第30話「甘え③」
遠征の前倒しが決まった日、遅くまで打ち合わせしていたのだろう、ルカーシュが屋敷に帰宅したのはヴィエラが寝る少し前の時間だった。
ヴィエラがぼんやりと外を眺めていると、アルベルティナが屋敷の上を通って行くのが見えた。
屋敷の中で出迎えるべきなのだろうが、この日だけは何となくヴィエラの足は外へと向かった。
裏口から出ると、厩舎から屋敷へと庭を歩いているルカーシュが目に入る。
疲れているのか、考えごとをしているのか、彼の視線は下に落とされていてヴィエラに気付いていない。
「ルカ様、お疲れ様です」
「ヴィエラ? わざわざここに来るなんてどうしたんだ?」
少し驚いた様子のルカーシュの表情に冷たさはない。きょとんと軽く頭を傾ける仕草は末っ子らしいいつも通りの彼だ。こちらが素だと分かる。
ホッと、ヴィエラの肩から力が抜けた。
「えっと、何かあったか?」
「昼間はさすが英雄様って感じでオーラが凄かったけれど、やっぱりいつものルカ様の方が良いなって。へへ、おかえりなさい」
威厳あるクールな姿も確かに目を引く格好良さはあるけれど、ヴィエラはいつもの親しみを感じる青年の方が好ましい。
正直に答えたものの、あとからなんとなく恥ずかしくなり、誤魔化すように笑って見せた。
するとルカーシュは不思議だ、と言いたげな表情を浮かべた。
「昼間の姿の方が良いと言う人の方が圧倒的に多いのに、ヴィエラは珍しいな」
「どう考えても、近寄りがたいですもの。アンブロッシュ公爵家の三男で、救国の英雄ってだけで逃げ腰になる要素がてんこ盛りなのに、クール要素なんて加わったらちょっと……」
「――っ、ヴィエラはそういうタイプだったな。今も俺に緊張しているのだろうか?」
「慣れもあると思いますが、近寄りがたい条件を覆すくらい話しやすい相手と分かっていますから、今はそれほど緊張しないですね」
異性だと強く感じてしまう彼の距離感に緊張している事実を除けば、ルカーシュは一緒に過ごして楽しい相手だ。
「昼間の姿の方が良いとか、今も緊張するとか言われなくて良かった」
彼は明らかに安堵の表情を見せた。そして嬉しそうに、口元を緩める。まるでヴィエラに素の自分を拒絶されるのを恐れていたかのようだ。
ルカーシュの方が身分も、経歴も、容姿もすべて良いため、本来であればヴィエラに気を遣う必要のない立場。こちらの機嫌を窺う弱気な一面があり、少しばかり意外だ。
いじらしく、長女気質が刺激される。
「私の前では好きなように過ごして大丈夫ですよ。ふざけたいときはふざけ、甘えたいときは甘えても受け止めますから! 例えば遠征先で風船ベッドの使用許可が出るようにするために、技術課から持ち込みの申請をねじ込むこともできますし、どうします?」
任せなさい、と胸を張って言ってみる。
「風船ベッドは魅力的だが、皆に羨ましがられ量産となったら、俺ではなく次はヴィエラが引き留めに合いそうだからやめておこう。結婚の時期が遠のくことは避けたい。くれるのなら、遠征前に何かお守りになりそうな物が欲しいのだが……頼めるか?」
「お守りですね。希望のものはありますか?」
「いつも持ち歩けそうなものだと助かる。ヴィエラも忙しくなるだろうから、簡単に用意できる市販品でかまわない」
トレスティ王国でお守りの定番と言えば、神獣グリフォンを刺繍したハンカチだ。
しかしヴィエラには完成させられる腕も時間もない。ルカーシュの遠回しな「刺繍は無理しなくて良い」という配慮はありがたい。
だからと言って、真っ白なハンカチを渡すのも味気ない。お守りらしく、無事に遠征が終って欲しいと祈っていることが伝わるものにしたいところだ。
「出発前までに用意するので、考えさせてください。お待ちいただけますか?」
「ありがとう。できれば遠征の出発直前の広場でくれれば嬉しい」
「ならギリギリまで時間はありますね。何が良いかな……」
その場で考え始めようとしたヴィエラの手を、ルカーシュが握って屋敷に誘う。
そうして彼女はエスコートされるまま歩みを進めたのだが、手を繋ぐことを自然に受け入れている自分に少し驚いた。
出会ってまだ一か月ほどで。けれど、彼が隣にいるのが当たり前の存在になりつつある。
(利害一致から始まった契約上の婿様で、お父様が健在だと分かった今、ルカ様の気持ち次第でいつでもこの関係が解消できる状態……前は仕方ないと思えたけれど、今はなんか嫌だなぁ)
離縁はいつでも良いという約束だが、良好な関係を継続していきたいと願ってしまう。
そのためには利益なり、あるいは精神的に、何かしらの面でルカーシュがヴィエラの存在が好ましいと思ってもらう必要があると考える。
もちろん「未来の婿様を大切にする!」という当初からの決意は変わらず、それに上乗せしての気持ちだ。
(まずはルカ様に喜んでもらえるお守りを用意しないと!)
