第64話「古の魔法②」


「ん?」



 重い瞼を開け周囲を確認する。すると、机の上には軽食と着替えが置かれているのが目に入った。

 ありがたい、とぼんやりしながら窓の外を眺めれば空が群青色から東雲色へと変わる頃で、まもなく日の出の時間だと分かる。

 よく寝た……と思って、ようやく一晩寝てしまったことに気がついた。



「しまった! レーバン様が王宮に連絡してくれるといっていたから、その後の説明とかあったはずなのに! 今からでも……あぁ、起こしてしまっては駄目だわ」



 普通の人が活動するにはまだ早すぎる時間だ。寝ていると思ったほうが良い。

 先に身なりを整えることにする。まずはシャワーを浴びることにした。冷たい水ではなく温かいお湯は心と体の緊張を解し、安心感を与えていく。幸運にも助かったのだと、じわじわと実感した。

 それからアメニティ置き場を見ると、化粧水にボディクリーム、髪用の香油からブラシまで用意されていた。



(シャンプーも甘い香りだし、この部屋は女性のお客様が使うことも多いのかしら?)



 充実した部屋に感心しながらヴィエラは肌を整え、用意してある着替えを借りて袖を通す。下着はストックを出してくれたのか、新品に見える。シンプルな白ブラウスと紺色のスカートも使用感がなく、新しいものだ。ウェストが少し緩いが、予測してかサスペンダーも用意されていたので問題ない。紐付きのショートブーツはピッタリ。

 至れり尽くせりとはこのことをいうのだろう。

 軽食もいただいて少しすると、使用人がヴィエラを呼びに来た。


 案内されたのはレーバンの執務室だ。この街を守る結界石の場所が分かる大きな地図が壁に貼られ、たくさんメモも付け加えられている。更新日や、結界石の稼働状況などが書かれているのだろう。レーバンの、管理者としての真面目さが窺える。



「ヴィエラ殿の今後についての説明をしますね。どうぞそこに」

「失礼いたします」



 レーバンの正面になるように用意された机の前の椅子に、ヴィエラは腰を下ろす。



「王宮でもヴィエラ殿の失踪は把握しており、無事でいることを喜んでおられました。後日タイミングを見て、王宮から迎えを寄越してくれるそうです」

「タイミング……すぐには無理ということですか?」

「王宮内でも何か問題が起きたようで……それ以上の詳しいことは私でも。ただ王宮からも保護を継続するよう指示をいただいていますので、屋敷には遠慮なく滞在してください」

「そう、ですか」



 ヴィエラは肩を落とした。

 本当は今すぐにでも王都に帰りたいが、たんなる平職員が王宮の事情より優先してもらうことは難しい。それは理解している。

 自力で帰ることもできなくはないだろうが、また狙われる可能性もある。三人は捕まったというが、協力者が残っていることも考えられる。迷惑をかけないためにも、今は大人しくするしかないだろう。



「ヴィエラ殿、気を紛らわすついでに滞在している間、私の魔法の研究を手伝ってくれないだろうか?」



 身ひとつで攫われたため、読もうと思っていた本や結界の魔法式の資料は手元にない。することがない上に、魔法が好きなヴィエラにとってレーバンの提案は魅力的だ。

 気を遣わせてしまったことは察したが、力になることでお礼をしようと切り替える。



「私で良ければ! ちなみになんの研究をなさっているのですか?」

「魔法式の解除の鍵となる魔法――逆算式を求める研究をしているんだ。隣の部屋でお見せしましょう」



 そうして入った執務室の隣部屋は、魔法使いなら興奮せずにいられない宝部屋だった。

 魔法に関する書物で埋まった本棚がいくつも並び、ガラスのショーケースには見たことがない魔法式が刻まれた魔道具が展示されていた。特別なショーケースを用いているのか、魔法式が常に浮かぶようになっているようだ。

 中でも目を引いたのは、中央の大きなテーブルに置かれている銅板だ。魔力のインクではなく、銅板に直接魔法式が彫られている。



「私は逆算式を求めるのが趣味でね。今はこの銅板に刻まれた魔法式の逆算式を求めているところなんだ」



 魔法局だと失敗作は廃棄することが多いが、利益を求める一般的な会社は再利用できる素材は再利用する。問題は王宮魔法使いほどのレベルはないため、ヴィエラのように感覚で魔法式は解除できない。

