2:ボクの血にある呪い

 ――考えなくて、良いんだよ。

 

 お兄さんに血を吸われた時。とても懐かしい声を聞いた気がしました。

 誰の声かは分かりません。いつの事だったかも忘れちゃっています。


 でも、その優しそうで背筋がぞっとするような声は、ボクが座敷童になって初めて外に出たきっかけだった、という事は思い出しました。

 どうしてボクは、今まで忘れていたのでしょう。

 

 ――考えなくて、良いんだよ。忘れたって構わない。

 

 一度聞こえてしまった声は、ボクの疑問を優しく崩していきます。血を吸われてくらくらするよりも先に、その声がなんだか怖くて気を失いそうです。

 

 ――この血で。私の命で君をこの家の呪いから解放できるなら。

 

 ふと。灰色の髪の誰かが、笑った気がしました。

 これ以上、お兄さんにこの血を吸わせちゃダメ。と、ボクのどこかから声がします。

 だから、残った力でお兄さんから離れました。

 鍵をかけて、閉じこもる。これがボクの精一杯でした。


 首がなんだか熱くて、さわってみると赤い血が手につきました。鉄の匂いがします。ちょっとだけ舐めてみたけれども、味はよく分かりませんでした。ドアの向こうからはお兄さんの声がします。


 なんて答えたか、覚えていません。

 ただじっと、耳元でこだまする声から逃げていました。


 それから。夢を見ました。


 天国の夢です。

 見上げると暗い天井で。見下ろすと固い土の台所があります。ボクは梁の上に座っています。


 夜。家中が静かになると座っていた梁から降りて、戸を開けてみます。風がそよそよと吹いてきますが、ボクは外には出られません。透明で柔らかい何かが、ボクにぺたりとくっつくのです。


 だから戸を閉めてから、部屋を覗いて回ります。

 小さく明かりが付いている部屋はそっと通り過ぎて。誰かが眠っている所は障子に耳を立ててみて。そうして最後に、台所に戻ってくる。

 夢の中のボクは、そんなことを繰り返していました。


 台所には誰もいません。

 家の人達は眠っています。そもそも、ボクを知っている人は誰もいません。一緒に遊んだ事があっても。それを覚えている人は居ません。


「……母様」

 少しだけ胸がきゅうとするのを押さえて呟くと、耳の奥で声がしました。


「あなたはね、天国でお勉強をして。この家の座敷童になるの」

 いつだったか、母様が言っていた言葉です。


 でも、声も顔も滲んでいて上手に思い出せません。

 でも、ボクはあの時こう聞き返したのを覚えています。


「ざしきわらし?」

「そう。この家の……守り神様よ」

 何か分からないまま頷くボクを暖かく抱きしめてくれる母様の顔は見えません。声は水のようで、今にも消えてしまいそうです。


 でも母様。とボクはぐっと胸を押さえて呟きます。

 ボクは外が分かりません。ずっと、この家の中に居ます。


 母様。ここが天国なのですか? と聞いてみても、答えはありません。


 ボクがずっと居るこの家は、お空なんて全然見えません。

 おいしそうなご飯の匂いと笑い声はするけれど、誰も気付いてくれません。

 ボクと一緒に遊んでくれた子も、もういません。たった一人で座っているここが本当に。本当に天国なんですか?


 ずっとそうだと信じていました。でも、分からなくなりました。

 母様。誰か。誰か、だれか。

 教えてください。

 ボクが居るここは、一体どこですか?


