第44話「夜会①」
太陽が完全に沈み、月が空の主役になる時間――とある伯爵家の屋敷前に、アンブロッシュ家を示す旗が靡く二台の馬車が到着した。前の馬車にアンブロッシュ家が、後ろにはユーベルト家が乗っていた。
「よし!」
気合を入れた父――ユーベルト子爵トーマスが馬車を降り、妻カミラと娘エマが降りるのを手伝う。それが終わると、黒髪の青年にすぐに場所を譲った。
紺瑠璃色の生地に、銀糸の刺繍が美しい礼服を纏ったヴィエラの婚約者――ルカーシュが微笑みを浮かべて、白い手袋をつけた手のひらを向けた。
「ヴィエラ、手を」
「あ、ありがとうございます」
いつも身に着けない装飾品が輝いているからだろうか、光が反射してルカーシュが眩しく見える。少し緊張した面持ちでヴィエラは彼の手に自身の手を重ね、ゆっくり馬車から降りた。
ちょうど夜風が吹き、ヴィエラの紺瑠璃のドレスが靡く。散りばめられた宝石がキラキラとスカートを輝かせた。
ヴィエラはドキッと緊張感を高めた。
(ヘルミーナ様がルカ様とお揃いのドレスを用意してくれたけど、心臓に悪い。今の風で宝石飛んで行ってないよね? 慎重に動かないと)
髪型が崩れることより、宝石の方が心配だ。アンブロッシュ公爵夫人ヘルミーナは、高価なものに怯えるヴィエラのために「クズ扱いの安い宝石を指定しているから安心して」と言っていたが数が多いし、宝石には変わりない。
しかし今、落ちていないか確認のために地面に伏せるわけにはいかない。宝石を付けた洋裁店の職人の腕を信じて、ルカーシュの腕に手を添えた。
すると彼はヴィエラをじっと見つめ、軽く眉をひそめた。
「絶対にひとりにならないように」
わざわざ念を押すような言い方が不思議で、ヴィエラはきょとんとした表情を浮かべた。
すると、何故かエマがため息をついた。
「お姉様は童顔で小柄、いつもより綺麗なドレスを着ているから、大きめのお人形さんみたいだわ。そのまま持っていかれそうで心配、ってことですよね?」
「人形だなんてお大袈裟な――」
「エマさんの言うとおりだ。ヴィエラ、気を付けて」
ルカーシュの注意に同意するように、アンブロッシュ公爵夫妻とユーベルト子爵夫妻も頷く。納得はしていないが、皆の圧がすごい。
ヴィエラは渋々頷いた。
そうしてアンブロッシュ公爵夫妻を先頭に、夜会が行われているホールへ向かう。通路にいる人たちは、滅多に社交場に出てこない英雄の姿に目を輝かせている。
ホールに入場すれば、それはさらに強まった。驚きと興奮、そして偶然でも英雄と同席できる優越感――会場にいる多くの貴族が、ルカーシュに憧れを抱いていることが伝わってくる。王宮の食堂で彼が姿を見せたとき以上の、熱い眼差しが集中した。
(やっぱりルカ様の人気って凄いのね。王宮で働いていたら偶然見かけることも……引きこもっていた私はなかったけれど、普通の人は英雄を見られる機会なんて限られているものね)
そんな偉大な人物にエスコートされていることが、今になって信じられなくなってきた。
どうしてこんな貧乏令嬢が――という嫌味のひとつやふたつは覚悟しておこう。会場に入ってからヴィエラは構えていたが、嫉妬の視線すら来ない。
たいていはアンブロッシュ公爵夫妻が受け答えをし、タイミングを見てユーベルト子爵夫妻が会話に加わり親しさをアピールするだけ。時々エマの知り合いが声をかけてくるが、ヴィエラとルカーシュに簡単な挨拶と軽い礼をしたらサッと立ち去っていく。
ふたりは基本的に微笑みを浮かべて立っているだけ。もちろん、ルカーシュの手はヴィエラの腰に添えられている。
「興味のある視線を向ける割に、あまり話しかけられませんね。初対面の夜会のときルカ様は、話しかけられるのに疲れて逃げてきたって、そう言っていましたのに」
「以前、俺に積極的に話しかけてくるのは婚約目的の令嬢とその親たちが多かった。今は君がいるから突撃する理由がなくなったのだろう。賢明な判断だ」