 そこで活用されるのが逆算式である。製品に使われる魔法式の対になる逆算式があれば、容易に解除が可能になるからだ。

 王宮魔法使いを引退したベテランが再就職し、製品用の魔法式の逆算式の研究を始めるのは珍しいことではない。



(でもレーバン様は結界課の元班長なのに、趣味として研究している……やはり義足というハンデは大きいようね)



 以前、レーバンは戦争の余波で片足を失ってから、魔法がうまく使えなくなったと言っていた。

 直接解除を行う検証ができないとなれば、元班長の経歴があっても研究所への再就職は難しいのだろう。

 ヴィエラは少し苦い気持ちを抱きながら、銅板を観察した。



「結界石の……でも今のとは少し違う式が組み込まれていて、すごく複雑ですね。これは一体?」

「もう使われてない、百年ほど昔の結界の魔法式です。当時付与したものの魔法式が難しくて解除できず、素材となっていた銅板ごと交換しながら更新していたのですよ。この図面のような増大装置に嵌めて、結界の範囲を広げる方法を用いてね」

「この彫りは、魔力が銅板を変質させてできた跡というわけですか。このようなものは初めて見ました」



 結界石ほど大きくはないが、更新のために何枚も銅板を運ぶのは大変だろう。しかも銅板は魔法への耐久性がそれほど高くはない。更新頻度も高かったのではないだろうか。

 逆に銅は加工しやすい素材なので、廃棄することなく魔道具以外に再利用できるという点では予算に優しいとも言える。

 知らなかった結界の歴史に触れられ、ヴィエラはますます銅板への興味が高まった。



「ヴィエラ殿、どうですか? 昔の魔法局でも手に余らせた魔法式を攻略できたら、とても面白いと思いませんか?」

「はい。これは研究の題材としてはロマンを感じますね」

「義足の件でも助けていただきましたが、ヴィエラ殿は解除魔法が得意だったと記憶しております。ちなみにこの魔法式、今のあなたは解除できそうですか?」

「うーん、少し触れても良いですか?」

「どうぞ」



 ヴィエラは指先でなぞりながら、銅板に刻まれた魔法式を読む。

 魔物が嫌う振動の指定や魔力の自動供給の式は、現代の式とほぼ変わらない。だが効果を及ぼす範囲はとても広く、とくに保護目的と思われる魔法式が細かく組み込まれており、見るからに解除が難しそうだ。結界に、魔物寄せが重ねられた魔法式以上の難易度だ。鉄壁の守りと言える。

 一分ほど魔法式を睨み、ヴィエラはレーバンに答えを告げた。



「すぐに解除するのは難しいと思います。保護魔法の部分は初めて見るタイプで、そこが難点です。けれど、そこが理解できれば手が届きそうなイメージはありますね」

「ほう、不可能ではないと。それもひとりで、ですか?」

「はい。保護魔法をもっと理解して、練習して感覚が掴めればできそうですね」

「やはりあなたには才能がある……!」



 レーバンは興奮を抑えきれないと言わんばかりに、痛いくらいにヴィエラの両手を強く握った。この魔法式の解除に強いこだわりがあるのだろう。期待を寄せられていることが、ひしひしと伝わってくる。



「でも、私は感覚的にできそうなだけで、逆算式まで組み立てられるか。それに時間も……」



 力になれるのは嬉しいが、手伝えるのは王宮の迎えがくるまでの間だけだ。それに人の研究の答えを導き出し、完全に成果を奪うつもりはない。



「かまわない。ヴィエラ殿の手で解除できるところを見られれば十分です。ちなみに何日あれば実現できそうですか?」

「分析と検証を実際にしてみないことには何とも」



 レーバンはどこか結果を急いでいる様子だが、初めての魔法式の前ではヴィエラも断言できない。眉を下げて、予防線を張っておく。



「それはそうですよね。失礼いたしました。ではこの部屋は自由に出入りしてもかまいません。本はこれが参考になるでしょう。滞在中、お願いできますか?」



 ヴィエラの手を解放したレーバンは本棚から数冊選ぶと、銅板の隣に積み重ねた。



「分かりました。では早速、その本を読ませていただきますね」

「えぇ、私は仕事があるので執務室に戻ります。使用人は廊下に常駐していますので、何かあればその者に遠慮なく申しつけてくださいね。では」



 忙しいのか、レーバンはさっと研究部屋から出ていった。



「どうして急いでいるのかしら?」



 研究対象は、今は使われていない過去の魔法式だ。逆算式を求めるのに期限は気にする必要はないはずなのだが……そんな疑問はあるものの、レーバンにも都合があるのかもしれない。

 ヴィエラは疑問を頭の外の追いやり、本を開いた。


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