第36話

 砂が降り積もるような沈黙を破り、ホームズの声が響く。

「まさにそれこそが核心だ」

 可憐にして凛としたその姿から皆は目を離せない。


「一連の事件は全くもって普通ではない。姫木くんには犯行時の記憶がなく、先坂くんには記憶こそあるものの、動機が実に曖昧だ。例えば浴室の外の廊下で姫木くんを待ち伏せて、空くんのパンツを見つけ出した時のことだが、なぜそんなことをしたのか、どうして姫木くんのしたことが分ったのかと訊かれたらきみはなんと答える?」

「……急にそうしたくなったとか、なんとなくそんな気がしたとしか」


 この通りだよ、というようにホームズは両手を広げた。

「意識レベルに差はあるものの、主体性の欠如という点で二人の行動は共通している。そして本人にすら思いもよらぬ挙に出てしまうことをこの国では古来こう呼び慣わしてきた――まるで“もの”に憑かれたように、と」

 次元を違えた彼方から、映し身の少女が現し身の少女達を見はるかす。


「うん、分るな。疲れてる時って変なことしちゃったりするもんね。わたしもバスケの試合が終わった後、いっぱい汗かいたしお風呂入ろうと思って、バスケットコートの上で服脱ごうとしちゃって」


「逢田さん、いい子だからちょっと黙って」

 ベッドに戻った遊佐が空の口を塞いだ。


「あんたが何言いたいのか全然分んない」

 洋子はまるで意地を張るみたいに言った。ホームズは心外そうだ。

「姫木くんは真っ先に理解してくれるはずだがね」

「なんでよ」


「きみは実際に目撃しているからだ。現世の則を踏み越えた“もの”が、空くんと情を交わそうとしている場面を」

 初めて空と過ごした夜の怪事が、洋子の脳裡にありありと蘇った。なまめかしいあえぎ声を、いや苦し気な呻き声を洩らす空の上に覆い被さる白い人影。


「まさかきみは生身の人間が一陣の風と共に消え去るなどということが本当にあり得ると思っているのかい? それならば是非とも方法を教えてもらいたいね」

「知らないわよそんなの。でもどうせ手品かなんかでしょ」


「手品であれば種がある。テーブルマジックなら小手先の技でどうにかできるとしても、人体消失ともなればそれなりの仕掛けが必要だ。きみ達の部屋にはそういう物があったのかい?」

 あるわけがない。


「だけど他に考えられないじゃない」

「背理法というものを知っているかな。今回のケースに当て嵌めてみると、もしきみが目撃したのが生身の人間だったとすれば一瞬で消え去ってしまうことなどあり得ない。だが実際には一瞬で消え去った。これは矛盾だ」


「だから?」

「最初の仮定が間違っていたんだよ。もし生身の人間ならば、という」

「要するになんなのよ。ちゃんと分るように言いなさいよ」

「つまり」

 ホームズは結論を述べた。


「今回の一連の事件の犯人、即ち先坂くんと姫木くんの体を使って空くんの衣類を盗み出し、寝ている空くんと愛し合うことを欲して果たせず消え去ったのは、生身の人間にあらず、生霊だったということだ」


 洋子は足下の床が急に抜け落ちてしまったような浮遊感にとらわれた。自分はいったい今どこにいるのだ。この茶番劇はなんなのだ。


「一応筋は通ってますね」

 遊佐が認めた。ある意味ホームズのとんでも推理以上にショッキングだ。


「綾香、こんなでたらめ信じるの!?」

「半信半疑っていうところかしら。他にもっといい説明がないなら検討する価値はあると思う。『不可能を取り除いていって残ったものは、どんなにありそうもなくても真実に違いない』」


「あんたまでそんなわけの分んない小理屈を……」

 脳がもう過負荷寸前だった。ホームズだけでも手に余っているというのに。誰か洋子の味方はいないのか。

 救いを求めて見た先で。


「……お兄ちゃん?」

 空が不意に呼び掛けた。


 もちろんこの場に空の兄などいはしない。そして空はどう見ても目を覚ましている。寝呆けてワトソンと兄を取り違えたということはない。

 ならばどういうことなのか。


 空自身にも判然としないようだった。気配はすれど姿は見えず、とでもいうようにあちこちと視線をさまよわせ、やがて洋子のところで止まる。


「ど、どうかした?」

 上擦った声で尋ねる。空はすぐに首を振る。

「やっぱり違う」

 なんだか自分が駄目出しされたみたいで洋子は軽く凹んだ。その間に空の注目は先坂へ移った。


「……な、なにかしら」

 先坂も対応に困っているようだ。

「お兄ちゃん、いるの?」

「そ、空さん? ちょっとあの」


 なに馴れ馴れしく名前で呼んでるのよ、と目下の問題とは全く関係のないところで洋子は腹を立てる。


 空はひどく先坂のことが気になるらしく、ベッドの上で膝を付いてにじり寄り、今にも落ちそうなほど縁から身を乗り出した。落ちた。


「空っ」「逢田さんっ」「空さんっ」

 皆の心配をよそに、空は身軽く立ち上がった。空の椅子に座る先坂の前に立つと、身を屈めてぐぐっと顔を覗き込む。先坂は影を縫い止められてしまったみたいに動けない。

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