そうルカーシュと話している間に、アンブロッシュ公爵夫妻が別の人の輪へ行きたいと断りを入れてきた。探りたい情報があるらしい。
そして次はルカーシュが、引退した神獣騎士の先輩に声をかけられた。他の人よりも親しそうに見えるし、どうやら久々に顔を会わせたらしい。
「ルカ様、私は家族と離れないようにしますので、どうぞお知り合いの方と遠慮せずお話を」
「ありがとう。少し話したら戻るから」
そうして元神獣騎士の人にお酒のグラスを受け取りに行こうと誘われ、ルカーシュはヴィエラの側を離れた。
残された弱小貴族ユーベルト家に話しかけてくる者はいない。父トーマスが苦笑する。
「我々はどこかで休ませてもらおうか。カミラはそろそろ足を休めたい頃合いだろう」
「えぇ、どこか座れる場所があればよろしいんだけれど、どなたに声をかければ」
そう両親が使用人の姿を探そうとしたとき――
「お休みを希望であれば、テラスに席をご用意しております。ご案内いたしましょう」
主催者である伯爵家の執事なのだろうか、パリッとした燕尾服を来た壮年の紳士が声をかけてきた。
ユーベルト親子は、執事の案内に従いテラスへと足を運ぶ。
ホールの一番端にある扉から、ウッドデッキへと出る。等間隔に並ぶホールの大窓の間には、会場から死角になるようにソファとテーブルのセットが用意されていた。
他に休んでいる人はいない。あそこであれば人目を気にせず休める。ユーベルト親子は執事にお礼を言って、ソファに腰を下ろした。
一家そろって肩の力を抜いた。
「こんなに人と会話する夜会なんて初めてだ」
遠い目をして月を眺めながらトーマスがため息をついた。隣に座るカミラも深く頷いている。
夜会慣れしているはずのエマでさえ、いつも以上に視線を浴びて気が抜けなかったようだ。
もちろん、ヴィエラも立っていただけなのに疲労感が強い。伸ばしていた背中は痛いし、ヒールのある靴のせいでふくらはぎはつりそうだ。
家族そろって顔を見合わせ、情けなさに苦笑した。同時に華麗に社交をこなすアンブロッシュ家の偉大さを実感する。
すると先ほど案内してくれた執事が、次は杖をついた老齢の女性をエスコートしてきた。同じく休憩だろうかと、ユーベルト親子は席を詰めようと腰を上げる。
そうしてまた腰を下ろそうとして、「待て」と父トーマスが家族を止めた。
父の表情がどんどん強張っていく。夫の視線を追ったカミラは、ゴクリと息を呑んだ。
ヴィエラとエマは不安になり、手を繋いで老齢の女性を見つめる。
真っ白な髪は優雅に結い上げられ、大粒の宝石が付いた髪留めが飾られていた。ドレスは落ち着いた深緑だが、施された刺繍は恐ろしく緻密。一目でアンブロッシュ公爵家と同格の、高位の貴族だと分かる。
けれどアンブロッシュ公爵夫妻に対しても、両親はここまで緊張感を見せなかった。
老齢の女性はニッコリと笑みを深め、ヴィエラに視線を向けた。
「ヴィエラ様は、あなた?」
「は……い」
「そう。甘い薄紅色の瞳にイエローブロンドの髪、幼い顔立ち……
急に褒められたが、どうしてか嬉しさを感じない。
値踏みの色を隠さない眼差しのせいなのか、女性から感じる畏怖で余裕を失っているからなのか。ヴィエラは困惑の表情を浮かべた。
そんなヴィエラの反応を楽しむような笑みを浮かべながら老齢の女性は、ソファに腰を下ろした。
「立ち話もなんですから、皆さまお座りになって」
父と母が固い面持ちのまま従うのを見て、姉妹もゆっくりと腰を下ろした。
老齢の女性が満足そうに頷くと、父が姉妹に向けて重々しく口を開いた。
「ヴィエラ、エマ、この方は王家から降嫁なさったバルテル侯爵家の大奥様――セレスティア夫人だ。ご挨拶しなさい」
老齢の女性はセレスティア・バルテル――ヴィエラがよく知る後輩の魔法使いクレメントの祖母だった。
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