ルカーシュとの関係を続けたいと願ってしまう理由に目を向ける前に、ヴィエラはお守り候補を頭の中であげていく。
その真剣な彼女の表情を、嬉しそうに見つめるルカーシュのことなど知らずに。
そうして互いの仕事に忙しく過ごしながら二週間、遠征の出発の日を迎えた。
遠征先は魔物が一番活動的だと言われている森と、人間が暮らす領地の境界がある東の地方。どの地方よりも設置されている結界石の数が多く、高低差の激しい険しい土地だ。
メンバーは選抜された神獣騎士と王宮騎士、クレメント率いる結界課二班に所属する魔法使い全員。そこに魔法局の上層部から、リーダー経験のある一班の前班長ゼンが加わった。
クレメントは班長としての経験は浅いが、結界課二班の班員には大規模遠征の経験者が多いことから、フォローは最低限のようだ。
目標は、一か月以内に結界石の魔法式を更新すること。
懸念があるとすれば、遠征が前倒しになった理由だ。どの結界石も補充された魔力の消費が早く、残量が少ないらしい。媒体となっている結界石自体の状態を確認し、必要であれば石ごと交換する可能性がある。
石碑自体に問題があれば、この魔法式更新の遠征とは別に、交換のために再び大規模な遠征をしなければいけない。
(そうなればルカ様は重要な遠征のために引退は延期になるだろうし、私も装備を作るために引き留めに合うのは必至。またルカ様は残念がるでしょうね。でも今は何より、目の前の遠征が無事に終わることを祈るばかりだわ)
いつもは見送りなどせず事務所で仕事をしていたヴィエラは、遠征隊が集まる広場に足を運んで、準備の最終チェックをする人たちを眺めた。
広場に漂う緊張感に、彼女の背筋も伸びる。
聞いた話によれば、いつもの遠征より参加する神獣騎士と王宮騎士の数が多いらしい。そしてベテランではなく結界課の二班が選ばれたのは体力がある若手が多く、魔物と遭遇した際機敏に回避行動に移るのを想定してのこと。
危険な目に遭う前提での遠征だ。
ヴィエラは小箱をぎゅっと胸元で抱きしめ、奥へと進む。そしてすでに神獣の背に乗っている婚約者――ルカーシュ・ヘリングのもとにたどり着く。
「ルカ様、約束通りお守りをお届けにまいりました」
「ヴィエラ、待ってた。早速、もらっても?」
ルカーシュの顔は団長らしい凛々しい表情だけれど、目の奥を期待で輝かせている。
ヴィエラは小箱を開けて、彼に中身を見せるように上に掲げた。
中身は縹色のリボンだ。端に小さく、歪なオリーブのモチーフの刺繍が入っている。
箱の中からリボンだけを取ったルカーシュは刺繍を眺め、軽く瞠目した。
「もしかしてヴィエラが刺繍を?」
「はは、苦手なので拙い出来栄えですが、無事を祈る気持ちはしっかり込めたつもりです」
「君も忙しくて、疲れていたはずなのに――ありがとう。大切にする」
ルカーシュはリボンを胸元に一度当てたあと、長い髪を編んでいる毛先のゴムの上からリボンを巻き、固めに結んだ。
「こういう意味でリボンを選んでくれたんだよな?」
ポケットに入れたり、装備のどこかに結んだりするために選んだリボンだったので、髪を結うのに使ってもらえるのは考えていなかった。
思った以上に大切な使われ方に驚くが、似合っているのでそういうことにしておく。
「はい、よくお似合いです。それと、これはティナ様に」
ポケットに入れていたもうひとつの小箱から、ボウタイを蝶々結びで固めたブローチを出した。ルカーシュと同じ縹色のリボンだ。
「お揃いか」
彼の口元が、軽く緩む。
「はい。邪魔にならないところに、あとで着けていただければ嬉しいです」
「良かったな、ティナ」
応えるようにアルベルティナは「キュルルル」と嬉しそうに鳴いて、ヴィエラの体に頭を擦り付けた。
ヴィエラは両手で頭を受け止め、「怪我をしないでくださいね」と撫でながら伝える。
「ルカ様、ティナ様、お気を付けて。帰りをお待ちしております」
「あぁ、いってくる」
「キュル!」
ヴィエラは願いを込めて頭を一度下げてから、彼らのもとを離れた。技術課の同僚がいる場所に戻り、出発の姿勢を整える遠征隊を見守る。
馬に騎乗したクレメントが遠征開始を宣言すると、出発の笛が広場に鳴り響いた。
アルベルティナを先頭に、神獣グリフォンが空に舞い上がる。それを追うように王宮騎士と結界課の魔法使いが馬を走らせ門から出ていった。
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