第37話
「どうして始ちゃんからお兄ちゃんの匂いがするの?」
「空さんのお兄さん?」
「始ちゃんとお兄ちゃん全然似てないから、今まではっきり気付かなかったけど。お兄ちゃんがここにいるみたいな感じがする」
「ごめんなさい、私にはなんのことだか」
「もしかして」
空はやけに真剣な面持ちで先坂の前にひざまずいた。
「始ちゃんのお腹の中に、わたしのお兄ちゃんの赤ちゃんがいるの?」
先坂が凍り付いた。たぶん脳のスイッチが切れたのだろう。
「さすがにその発想はなかったな」
ホームズが感心したように口を挟んだ。
「なかなかいい所を突いている。とはいえ、先坂くんときみのお兄さんが肉体的に親交を結んだという事実はまずないだろうね。ストラディバリウスを賭けてもいい」
洋子は先坂の元に駆け寄った。
「先坂さん、まずは落ち着いて。空の言うこといちいち真に受けてたら身が持たないから。適当に聞き流しとけばいいの。ねっ」
先坂は反応しない。「わたしの兄と子供を作ったか」などとクラスメイトからまじ顔で問われれば、たいていの女子小学生は驚くに違いない。
「もしもし、先坂さん?」
それでもこの茫然自失っぷりはただごとではない気がした。洋子をわざと無視しているのではない。そもそも声が届いていない。目からは理性の光が消え失せて、虚ろに空を見返すその姿は、さながら。
洋子の背に鳥肌が立った。
さながら “もの”に憑かれたかの如く。
「始ちゃん……お兄ちゃん?」
空が呼び掛けた瞬間だった。
換わった!
理性ではなく心で洋子は知った。今先坂の体を“つき”動かそうとしているのは先坂ではない。誰か別の魂だ!
「空っ!!」
「きゃっ!?」
〈先坂〉はバネが弾けるように空に抱き着き、一気に押し倒した。空の方が体は大きい。力だって強いだろう。いつもの先坂が相手なら空はその気になれば押し除けられる。でもあれは無理だ。先坂の姿に重なって、二回り以上も大きい白衣の男の姿を幻視する。瞬きした後には消えていたものの、ただの気のせいだとは思わなかった。たとえ洋子が全力を振り絞ったとしても、あれはきっと引き剥がせない。
いっそ襲っているのが本物の男ならば、殴ってでも最悪刃物を使ってでも空を守るために戦うけれど、体は先坂のものなのだ。傷つけるなど論外だ。
どうにかしてよ!!
この場にいる中ではぶっち切りの腕力の持ち主であるはずの青年のことを怒鳴りつけようとして、洋子は息を呑んだ。
誰よこれ?
こっちにも何か憑いたのかと戦慄しそうになった。決して不細工というわけではないのに、作り物めいた無表情のせいでいつも冴えない印象のワトソンが、今はまるで大出力エンジンが始動したみたいな精気に満ち満ちていた。
黒いサーチライトみたいな瞳が真っ直ぐに〈先坂〉を捉え、狙い定めて構えられた右手にあるのは他でもない――少女の絵が映し出されたタブレット。
どうしようっていうのよ、それで。
洋子は膝が脱けそうになった。一瞬でも気圧されてしまった自分が悔しい。やはりこんな男は頼るだけ無駄だ。自分だけでは難しくても、遊佐と力を合わせればきっとやれる。洋子は助けを求めて振り向いた。
「ホームズ!!」
「承知!!」
その刹那、ワトソンとホームズが鋭く掛け合い、続いて空間を何かが駆け抜けた。それはワトソンの持つタブレットから飛び出して先坂の中に飛び込み、先坂の中から弾き出された別の何が遊佐の中へと吸い込まれる。
……なに、今の?
理解不能のまま室内に視線をやると、先坂はぐったりと突っ伏して、その下にいる空は〈先坂〉の狼藉のせいで服が乱れている他は平気そうだ。目が合うとふわりと洋子に向けて笑う。心の中でキスをしてから洋子はワトソンを見る。今回は心構えができていたせいかさっきほどの衝撃はなかったものの、それでも鈍だった刃物を研いだ直後みたいな凄みを感じる。ぶっちゃけずいぶんかっこよくなっている。でも近付きになりたいとは思えない。はっきりいって怖い。剥き出しの高圧電線の傍にでもいるみたいに肌がざわざわする。まさか本当に強力な電磁波を発して壊したわけではないだろうが、いつも持っているタブレットPCの画面が真っ黒だ。バッテリー切れだろうか、と思っている間にさっきとは逆に先坂からタブレットへと何かが走って思わず目を閉じる。再び開いた時には普段と変わりない取り澄ました美少女が貼り付いていて、ほっとする。いや洋子としては別に変態の持っているデータが消えようと機械が駄目になろうとどうでもいいのだが、人間さながらに受け答えのできる美少女キャラクターは、低学年の子達の間では意外と人気があったりするのだ。
「あれ……私」
夢から覚めたみたいに先坂がぼんやりと呟いた。
「始ちゃん、大丈夫?」
「ええ、別になんとも……って空さん? なんでここにいるのよ、あと二人きりの時以外は名前で呼ばないでって、違う、ここはええと、空さん、じゃなくて逢田さんの部屋か、どうして私」
「いいからさっさと空の上からどきなさい」
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