? 答えられなかった。

 

 そうして今日も、ぼんやりと街をふらつく。

 適当なネットカフェにでも、と足を向けようとしたその時。

 人混みの中に金髪を見た。

 いや、金髪なんてそう珍しくない。街中なら尚更だ。

 でも。それでも目を引く程に綺麗な。染めた色じゃないと分かるような色。


 そんな髪の少女は、僕の横をふわりと通り過ぎていった。

 すれ違う一瞬で見えた瞳は琥珀色。しきちゃんと同じくらいの背丈。駆け足でさらさらと揺れる……いや、ふわりと浮くような髪。足取りもひどく軽い。

 あのような少女は知らない。

 ただ、あの子は人間じゃないと、感覚が告げた。


 思わず足を止めて振り返った。

 少女が駆けていく先に居たのは、ひとりの男性だった。

 バス停のベンチに座ってうなだれている。具合が悪いのだろうか。手で口元を押さえている。

 長袖の上着を羽織った。黒い髪の。座ってても分かる背の高さで。年齢は、僕と同じくらいか、少し上だろうか。

 そんな彼は、少女が差し出した水を受け取ろうと顔を上げ――僕を見た。


 髪が野暮ったく顔を覆っていたけれど。その目は驚くように見開かれる。

 手が口から外れて宙に浮く。水を受け取ることも忘れて数度瞬きをして。


「――見つ、けた」


 口元を歪ませて、呟いた。

 前髪からの視線が、僕を刺す。


 僕は動けない。

 喉が詰まって。思考が止まって。目が離せない。


 隣の少女はそれに気付いていないのか、何か言いながら水を彼に押しつけた。

 その拍子に視線が外れる。

 彼は水を飲んで、ふらつきながらも少女に促されて立ち上がる。

「――」

「――」

 2人は少しだけ会話をして、歩き出す。


 雑踏の中に消えてしまう直前。

 青年が少しだけ振り向いた。

 何か言いたげな顔をしてたけど、特に何を言う訳でもなく。

 ただ、気難しい顔で僕を一瞥し。そのまま姿を消した。


 動けなかった僕は、二人をそのまま見送り。

 姿が完全に見えなくなって初めて、ようやく息ができた。


 「なんで……」


 背中がひやりとした。喉が渇く。


 あの青年には、会ったことがある。

 いや。会ったことがある、なんてもんじゃない。


 フラッシュバックしたのは、足元で波立つ血液。

 僕の足を掴む、筋張った細い指。


「確かに……死んだじゃないか……」


 なんでこんな所に居るんだ。


「見つけた」


 彼は確かにそう言ったし、具合が悪そうだった顔を一際歪めて僕を見た。


 その意図は分からないけど、これ以上ここに居てはいけない気がした。

 逃げろ。この場から。隠れて。見つかった。きっと僕は――。

 頭の中がそんな警告じみた言葉で埋め尽くされる。


 踵を返して、僕はその場を離れる。

 どこに行けばいい。

 どこに行けば。

 どこに――! 

 気が付くと、僕は家の玄関に立っていた。

 足は自然と家へと向かい、そのまま鍵を開けて駆け込んだらしい。


 目の前には、数日ぶりに見た少女が何か言いたげに立っていた。

 久しぶりに見たその姿に、なんだかとても安心した。

 安堵して。なんだか泣きそうになって。

 何か言いたかったけど、言葉が出なくて。何も言えなくて。

 ぐしゃぐしゃと頭を掻きむしって。

 そのまま部屋に逃げ込んだ。

 

 ああ、僕の馬鹿め。愚か者め。

 ドアを背にして座り込む。


 僕ってこんなに思い切りの悪い奴だったか? 平穏に生きようとして、その生活に浸って。すっかり爪も牙も無くしてしまったか?

 いや。それで良かった。良かったんだ。

 むしろ、それを望んでいたのに。


「――考える必要なんて、ないだろう?」


 そんな声がする。幻聴だ。夢じゃないのに、声がする。


「ほら、考えるのは苦しい。ならば考えなくて良い」


 幻聴のくせに。僕のイライラした思考をゆっくりと飲み込んでいく。

 ゆっくりと。どこまでも穏やかな声で。

 僕の意識を蝕み、溶かし、沈めていく。


「ほら。何もかも忘れたって構わないよ。いっそ――消えても構わない」


 馬鹿を言うな。これは、この意識は、感情は。僕のものだ。

 

 なんて反論の言葉ひとつ返すこともできないまま。 

 僕の意識は、ずるりと飲み込まれていった。

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