 こんなに冷たくて暗くて、匂いも笑い声も遠くて。ここが天国なんだと信じて、みんなが笑っていられるように考えていた日々が何だったのか、答えてくれる人は誰もいません。

 いつ終わるか分からない、たったひとりで過ごす毎日。


 それが終わったのは――いつだったでしょうか。


 灰色の髪の男の人が笑う声がしました。

 あたりは真っ赤で。家中が静かでした。その人に抱きしめられているボクも真っ赤で。どんどん冷たくなっていくその人の身体から流れる血が土に。家に。ボクに。滲んで。吸われて。頭がくらくらして。


 ――約束しよう。

 ――この血で。私の命で君をこの家の呪いから解放できるなら。

 ――いくらでも、君の為に尽くそう。

 ――。


「そう。喩えなどではなく、この命を以て。永遠に」


「――」

 目を覚ますと、ボクは床に転がっていました。

 見た事のない部屋……ではありません。ボクが最後に逃げ込んだ、お兄さんのお部屋です。


 見ていた夢をぼんやりと思い出してみました。

 天井。土間。静かな障子。母様の声。何も知らなかった頃のボク。


 それから。揺れる灰色の髪。


 その髪を思い出した瞬間、背中がひやりとしました。


 あの時地面に、ボクの身体に染み込んでいった血。

 それはボクを外へ出すために、座敷童の在るべき場所を塗り替えました。これまで家から出る事が出来なかったボクが外へ出るために。ボクが居るべきは、その人の血がある場所――ボクじゃない、もう一つの命がある場所と。


 ちょっとした感情でも、思う気持ちが強いとそれは呪いになってしまいます。

 ボクはたくさんの家でそんなものを見てきました。だから、その怖さはよく知っています。


 そんな、呪いを呪いで塗り替えたような血を、ボクはお兄さんに飲ませてしまいました。

 どうしよう。どうしよう。ボクはなんて事をしてしまったのでしょう。怖くて仕方ありません。

 

 謝って許してもらえるでしょうか。

 ボクは、どうすれば良いのでしょうか?

 なにか、できる事があるのでしょうか?


 それが分からなくて、怖くて震えていると、こんこんこん、と背中から何かを叩く音がしました。

 びく、と背中が固まります。


「しきちゃん」


 しき。座敷童の「しき」。ボクの、名前です。

 呼んでいるのは灰色の声じゃない――お兄さん。優しい目の、吸血鬼のお兄さんです。


 ボクは謝らなきゃいけません。

 血を吸われてふらふらするのを堪えてドアと向かい合います。ぺたりと手を当てて、ドア越しにお兄さんを見上げました。でも、ドアで見えません。ドアを、開けられません。


 お兄さんに、言わなくちゃいけないのに。謝らなくてはいけないのに。


 考えなくて、良いんだよ。と声がします。

 嫌だ。いやだ。とぎゅっと目をつぶってその声を追い出します。

 ボクはお兄さんに、ごめんなさいと言わなくちゃいけない。


「その、無理させちゃってごめんね」

 お兄さんの声がします。


 違う。違うんです。と僕は首を横に振ります。


 ボクの血は呪われていたんです。それを忘れて、お兄さんに飲ませてしまったのが悪いのです。

 座敷童とは、家の人の不幸にさせないのが仕事です。なのに。ボク自身が呪いを渡してしまうなんて。とんでもない事をしてしまいました。

 声が出ません。身体が言う事を聞きません。涙が出てきます。


 お兄さんに、届かない。届かない。

 こんなの初めてです。


「――っ」


 喉に声が詰まります。胸が、とても苦しいです。

 かくりと膝から力が抜けました。ボクの爪がドアを引っ掻く音がしました。


 謝らなくちゃ。考えないで。嫌だ。いやだ。

 涙がスカートにぽたぽたと零れます。

 ほら、辛いなら考えるのをやめよう。と声がします。

 嫌だ、と苦しい胸を押さえて、ドアノブに手を伸ばします。座り込んでしまったボクの手は、届きません。


 耳の奥で聞こえる声と、ボクの声と。色んな物がぐちゃぐちゃになって聞こえます。


 そんな中、かちゃり、と小さな金属の音が飛び込んできました。

 ぴたりとボクの中でぐるぐるしていた声が止まります。

 そして――暗かった部屋に光が。


 ドアが、開きました。

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