第15話「確認④」
昨日、何も抵抗できなかったヴィエラは反射的に周囲を見渡し、逃げ道を探した。
まだ他の職員は仕事中で誰も回廊にいない上に、鍵がかかっていて近くには扉が開かない部屋ばかり。
「ヴィエラ先輩?」
答えないことを不思議に思ったクレメントが、手を伸ばしながら一歩近づいた。
ヴィエラが思わず大きく肩をビクッと跳ねさせると、彼は足を止めた。そして伸ばしかけていた手を下ろし、強く拳を握った。
「昨日は、すみませんでした。冷静を欠き、傷つけてしまいました」
「え?」
クレメントから謝罪がもらえるとは想像していなかったヴィエラは、あっけにとられる。
「手、痛かったですよね? 男で、しかも訓練している人間の握力で握られたら……その、大丈夫でしたか?」
しかも叱られるのを怯える子犬のように、不安げにアンバーの瞳を揺らしている。
いつも余裕の笑みを浮かべ、尊大な態度で相手を手の平で転がすような男が今、ヴィエラに許しを乞うように腰を低くしていた。
明日は雨が降るかもしれない――とクレメントの異変を不思議に思いつつも、こんな弱った姿を見せられては怒る気も、怯えてしまった気持ちも薄れていく。
「問題ありません。痣はできてしまいましたが骨に異常もなく、生活に支障がない程度ですから」
「骨を心配するほどの痣……本当に、すみませんっ。どうお詫びをしたら良いのか」
クレメントは悔し気に眉間に皺を寄せると、深々と頭を下げた。
どうも今日の彼はおかしい。
「頭をお上げください! ほら、こんなに動けるくらいピンピンしているから、大丈夫ですよ。元気ですよ」
キビキビと両腕を上に伸ばしたり曲げたりして、動きに問題がないことを必死に伝える。
「ヴィエラ先輩、あなたって方は――」
クレメントが頭を上げたはいいが、次は今にも泣きそうな顔をされてしまった。
わからない。この男がまったくわからない。
見たこともない様子の彼に戸惑い、ヴィエラはオロオロと手を彷徨わせる。
するとクレメントはもう一度「取り乱し、すみませんでした」と小さく謝罪の言葉を継げると、表情を和らげた。
魔法学校でゼミの後輩だったときによく見た、懐かしい落ち着いた笑みだ。
ヴィエラもホッと肩の力を抜いた。
「結界課にもご迷惑をかけるのに、私も急に話を進めて申し訳ありません」
「いえ……ちなみに、いつ結婚して退職するつもりなんですか?」
「できれば最短の一か月後でできないかと室長と相談中です」
「一か月!? どうしてそんな急いでいるんですか?」
「お父様が倒れたと連絡があって……婿を探せと。妹はまだ後継者になれない年なので、私が子爵家を継ぐために色々と動かないといけないんです」
簡単に理由を説明すれば、クレメントは表情をほんの少し険しくさせた。
「ルカーシュさんは先輩の事情を知っているんですか?」
「はい。夜会で婿探し苦戦し途方に暮れていたところ彼と出会い、手を差し伸べてくれたんです」
「そういうことか……はぁ」
ついには額に手を当て、長いため息をついてしまった。まるで身内のように事態を深刻に受け止めてくれている様子だ。
跡取り問題に対し、次期侯爵家の当主であるクレメント様に思うところがあるのかもしれない――そんな風に思っていたら、急に彼がヴィエラの手を握った。
先日とは違い、優しく包み込むような力加減だ。真剣みを帯びたアンバーの瞳が、彼女を見下ろした。
「クレメント様?」
「ヴィエラ先輩、僕が婿になるのはどうですか?」
「――は、はいっ!?」
「当初は妹のエマ嬢が後継者になる予定だったはずですよね? 彼女がその資格を得るまでの間、僕は婿としてユーベルト家に籍を置き、エマ嬢が子爵位を継ぐなり僕の籍を侯爵家に戻すんです。そしてそのまま妻になるヴィエラ先輩に、侯爵夫人の地位をお渡しします」
午前中にエマが言っていた話そのままの提案を、クレメント自身からされてしまった。
ヴィエラは驚きを隠せない。口をハクハクとさせ、長身の彼をただ茫然と見上げる。
「会って間もない男より、何年も交流のある僕の方が良いと思いませんか? 僕は心配なんです……ルカーシュさんに、ヴィエラ先輩の人の良さを利用されるんじゃないかって。もしヴィエラ先輩が望むなら、アンブロッシュ公爵家に話をつけます」
確かにクレメントの生家バルテル家は、爵位では下になるものの、貴族の世界では公爵家と同等の影響力を有している。
十分に交渉できる立場ではあるが、それは彼自身も分かっているように『ヴィエラが望まぬ婚約を強いられ、将来バルテル家への嫁入りを望んだ場合』に限る。
(どうしてこんなに親身に考えてくれているのかしら? 痣を作ってしまった償いをしようとしている? それに初対面の人と婚約したことを、後輩なりに心配してくれるのかしら。でもこの婚約は無理強いさせられたどころか、私から持ちかけたものだわ)
ヴィエラは相手を安心させるよう、ニッコリと笑みを浮かべた。
「ルカーシュ様は良い人ですよ。アンブロッシュ公爵も夫人も優しくて、大切な息子を婿に出すことに賛成してくださっているから大丈夫。心配してくださって、ありがとうございます」
「――っ、無理していたりは」
エマといい、クレメントといい、心配性すぎる。ヴィエラは苦笑しながら答えた。
「本音です。それに三男の婿入りと、一時とはいえ跡取りが他の家の婿入りするのでは話のレベルが変わってきます。しかも相手は貧乏で格下の子爵家。不可能ではないかもしれませんが、公爵家と対立しかねないことを現バルテル侯爵が許すとは思えません。クレメント様こそ無理してはいけませんよ」
「……わかりました。でも万が一、ルカーシュさんのことで困ったことがあったら、いつでも相談に乗りますから言ってください。彼とは特に親しくはないけれど、これでも昔からの顔なじみなので」
クレメントは一度念を押すようにヴィエラの手を包み込む手に力を加えてから、渋々といった感じで解放した。
「お気遣い感謝いたします。そのときはお願いします」
「はい、ヴィエラ先輩が頼ってくれると嬉しいです」
「では早速、クレメント様がここにいるということは、ルカーシュ様も遠征から無事に帰還したということですよね? どこに行けばお会いできるか分かりますか?」
「本当に先輩は、仕事以外は抜けていますよね」
ものすごく不服そうな目で見下ろされた。
(あれ? 急に気軽に相談しすぎた? 頼ってと言ったじゃない)
急な裏切りにショックを受けるが、仕事以外はポンコツだということは自覚していて否定できないため、しょんぼりと項垂れた。
すると頭上から小さなため息が聞こえた。
「仕方ありませんね。おそらく厩舎でグリフォンについた土を落としているところだと思います。案内しましょうか?」
「場所が分かればひとりで――」
「神獣騎士のエリアは、神獣グリフォンを刺激しないよう人通りがどこより少ないんです。僕が人のこと言えませんが、か弱いレディがひとりで歩くには王宮内であっても心配です」
クレメントが肘を出した。エスコートしてくれるらしい。
そこまで面倒をみてもらうのは何だか気が引けるが、せっかく和解した相手の厚意を無下にするのも忍びない。
「では、お言葉に甘えて。お願いします」
ヴィエラは遠慮がちに、クレメントの腕に手を添えた。
そうして彼に連れられ、神獣騎士のエリアへと向かうことになった。
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